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2005/03/21

現実的な対応

島根県の条例に端を発し、韓国国内での反日感情の高まりを受け領土問題がさらにクローズアップされて来ているようだ。
尖閣諸島の問題も引き合いに出されこれまでの政府の姿勢を弱腰であるとする論調を多く目にするようになった。

私が子供の頃、北方領土問題はソ連への嫌悪感から強烈な認識を持っていたが、竹島、尖閣諸島の問題を認識していた覚えは無い。
(それ以前は分からないが)私が子供の頃、時代はちょうど日中国交正常化でソ連との比較において韓国や中国に対する不信や脅威はそれほど大きく無く、(子供であった私も世間一般も)むしろその先行きを(相対的に)楽観していたように思う。
その当時の冷戦構造下では、ソ連は安全保障上の脅威としては飛びぬけていたと思う。
そのソ連と不和を抱いていた中国との「平穏」は好ましいものだったはずだ。
大韓航空機の撃墜や相次ぐ北方漁船の拿捕、ミグ戦闘機による領空侵犯など目に見える理不尽やリアルな脅威はソ連の物であった。

今も北朝鮮や(皮肉な事に)中国の台頭を「目の前の脅威」として、あたかも胸元に突きつけられたナイフのごとく喧伝され、その他の合理的思慮を一切排除しようとする「現実論」が認識を占める事に躊躇が無い状況を見ていると、ソ連の脅威を目の前にして、未解決の問題として当時も今と同様に存在していたはずの「韓国との領土問題」も「中国との領土問題」も「現実論」により矮小化され排除されていたのではないかと推測する事にそれほど違和感を感じない。

日本の経済的発展の影で停滞していた中国に対し、その優位性から余裕を持って対応していただろうし、その後「東側の崩壊」という現実を目にした我々が「今」考えられるほど、明らかに当時の西側が圧倒的優位に立つという予測が世間一般が持てるはずも無く、少しでも身近で大きな脅威であるソ連という「現実」に備える為にこれらの領土問題を見ない事にしてしまう状況は、現在の日本の政策や日本人のメンタリティーと何ら変わらないような気がして、私には政府も「世論も」それほど「今に比べ」異常であったとも弱腰であったとも思えない。

今思えば当時から北方領土同様、政府がこれらに対して言うべきことを言っておくべきだったと言う事は簡単な事だ。
しかし、「今ならばそうしない」とすることに確信を持つためには、北朝鮮や中国の脅威を認識している現在においても、そのために犠牲にしている日本の理念を「現実論」で片付けてしまう事(例えば対米追従で失う物)に目をつぶる事もできまい。

目先の現実のみに目を奪われ、その外にある領土問題への無関心や先送りで無用な混乱をもたらした事は反省すべき事かもしれないし、多分そうなのだろう。
それはそれで今後時間をかけてでも解決していかなければいけないものであるとしても,そこから得られるもっと重要な教訓は「目先の現実」に歪められずに、大事な物を「今」見失わない事なのではないだろか?
そこへの教訓をこの事例から受け取る事ができなければこれから先も同じ事をただ繰り返していくのではないかという私の杞憂は的外れであろうか?

時は流れ、常に状況は変化する。
今日の現実が明日の現実を保障する物ではない。
その不確かな「目の前の現実」にその都度身を委ねていては流転するのはあたりまえ。
「現実」にはまず「対応」するのは当然としても、それは「基本姿勢を損なわぬ現実的な布石」であることが肝心で、「身を委ねる」ものではないと思う。

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2005/03/15

最近の気になるニュース

ここのところ全人代が開かれていた事もあって中国からの情報が多かった。
反国家分裂法、軍事費の増加、胡錦濤国家主席の国家中央軍事委員会主席への選出、日本の過去の清算に関する言及等々

