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2005/04/27

責任と反省(3)

「そのとき何が一番大切か」の判断を適切にできる人はどれぐらいいるのだろう。
前回の責任や反省(2)を考えていてふと思った疑問だ。

よく犯罪者が小さな犯罪を隠したいが為に、さらに大きな犯罪に手を染めてしまう事が有る。
もっと身近でいえば一つの小さな嘘を守る為に大きな嘘をついてしまう事などは、大なり小なりたいていの人が経験する事だと思う。
小さな失敗とそれに伴う責任を表沙汰にしたくないが為に、より大きな失敗とより大きな失敗を招き入れてしまう事も有る。
これなどは組織に居れば目にしたり感じたりすることもあるだろう。
企業犯罪、官僚の腐敗などはこれにあたりそうだ。

時にそれは「必要悪」としてまかり通る事がある。
問題が起こるまでは周りから見てみぬふりをされることも有る。
暗黙の内に、それを察する事を要求される事もある。
それを自らの責任として黙って受け入れる事が社会人として必要な事であるかのように諭される事も有る。

そんな今の身近な現実の中でどれだけの人が適切な判断を下す事ができるのだろう。

「50歩100歩」という言葉がある。
50歩逃げるのも100歩逃げるのも「逃げる」事においては同じであるという概念だ。
これは自らの心がけとしては誠に良い格言だと思うのだが、これが他人に向けられるてしまうと、そうとも思えない時がある。

本来は間違いを犯さないように自らを戒める為の言葉であると思うのだが、一度間違いを犯してしまったなら、二度間違いを犯そうが三度間違いを犯そうが同じである、と受け取られる事がある。
あるいは
他人が多くの間違いをしていようとも、それを見て自らの少ない間違いを正当化してはいけないと戒める為の言葉であるとも思うのだが、普段「良い」といわれる事を実行している他人がたまたま間違いを犯したとき「幾ら普段善人ぶっていても所詮偽善でしかない。」と糾弾し、自らの数多い間違いを正当化するために使われてしまう事も多くなったように思う。
少ない間違いをもって偉ぶる姿も、間違いを正当化する姿もいずれもここで望まれる姿ではないはずだ。
前者は自らの間違いを一顧だにしない姿であり、後者は一部の齟齬でその全体を特徴付け、否定・糾弾してしまう理窟である。
少し違うが「憲法」や「国連」や「平和」や「現実」に関する肯定・批判をする時も構造的にこれに似たような理窟を目にする事がある。

以前書いた「迷惑」ということばも同じだと思うが、いつのまにか自らの戒めの言葉が他の非難・否定の言葉に成り下がってしまったような気がする。

人は間違いを起こす。
だからこそ、東洋的には、「その間違いをできうる限り起こさぬように」という知恵がこのような格言を生んだのだと思うがそれが現代のリアリズムと結びついて逆に作用してしまったような気がする。

(西欧的な)リアリズムの世界では「人は間違いを犯すもの」であり、それを「もともと罪深いのが人である」事を前提とすることで受け皿が用意され、許しを請うことで「今」以降の生き方をもって再起を可能としている。

「間違いを起こさないよう」に生み出された知恵が「人は間違いを犯すもの」を前提にするリアリズムに出会ってしまった時にこれをどう処理するかでねじれてしまったのかも知れない。
「間違いを犯してはいけない」事を基盤に「人は間違いを犯すもの」であるというリアリズムだけを受け入れなければいけないならばそこで「所詮人は...」に陥るのも無理はない。
しかし、それでは多くの人にとって再起の道は閉ざされ、再起できない状態を自業自得として受け入れる事が求められるだけだということになりはしないか。
間違いを大局にたって修正する事も難しい。

このように再起が閉ざされる中で、どれだけの(間違いを犯す)人がより正しい判断ができるのだろう。

カナダやアメリカに住んでいた時に、ネイティブが自分の事を棚に上げ、臆面も無く正論をぶつけて来る彼らの姿に辟易し傲慢に思った事が多々あったが、実はこれがあるから何かを変えることも、再起する事もできるのだろうなと思う。
しかし、もう少し自戒が有ってもいいのではないかと思うのも日本人である私の本音である。

折衷を得意とする日本人ならばもう少し上手にこれらを融合する事はできない物だろうか?
そうすれば「責任」とか「反省」とかも今よりも社会の為に有効に(隠蔽体質やモラルを克服して)働きそうな気がするのだが...
「悪人正機」はこれに近い物なのだろうか?

