今そこにある危機
あくまでニュース,メディアを通しての印象であるが重大犯罪が否応なく目に付く。
犯罪の発生確率が時系列的にどうかは統計のとり方も含め議論のある所のような気もするが、社会が持つこれら重大事件に対する不安は小さくはない。
ニュースでは外国人犯罪が増えたと言う事だが重大事件に関して意識してニュースを見ていると気になる事件の犯人が外国人であったことは印象程多くはないような気がするので軽犯罪は増えたかもしれないが私の重大事件が目に付く原因をそこに帰結してしまうのもどうかと思う。
弱い者に対する犯罪、普通に見える人の異常な犯罪、短絡的に見える犯罪など特徴的な物がやはり気になる。
これらを目にして罰則の強化や、刑法の年齢制限の引き下げ、死刑論などが出てくる。
これらは、何らかの権威にゆだねる事になるのだがその弊害よりも「今そこにある危機」と言う現実性が重視される傾向がある。
子供達の生命の大事さを揺るがす事はできないので、学校に他人を入れない、監視する,警備員や警察を配置する事も現実性を持つ。
まだアメリカのように銃で身を守る事を許可しないだけでもましと言う物だが行き着く先がそのような物になっても不思議ではない勢いだ。
最近「オレオレ詐欺」が「振り込め詐欺」と改名されはしたが、この手の詐欺、恐喝事件も後を絶たない。
報道等を見る限りでは大きな組織が背後で関与していると言う事だが、その主体も構造も80年代の暴対法以前のそれと大して変わってはいないような気がする。
人が多数集まる社会であるい以上、統計的に考えれば反社会的な人がいないほうがおかしい。
実際には、そのような立場にいる人の数が多いか少ないか、そのような力が強いか弱いか、それに対し抑止力が働くかどうかが社会を特徴付けるのだと思う。
以前の暴力団と言えば事務所もそれとわかり、風貌もそちらの人である事が判り、ある程度住み分けがされていたように思う。
最近はどこからが組織で、どこからがそうでないか素人にはわからない。
警察や社会もこれまで様々な規制をしてきた。
バブルの頃なら「地上げ」「企業恐喝」そして最近では「風俗」「ヤミ金」「オレオレ詐欺」「架空請求」各々に規制を設けその都度規制を増やしていった。
今は「振り込め詐欺」であり「偽札事件」「カード偽造(スキミング)」「金券偽造」などがそうであろうか。
「覚せい剤」などの薬物は昔から今に至るまで絶えることなくその種類や形態が変わってきている。
ふたをしては吹きこぼれ、またふたをしては吹きこぼれる。
しかし、以前と違うのは規制が進むにつれて犯罪の主体が世の中の深い部分に隠れてしまい、なかなかそことは結びつかなくなってきている事と損害額が半端な数字ではない事だろう。
しかも、実際に事件になり、検挙されたりするのは末端の部分が多く、一般市民とほとんど区別がつかない領域の人達のような気がする。
今問題になっている様々な犯罪も規制が進めば、また新たな手口を発明するのは充分予期できることだ。
ある意味、違法性を抜きにすれば彼らの企業努力は恐らく警察や公安の比ではないのだろう。
認識の上で、富が力であり、モラルが力を失えば、その予備軍や利用者が増えるのも自明の事のように私には思える。
生活の苦しい立場の人、居場所を失った人、社会から疎外された人、何かに失敗し再起を期待できない人、抑圧された人
これらの人たちはコチラ側に居場所があればいいが、それが無く、しかも上記のような認識に浸された社会にあってはこれらの予備軍となったところでなんの不思議があろう。
これに対して「甘えている」と言うのも「間違っている」というのも自由であるが、それが富や力を容認する現実主義者の口から出た物ならばあまり効果はないだろう。
規制しても一時的には良くなっても長い目で見て悪くなる一方という物は他にもある。
交通事故・違反などもそうであろう。
これまでどれだけ規制・罰則が強化されてきた事か。
これも検挙する側の不備ばかりが目に付くが、例え規制や罰則を強化しようとも膨大な予算をかけない限り徹底する事は物理的に不可能なところまで来ている。
逆にこれにより検挙されない「皆」が増える事で遵法意識すら薄れ、検挙されるほうが不運と言うエクスキュースを生み出している。
法律の信頼性の低下である。
似たような事は不法投棄にも在る。
これも規制・罰則が強化されているが「皆」がすることの方が法律に優先すると言う「認識」が根にある。
共通するのは「検挙されなければいい」という(近視眼的には)非常に現実的で「合理的」な「認識」でこれはなかなか強固だ。
少年の万引きを糾弾するケースも多いが構造的にはこれら大人の所業と何ら変わる物ではない。
「規制や罰則では変わらない。」
このありふれた言葉が力を失ってからどれくらい立つだろう。
しかし、言葉が力を失おうとも、根本の認識に対するアプローチを抜きにした有効な手立ては現実的には存在しない。
「今そこにある危機」への対処がすぐにできる対処療法的なものに頼ろうとするのは人情であるが、それはそれとしても現実を口実に避けている地道な方策を抜きに、対処療法にそれを預けてしまう事がより大きな致命的「現実性」を伴なって目の前に現れてくる事を忘れてはいけないのではないだろうか?
たとい手間がかかろうと「今」それを無視すれば明日も明後日も未来もそれが実を結ぶことはない。
「今」効果が出ないからといって「現実性」で葬っていしまう事がどうにも「現実性」を欠いた思慮に思える私は「現実性」に欠けているのだろうか?
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