大会後の温家宝首相のインタビューでは
日中間の関係改善に言及しながらも「過去の清算」と「台湾問題」で釘をさす事を忘れず、基本姿勢を変えるわけではないのだがメディアが注目するこの期をうまく利用し「前向き」をアピールする事で冷めている日中関係に先手を打つあたりがいかにも中国らしい。

米国の記者とのインタビューでは

「中国は、『自衛のための国防力』という方針を実施している。貴国(米国)と比較すれば軍事力、とりわけ軍事費のレベルははるかに及ばない」「この100年間、中国は屈辱の歴史に甘んじた。しかし今日にいたるまで、占領のためには一兵卒も他国に派遣していない」

と言う発言もあったようで、これまで数々行われた「軍事介入」を「自衛」の概念に置き換える部分に「自衛」の言葉の曖昧さを垣間見る事ができる。
これはわが身に置き換えれば、憲法改正で「軍隊」を明記しそれを「自衛」に限定する事で正当化しても、それが歯止めにはなりえないと言うことも示唆しているわけで大いに参考にしたいところだ。(もっとも、中国を見るまでもなく米国のイラク戦争やこれまでの戦争を見ても「自衛」と言う言葉の便利さはいわずもがなではあるが...)


詳しい事は専門家や中国ウォッチャーに任せるとして私の感じたことを一つ。

中国の軍事費の増加と聞いて、私の中でどのような感情が沸き起こるかを正直に言えば、たとい『自衛のための国防力』といわれようと、それで安心して「はいそうですか」とは行かないのであって、やはり不安感はそれ以前に比べ増してくるのである。

軍事力の強化が強まるにつれ、中国には敵わないから「言う事」を聴こうなどという姿勢に私がなるかといえばちっともそんな気にはならない。
強化されればされるほど、屈服するどころか不安感を持ち、警戒感を持ち、共存に対する諦めの気持ちから「対抗」の感情に誘惑されるのである。

一方同じように世界で比類のない軍事力を背景にした米国が常に軍事力を強化してきた事実に同様の脅威を持つかといえばそれほどではない。
中国が過去に他国へ軍事介入した以上に軍事介入を繰り返す米国が中国に比べ品行方正であったからなどではけしてない。
善性を感じるなどと言う物でもない。
今の政治体制、今の生活様式、今の主義が「こちら側」であり、それら同質性をそこにあると無意識のうちに判断して(異論もあろうが)信頼しているからなのだろう。
これは核や軍事力を持つ「こちら側」の旧西側先進国に対しても同じかもしれない。
何をいまさら、と言うほどあたりまえの日本人の一般的な感覚だと思う。

でも面白い事に信頼している側のその強い力を背景とした圧力には様々な面で屈服し、しかもそれをある意味で当然と受け止めているようにさえ見える。(多分私だけの観測ではないだろう)
この点から言えば確かに力は「ものを言い」、これまでも我々日本人はそれゆえ表面上はともかく深層の部分で屈辱感を味わってきたかもしれない。
力を持ちたいという願望もその辺から来る鬱屈が根底にあるのかもしれない。
同じ「力を背景とした圧力」をかけられながら、中国が強い力を背景としてちらつかせた時の「屈服などするものか」という感情とは天と地の差がある。

冷戦時代の対ソ戦略にしても、イラク戦争を見ても、ベトナム戦争を見ても、キューバ危機を見ても、そして現在の北朝鮮・イランを見ても力を背景として境界外の相手を当方の思う方向に誘導すると言う方策は成功してきたとは言えそうもないし,これはある程度互いに何らかの信頼がなければ有効に働かず、実際には成果という意味ではむしろ逆効果であった事のほうが多いのではないだろうか?
もちろん相手を圧倒的に打ち負かす事を前提とすれば話は違うが。