不勉強で無知な私もまた罪深い。

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2005/04/26

責任と反省(2)

悲惨な列車事故が起きてしまった。
人はいつか死ぬし、毎日何人もの命を交通事故や様々なアクシデントで亡くしている事を知ってはいても、車内で起こったであろう地獄絵図の中に私自身を置いて見ればその理不尽は言葉に言い表せない。
実際にその場に居て命を落とされた方の本当の恐怖はもう分からない。
実際にその場に居てその光景を目にした方の本当の恐怖は私には分からない。
私の想像などはしばらくすれば薄れてしまうのであろうが、被害者の方はそれを忘れる事は無いだろう。

大事な人を失った遺族には、普通の一日を送るべく交わしたごく普通の会話も、もう二度と訪れない。


何気なく、普通に身の回りに有り,それほど危険を感じずに利用している様々な物は膨大なエネルギーをもっていて、一度そのコントロールやそれを成り立たせている信頼を失うと、それは突然狂気になって人に牙を向く。
交通事故も、飛行機事故も、原発事故も、貿易センタービルの崩壊も、環境破壊も、戦争も皆そうである。
等身大の人が耐えうるエネルギーよりも、大きなエネルギー生み出しそれを操るのが文明である以上それから逃げる事はできない。
そこから逃げられないのなら、生存の為に、それをコントロールし,確かな信頼を維持することを宿命づけられる事からも逃げられない。

今回の事故も、どこかで信頼が損なわれているのだろう。
それが
JRの安全意識にあるのか
運転手のモラルに有るのか
車両設計技術者の意識に有るのか
置石をしたかもしれない人が現れるような世間のモラルにあるのか
全く、予期もしない物に有るのか
それは分からないが、きっとどこかに信頼を裏切る物があるのだろう。

マスメディアでは早速、非難の対象探しに躍起である。
明言せずとも、運転手の資質に充分な焦点をあてたりしている。
(今はまだ、運転手もまた救出されていない犠牲者でしかないのであり、彼の安否を心から気遣う家族も居るはずだ)
記者会見などではどこかの記者がJRを早々と糾弾口調で問い詰めている。

それを見越したようにJRも早速、責任を意識した、置石を思わせる「粉砕痕」なる私の知らない語を紹介してくれた。

理不尽なインシデントが起きた時、「分からない」事は私も不安で,少しでも早く「この事故は一体なんだったのか」を知りたいが、「不確かな情報」で「不確かな予想」をしてどこかに「不確かな非難の対象を見つけ出す」ことが「今」すべき事とも思えない。
「まだ分からないこと」は「わからない」のだ。

先日のエントリー反省と責任で取り上げた「回転ドアの事故」と似たような構図が頭をよぎる。

まずは非難よりも救出であり、被害者、遺族、レスキュー、医師等への「いたわり」「理解」であり、不確かな情報の確実化であり、原因究明であり、その後にやっと来るのが責任や(来るとしても)糾弾ではないだろうか?
今の時点での不確かで過度な糾弾は「真の原因解明」の妨げにしかならないのではないだろうか?
どんな原因が今後明らかにされるにせよ、人命が失われた以上「そのこと」だけでも、「安全に人を運ぶ責任」を負った「JR」等の責任が回避される事が無いのは言うまでも無いが、それがすなわちマスメディアに当事者をトコトン糾弾する「錦の旗」を与える事にはならないと思う。
「錦の旗」が与えられる事があったとしたら被害者であり、遺族であると思う。
仮に被害者や遺族が「責任所在の不確かな当事者」に不確かな糾弾をしたとしても、それは理解されなければいけないと思う。
ただ、マスメディアや世間がそれに過度に同調して「真の原因解明」を阻害してはいけないと思う。
「同調」する代わりに「いたわり」と「理解」の目を向ける立場であって欲しい。

責任や糾弾も必要では有るが同じ悲劇が起こらぬように「真の原因究明」がその後ろに隠れてしまわないように願わずにはいられない。

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2005/04/18

体験ツアー

半年ほど前、最近の現実論には「人の要素」が加味されているのかというエントリーを書いたことがある。

力の強い物が暴力を使って従わせる事はできるだろう。
しかし、それで終るわけではない。
殴られれば痛いと思うのが人であり、理不尽を受ければ恨みを持つのが人であり,それを簡単には忘れないのが人である。
そして、その思いを「合理的」な反応などで処理しないのも人である。

