責任と反省(3)
「そのとき何が一番大切か」の判断を適切にできる人はどれぐらいいるのだろう。
前回の責任や反省(2)を考えていてふと思った疑問だ。
よく犯罪者が小さな犯罪を隠したいが為に、さらに大きな犯罪に手を染めてしまう事が有る。
もっと身近でいえば一つの小さな嘘を守る為に大きな嘘をついてしまう事などは、大なり小なりたいていの人が経験する事だと思う。
小さな失敗とそれに伴う責任を表沙汰にしたくないが為に、より大きな失敗とより大きな失敗を招き入れてしまう事も有る。
これなどは組織に居れば目にしたり感じたりすることもあるだろう。
企業犯罪、官僚の腐敗などはこれにあたりそうだ。
時にそれは「必要悪」としてまかり通る事がある。
問題が起こるまでは周りから見てみぬふりをされることも有る。
暗黙の内に、それを察する事を要求される事もある。
それを自らの責任として黙って受け入れる事が社会人として必要な事であるかのように諭される事も有る。
そんな今の身近な現実の中でどれだけの人が適切な判断を下す事ができるのだろう。
「50歩100歩」という言葉がある。
50歩逃げるのも100歩逃げるのも「逃げる」事においては同じであるという概念だ。
これは自らの心がけとしては誠に良い格言だと思うのだが、これが他人に向けられるてしまうと、そうとも思えない時がある。
本来は間違いを犯さないように自らを戒める為の言葉であると思うのだが、一度間違いを犯してしまったなら、二度間違いを犯そうが三度間違いを犯そうが同じである、と受け取られる事がある。
あるいは
他人が多くの間違いをしていようとも、それを見て自らの少ない間違いを正当化してはいけないと戒める為の言葉であるとも思うのだが、普段「良い」といわれる事を実行している他人がたまたま間違いを犯したとき「幾ら普段善人ぶっていても所詮偽善でしかない。」と糾弾し、自らの数多い間違いを正当化するために使われてしまう事も多くなったように思う。
少ない間違いをもって偉ぶる姿も、間違いを正当化する姿もいずれもここで望まれる姿ではないはずだ。
前者は自らの間違いを一顧だにしない姿であり、後者は一部の齟齬でその全体を特徴付け、否定・糾弾してしまう理窟である。
少し違うが「憲法」や「国連」や「平和」や「現実」に関する肯定・批判をする時も構造的にこれに似たような理窟を目にする事がある。
以前書いた「迷惑」ということばも同じだと思うが、いつのまにか自らの戒めの言葉が他の非難・否定の言葉に成り下がってしまったような気がする。
人は間違いを起こす。
だからこそ、東洋的には、「その間違いをできうる限り起こさぬように」という知恵がこのような格言を生んだのだと思うがそれが現代のリアリズムと結びついて逆に作用してしまったような気がする。
(西欧的な)リアリズムの世界では「人は間違いを犯すもの」であり、それを「もともと罪深いのが人である」事を前提とすることで受け皿が用意され、許しを請うことで「今」以降の生き方をもって再起を可能としている。
「間違いを起こさないよう」に生み出された知恵が「人は間違いを犯すもの」を前提にするリアリズムに出会ってしまった時にこれをどう処理するかでねじれてしまったのかも知れない。
「間違いを犯してはいけない」事を基盤に「人は間違いを犯すもの」であるというリアリズムだけを受け入れなければいけないならばそこで「所詮人は...」に陥るのも無理はない。
しかし、それでは多くの人にとって再起の道は閉ざされ、再起できない状態を自業自得として受け入れる事が求められるだけだということになりはしないか。
間違いを大局にたって修正する事も難しい。
このように再起が閉ざされる中で、どれだけの(間違いを犯す)人がより正しい判断ができるのだろう。
カナダやアメリカに住んでいた時に、ネイティブが自分の事を棚に上げ、臆面も無く正論をぶつけて来る彼らの姿に辟易し傲慢に思った事が多々あったが、実はこれがあるから何かを変えることも、再起する事もできるのだろうなと思う。
しかし、もう少し自戒が有ってもいいのではないかと思うのも日本人である私の本音である。
折衷を得意とする日本人ならばもう少し上手にこれらを融合する事はできない物だろうか?
そうすれば「責任」とか「反省」とかも今よりも社会の為に有効に(隠蔽体質やモラルを克服して)働きそうな気がするのだが...
「悪人正機」はこれに近い物なのだろうか?
不勉強で無知な私もまた罪深い。
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