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2005/03/10

社会のリアル

今我々の社会は経済的見地から様々なものが自由化され、それと同時に社会の中でもその責任を夫々が負う方向へと変わりつつある。
いわゆる私のような庶民においても「自分のことは自分で」という意識を求められるようになってきた。
一方で、金融機関のペイオフがこの4月まで延期されたり、ライブドア騒動に見られるように政府によるメディアの擁護発言が公然となされたりもする。
また、社会保険庁やその他の官庁,そして既得権者のように、それが見逃され放置されたりしている。
庶民である私から見ると、やはりそこに「不公平」感を感じたりするわけで...。

ここには複合化された世の中で様々な事が自由化され、あらゆる事を個々の責任に帰結していく事が本当に「より人や社会にとって」有意なのか?
と言う問題と
そうするにしても、それが偏向して行われる事の是非を考えなくていいのか?
と言う問題があるような気がする。

私自身は前者に「より強く」問題意識をもっているが、「現実」容認の流れの中でこれが議論になることは残念ながらあまり無く分も悪い。
保守までもが経済において大筋これに従順なのには納得いかないが、あらゆる場面でねじれが起きているのでそれは今回は言うまい。
これはひとまず置くとして、後者についてである。

後者の問題についてその偏向を正当化するのはどうやら「公共の利益」と言う概念になりそうだ。
公共といっても全ての「人」ではなくあくまで「国内限定」である。
「日本」と言う境界に影響される我々日本人が「より多く影響を受ける」物に関して「公共の利益」という概念によって保護しようとしている(してきた)と見て差し支えなさそうだ。
「国」という境界を持たなければ何ら区別する必要の無い事だが「国」という概念が(日本に限らず)今のところ最も人に影響を与える境界であるとの認識が多勢を占める中では致し方ないとしてもグローバリズムの本質は、その境界を無くす事なのだからそもそも元から矛盾は在るのだと思う。
一番自由と見なされるアメリカでさえも程度の差こそあれそれはある。

もし不良債権を抱えたまま準備も無くグローバルスタンダードに飲み込まれてしまえばどうなっていたかと言う問いに「日本の金融機関は破綻していたかもしれない」と言うのはなんとなく説得力がある。
日本の金融機関を利用している多くの我々国民にとっても痛手であり、経済立国の日本で金融機関が外資に独占されるのもあまり気持ちのいいものではない。
が、グローバル化を「原理的」にそのまま受け入れるならば淘汰されて当然なのであり、痛手や偏見が在ろうともそれを乗り越えた先に本来の合理的なグローバル化の理想が在るともいえるわけで、それを留保しているのは間違いないと思う。
実際、その留保が一方で構造的な腐敗を清算することなく温存させてしまってもいる。
しかし、これは影響力の少ないとされる中小企業や自営業者そして会社の為に残業をしてしまうサラリーマンとて同じ事で、親会社や所属する会社がグローバルスタンダードに直面し、あっさり家族的企業風土や義理人情をかなぐり捨ててしまう事には留保があってもおかしくはないはずだ。
そしてこれも実際グローバルスタンダードを「錦の旗」として振りかざす経営者に対し、従来の慣習から逃れられずに「義理」「人情」「義務」「迷惑」を利用される中小企業、自営業者、サラリーマンと言う構図をもたらす傾向も無きにしも非ずである。

その留保は構造的なものでなく影響の大きさによって区分けされ、一方は無視され一方は正当化されている。
ただ、どうなのだろう?
留保されない庶民一人一人の夫々への影響は果たして日本や日本社会にとって影響力は小さい(かった)のであろうか?
公共の利益がこのような基準で決められる事は果たして妥当なのだろうか?
また、私達はグローバル化とそれに伴なう自己責任社会を原理的に無条件に肯定しすぎてはいないだろうか?
個々に程度や公正感の落しどころをもう少し丁寧に論じるべきところがありはしないだろうか?
現実社会ではどの国でもどの社会でも国民(市民)の名において「留保」に着目し、あるところでは規制を設け、あるところでは規制を減らす代わりに公的な部分に公正を厳しく求めたりしているように私の目には映る。(思い過ごしか?)
我々庶民には現実や帰属に縛られすぎて個々のそのような視点からの議論が少しばかり欠けているのではなかろうか?
これも自己責任の認識の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、もう少しリアルに「今」の在り方に自らの立場と責任において関与しても良い様に思うのだが。

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