目的合理の為だといって暴力に対し恨みを持つことを不合理で間違っていると非難しても、人が全てを合理的に論理的に感情をコントロールできるならば、同様に暴力の根源である野生もコントロールできるはずであり平和などもわけも無く実現できるはずである。
力が「現実」であるならば、それにより生み出されるネガティブな感情も「現実」であり、その感情が引起す行為もまた「現実」である。
それを「現実」と見る事ができなければ、その「現実論」は「現実的」とはとてもいえないと思えるのだが前者のみが「現実論」としてまかり通っている。

感情には「恨み」や「憎しみ」や「ねたみ」や「悲しみ」や「不安」や「せつなさ」もある代わりに「喜び」も「安らぎ」も「共感」も有り、これらが幸福感や生きがいと一体をなしている以上、人らしくあるためには、これらを抹消する事もできない。

「安らぎ」を得たいが為に「他」に対する「不安」を取り除こうとすれば「恨み」をかうことも有る。
「喜び」を得たいが為に富を求め「他」を踏みつけるなら「ねたみ」をもたれることも有る。
身近な者との「共感」を持ちたいが為に「他」を相対化して利用してしまえば「不安」をもたれることもある。

人らしくあるために大事にしたいポジティブな「感情」も、それだけしか見ずに振り返る事が無く闇雲にそれを求めれば、ネガティブな「感情」を生み出してしまう。

今報道されている中国、韓国の反日気運の高まりは合理的なのだろうか?
中国や韓国の(合理的な)陰謀だという人もいるだろう。
しかし、最初はそうだったかもしれないが、今はそんな秩序立った物だとは私は思わない。

日本人がそれに対して反感を持つのは合理的なのだろうか?
日本の政治の国内向けの政策や外交の駆け引きだという人もいるだろう。
しかし、最初はそんな思惑が有ったかもしれないが、今はそんなに高尚な物だとは私は思わない。

10年前よりも後には引けない「感情」がある、1年前よりも後に引けない「感情」がある、昨日より後に引けない「感情」もある。
合理性や論理性で流れができているのではない。

もともとの願いであるポジティブな「目的」や「感情」が次第に影をひそめていき、ネガティブな「感情」を着々と生みつつ、それが行為となって、形となって少しずつ少しずつ現れそれに囚われ始めている。
以前より互いに引けないところに感情が向かっているのに、互いに「相手がいつか正しさに気付く」と言う結論を頼りない根拠を当てにして、たいしたことでは無いとタカを括っている。

一部の中国人は「愛国無罪」と掲げていたが、これこそが非難すべき「過去に日本が犯した間違い」である事に気がつかない。
一部の日本人は枝葉である歴史の記述の齟齬を理由に「国土を荒廃させ、膨大な被害を自国民にも隣国にも与えた」過去の明らかな「失敗」を反省し同じ悲劇を繰り返さないという本道にまで結び付けこれも葬り去ろうとしている。

ちょっとした注意深さがあれば、ポジティブだと信じている「感情」がネガティブな「感情」を生み出している「過程」をいま見る事ができ、感じる事ができるはずだ。
将来の歴史に記される「争いに向かう不幸な過程」を体験できるチャンスである。
太平洋戦争に向かった先達がどのように「正しさ」を信じ、時代の流れに巻き込まれ日本を荒廃に導いていったかを知る絶好の機会である。
先達も「異常」や「明らかな間違い」などで悲劇に突入した訳ではない事が実感できるだろう。
これをレッスンとできるか、それとも歴史の1ページとして残してしまうのか。
この先に有る「悲劇」を歴史で学んでいるいる我々がこれからどんな過程を歩むのか、それはまだ分からない。
私もこの機会に、しっかりと「現実」を体験させていただき想像力を養いたいと思う。

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2005/04/15

責任と反省

責任とか反省とか言うものは簡単なようで難しい。
最近の日中関係、日韓関係を見てもつくづく思う。
でもここでは別の事を書きたい。

私は法治国家に住んでいるので法律に従わなければならない。
事の善悪、責任に何らかの結論を必要とするときがあればこれに従う事になる。

交通事故等では、当方の過失が少なくとも、もし先方が怪我をしたならば「申し訳ない」と思うのは古き良き日本人の「人としての情」としては好ましい事であるはずだが、法や一般的な解決の手続きを意識すれば、それをその場で言葉として表明してしまうとあらぬ誤解や混乱を招く事が有る。
守りたい物がなければ関係無いが、そうでなければこれから逃れる事は難しい。
俗人である私も初めて事故を経験した時にその洗礼を受けて周りを巻き込んで難渋した思い出が有り、それは今も忘れることはない。

特に「自由」とか「多様性」とかが一般化すればするほど、価値観も錯綜し「常識」や「慣習」や「人情」でトラブルを解決する事が難しくなり「法」の重みは増して来ることになる。
そして情状酌量や裁判所の裁量があるにしても「情」が通用する範囲もまた狭まってくる。


先日NHKで以前起きた六本木ヒルズの回転ドアの事故について、特集を放送していた。
この事故では子供がドアに挟まれ亡くなっている。
「人の命」が失われただけに社会的(行政,民事)な責任のありかを裁判を通じて追求する事が求められた。
それは結果的に賠償(損失)や当事者(メーカーや管理者)の信用に直結する。
「裁判」が関わってくると当事者は「不幸な事件」として「申し訳ない」と「反省」する気持があろうとも、それを口にして表明してしまう事は裁判で「責任」を認めたとの言質を取られる事にもなりかねず、場合によってはそのことによって必要以上の責任を負わされることもありうる。
「人の命」が「何にも変えられない物」とする秩序を維持する為(その価値があるからなのだが)にはその責任も大きいものとせざるを得ず、残念なことに当事者は裁判で不利になるような事を口にはできなくなるのが現実だ。

この番組では「責任の在り処」が焦点となる事で、本来重要視されるべき「真の原因究明」が置き去りになってしまうという構造を浮き彫りにしていた。
番組自体はこのような問題に対して、裁判とは関係無い第三者を主体とするチームが結成され、それに当事者であり対立し合っていたメーカーの技術者や管理者の協力を得て一つになって「真の原因究明」を進めていく姿、そしてそこから得られた成果をそれに自主的に参加していた各業種の技術者が自らの分野にフィードバックしていく姿を描いていた。

「責任」にはこの事故で見られるように「糾弾」「罰」などの見せしめにより将来の再発防止を期待する役割を果たす一方で、社会の多様化、複雑化、細分化に伴い一種の「利害」構造が発生することもまた避けがたく、これにより重くなった「責任」が「真の問題解決」を阻害してしまうというジレンマを生み出してしまうのも現実である。
今の社会ではこれに加え、法を超えたところでも「失敗」や「間違い」を起こした者をマスメディアも徹底的に糾弾し、「世間」もそれに触発され再起不能なまでに無制限に叩き潰してしまうから尚更だ。(実際は古くなれば関係者以外はそれをすぐに忘れ、そのフォローがされる事も殆どないのだが...)

「人の命」に対する「責任」を軽んじてはいけないのが人の道であると思う。
その認識が社会の安全や安心を支えている。
社会がそのことに関心を示し、被害者(遺族)を労わり、同様の悲劇が起こらないように監視・糾弾する事は問題を顕在化させ、そのような行為に圧力を掛けて再発を防ぐ為にはけして悪い事だとは思わないが、これが無制限に、権力のように、原理主義的にそれを振りかざし完膚なきまでに糾弾する事で「同様の悲劇が起こらないようにする」という使命を忘れさせてしまうようであればそれは単に感情的な「行き過ぎ」となり現実的な損失を社会にもたらしてしまうように思える。
三菱自動車のリコール隠しの際には「悪者」である三菱の車で発生したトラブルであれば,他社でも同様の内容・発生確率で起こりうる不具合に対してさえ鬼の首を取ったように報道され糾弾の材料にされたことが思い出される。
「罪を憎んで人を憎まず」と言う格言は、感情や勢いに任せ大事な事を見失いがちな傾向に対する誠に現実的なアンチテーゼに思える。
「失敗」や「間違い」に寛容ではないことは一つの手段ではあるのだが、一方で無制限の(割り切りの無い)「責任」を生み出しそれが排他的に作用してしまいかねない。
人の命が関わる問題では「責任」の重さを定量化できないだけにさらにこの矛盾は大きな物となる。
将来について考える時、社会にとっては「真の問題解決」こそが重大な関心事であるのだが、「責任」の在り処がそれをはるかに上回る関心事となってしまい、その存在すら忘れてしまいがちになりやすい。

これは前述の三菱同様、最近後を絶たない「企業の隠蔽体質」や「官僚機構の腐敗体質」とも関わる問題だと思う。
これらも本当に求めらるのは「真の問題の解明と合理化」なのだが無制限に拡大する「責任」からの回避が現実的な問題となって立ちはだかり、それを阻害してしまう。
難しいのは「責任」追及がいけないことだとは効果の面からも道義の面からも言いえない事だろう。
「責任」を何かしらの有限な物として合理的に割り切る事もできず,かといって徹底した一つの倫理観でこれをコントロールする事もできない状況では内からこれらを解決していく事は非常に困難なことになってしまう。
このあたりにも日本独自の価値観を犠牲にしても、グローバル化という「外」の力(合理性)を借りなければ変えることができないという外圧依存体質を生む一つの要因があるのかもしれない。

しかし、「糾弾」も良いが、私たちはその陰にあるもう一つの大切な「責任」の意義を見失ってはいけないと思う。
それはいずれも「将来に生かされなければいけない」ということに有るのだと私は思う。
失敗を犯した当事者は真摯に原因を見つめ同じ失敗を繰り返さない事。
社会は失敗の犠牲者をいたわり,失敗を犯した当事者の適切な「責任」を「罪を憎んで人を憎まず」の立場で冷静に評価し、失敗の原因をこれも冷静に解明し社会の資産に還元していく事。

ジレンマがあるところでは「これが正しい」と明確な答えを出す事などできないにも拘わらず明確な答えを求めたくなる。
しかし、このような状況でも何らかの選択をせざろう得ないときには、少なくともこれらに「自覚的」である事により検証無しに一方の極に走る愚を犯さないように気をつけるだけでも結果は違ってくるのではないだろうか?
世間や集団の「勢い」というものはある極限を越えたなら「制御」は難しくなり、制御できなくなるまではなかなか感知する事はできなくなりがちだ。
そこに至ってしまえば「勢い」にかき消され合理性も思慮も道義も必要とされなくなるだけに尚更そう思う。

今の日中・日韓の関係悪化を見ながら直接関係は無いのだけれども漠然とこんな事を考えてしまう。

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2005/04/01

内なる公共心

卒業式シーズンだったこともあり国歌、国旗の話題がblogでも多く取り上げられていた。
憲法改正草案、教育基本法でも愛国心は関心の的である。

このような話題が注目される理由はいろいろあるのだろうが「公共心」「モラル」の低下もその数ある理由のうちの一つだと思う。

「公共心」の欠落に対する危機感がそこにあり、国民の中でも同様にこれに危機感を感じる人は多いのだと思う。
自由や個人主義にその責任を押し付ける趣味は無いが、私自身も「公共心」や「モラル」が衰退した社会はとても住みにくいものになると思う。
現状に対する問題意識は自民党の先生方とあまり変わらない。

公共心をいかに再生するか、そのアプローチの問題だと思う。

私の印象では戦前も、自由と民主主義の国となった戦後も日本人の公共心は個人の外に置かれてきたのではないかと思っている。
日本人として持つほぼ共有できる国の道徳があり、世間の持つ道徳があり、各コミュニティーが持つ道徳があった。
それらは長年培った人と人が穏やかに共存する為の知恵の集大成のような物で、規範として存在し、世代が世代にその知恵(答え)を生活や教育を通して伝えてきた物なのだと思う。

嘘をつく事は悪い事だ。
人に迷惑を掛けてはいけない。
人を傷つけてはいけない。
身勝手はいけない。
思いやりを持たなければいけない。
物を大事にしなければいけない。
目上の者を敬いなさい。

世間がそれを用意し、世間がそれをサポートし、世間がそれを体現しているから、別に「なぜ必要なのか」疑問をはさむ必要も無い。
従わなければならない者の反発は現在同様あったろうが世間が揺ぎ無く、権威のあるものは権威があり、権威があるから威厳も自尊心もあり、だからこそそれらを誰しも信頼できたのだと思う。
小ざかしい屁理屈を言えば「生意気を言うな」の一言で終わりである。
大人になるということはこれらを身につける事だったのではないだろうか。
このような中では個人の「外」にあるものに沿った振る舞いをする事が「公共心」となる。
それを支える世間などの「外」が期待通りの見返りを与えてくれるのだから従う事に不都合も無いのである。
だから、国家,世間、コミュニティーなどの「外」は常に正しくなければいけない。
それゆえ、国家や世間,そして地域コミュニティーそのものに偏見があっても、それを修正する事は難しいという一面を併せ持っていると思う。

そんなことは無いだろうというかもしれないが、戦後も「国」「世間」「コミュニティー」など「外」にある規範が公共心やモラルであったことは変わらなかったと思う。
ただ違うのは、この個人の「外」にある「公共心」は個人主義の系譜を持つ自由とその文化の浸透により力を失ってしまったところだと思う。

自由がもたらした多様性が「外」の持っていた「正しさ」に齟齬を生じるようになり、信頼を失ってしまったのではないだろうか。
その結果
「身勝手はいけない」はそれだけでは信頼できなくなってしまうのである。
「世間はどうなんだ、身勝手なやつが大手を振っているじゃないか」となってしまう。
本来は「身勝手」が社会全体の安定に悪影響を及ぼす事実も理由もあるのだが、個人の「外」に用意された公共心やモラルは「外」への信頼が前提なので「外」が信頼を失うと外が用意した「身勝手はいけない」自体も信頼できなくなってしまうのである。

自由が「外置き」公共心やモラルを荒廃させたというなら、それはそうなのだと思う。

しかし、「自由」にはそれに対応した「個人主義」をベースにした公共心やモラルの維持装置が有るように思えるのだ。
それは言うなれば「内なる公共心」のような物ではないかと思う。
「身勝手はいけない」ではなく「身勝手をするとこうなる」だから「しない」と自発的なものとして個人に内在させる事なのではないだろうか。
個人主義は自己選択なので「身勝手をするとこうなる」しかし「敢えてする」という自発的な選択も当然生じる。しかし、そこでは選択に伴う自己責任が自覚的となるのである。
「外」に用意されそれに沿うことを要求されるモラルではその責任を「外の齟齬」に転嫁してしまうことも可能となってしまうのであるが,「内」にあるものであればそれはあくまで自己の選択の結果生ずる責任となるのである。
別角度から見ればこれが自由のもう一つの側面でも有る。
モラルや公共心を押し付けられても、そのおしつける主体が信用できなければ守る気にならなくとも不思議な話ではない。
モラルや公共心への反発よりも、それを押し付ける主体や権威への反発ではないだろうか。

「公共の場所にゴミを捨ててはいけない」という外置きモラルでは、それを用意する「世間」で「皆が捨てている」という現状があれば個人がその「世間」の齟齬に責任を転嫁してしまうことも可能である、
しかし「内なる公共心」に「外」がどうであるかは関係無い。
「公共の場所にゴミを捨てると」いう意味を知った上での個人の選択である。

もちろん「外なる公共心」を採用していても徳のある人は「内なる公共心」まで深める事もあるだろうし、逆に「内なる公共性」を採用していようが社会が「外なる公共心」を全く採用していないということでもないが、どちらが「主」であるかの違いは大きいと思う。

確かに「自由」は日本の公共心やモラルを低下させた。
しかし、それは「自由」を教えると共にそれとセットであるはずの「個人主義」をはなから「利己主義」として敵視して教えてこなかったこと、そして公共心やモラルをその本来の意義を個人に内在させる教育を軽視し「守ればよい」として押し付けてきた事による弊害がそうさせたのではないかと思う。
これは民主主義についてもいえることで「個人」の自らの責任に自覚的であることで初めて機能するシステムなのである。

「自由」や「民主主義」は国際社会の中で生きていく以上、これらは日本が取らざるを得ないシステムであり,そして現在のところそれに変わる優れたシステムも他に無いと思う。
そのような中で「外置きの公共心」を取戻すべく「公共心」を国家の信頼や威厳を強制により回復させて機能させようとすれば多様性も自由も制約する事になる。
国際社会の中で、それが意味する事は重大なのではないだろうか?

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