国際社会では「力がものを言う」というが、それはある程度「信頼が在る境界内」で有効な話で、境界外に対しては衝突の末の一方の勝利が決まる、あるいはそれを切実な実感として前もって感じる事ができる状況以外で、それほど「ものを言う」わけではないのではないかと疑問に思えてくる。
「平和の為」に軍事力を持とうと言う自民党を中心とする(改憲を含めた)「方向性」への「根拠」は今の「境界外」に囲まれた極東地域にあっては絵に描いた餅に見えてきてしまうのだ。

今メディアで盛んに取り上げられ問題視される領土問題などはこのよな軍事化などによる「強攻策」で対抗すれば対抗するほど「渡してなる物か」と言う感情は強くなる典型的な物だと思う。
現在は少なくとも2島返還ならば現実性を持つ北方領土でさえ、対抗し合っていた冷戦時代はソ連という国が1島たりとも返還する事が実際には全く現実的には思えなかった事が頭をよぎる。
現状で、話し合いだけで解決しそうもない事も事実であろうが、当然のことながら、それがその対極に答えが在る事を意味するものでもない。
(妥協を解に含めなければ)解が存在しない数学の問題があるように解が存在しない(外交)問題も、途方もない努力の末でしか解が存在しない(外交)問題も世の中にはあってもおかしくない。(また一方で思いがけない偶然性や時間の流れが解決策をもたらすこともあるのだが)
普段、都合よく蔑ろにしている国連や国際法をこのときばかり持ち出しても、それが解決策に直結するなどと楽観できる現実主義者はさすがにいないと思う。
領土返還が国益とするならば、やはり互いに力を過信したチキンレースで得られるのは国益ではなく、「プライド」の維持で、それは理想主義者だけに許される物なのではないだろうか。
さらにそのプライドも現実性から乖離し結果が出なければ結局は悪性の「鬱屈」に置き換えれれるだけのような気がする。
プライドの維持は地道に「言うべき事」を言い続け、互いの違いの認識を深める事に専念し、それを何かに利用したり口実にしたりする事などは考えないほうがいいのではないか?

「危機感が高まり,互いにその不利益を実感として認識すれば互いに妥協する」と言うような理屈もあるのかもしれないが、それならばそもそも戦争や武力衝突などは起こる事はないのであって、私は勇ましい性質を合わせ持つ「人間」がそこに至っても「危険を感知しない可能性」を無視するほどは人の理性を確かな物だとは思っていない。

中国からの最近のニュースに反応する私の心境を探っているとそんな思いが湧きあがってくるのだ。
そして、こんなところにももっともらしい「思い込み」による戦争や紛争の種があるのだろうな...と私などは思ってしまうのである。

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2005/03/10

今そこにある危機

あくまでニュース,メディアを通しての印象であるが重大犯罪が否応なく目に付く。
犯罪の発生確率が時系列的にどうかは統計のとり方も含め議論のある所のような気もするが、社会が持つこれら重大事件に対する不安は小さくはない。
ニュースでは外国人犯罪が増えたと言う事だが重大事件に関して意識してニュースを見ていると気になる事件の犯人が外国人であったことは印象程多くはないような気がするので軽犯罪は増えたかもしれないが私の重大事件が目に付く原因をそこに帰結してしまうのもどうかと思う。

弱い者に対する犯罪、普通に見える人の異常な犯罪、短絡的に見える犯罪など特徴的な物がやはり気になる。
これらを目にして罰則の強化や、刑法の年齢制限の引き下げ、死刑論などが出てくる。
これらは、何らかの権威にゆだねる事になるのだがその弊害よりも「今そこにある危機」と言う現実性が重視される傾向がある。
子供達の生命の大事さを揺るがす事はできないので、学校に他人を入れない、監視する,警備員や警察を配置する事も現実性を持つ。
まだアメリカのように銃で身を守る事を許可しないだけでもましと言う物だが行き着く先がそのような物になっても不思議ではない勢いだ。


最近「オレオレ詐欺」が「振り込め詐欺」と改名されはしたが、この手の詐欺、恐喝事件も後を絶たない。
報道等を見る限りでは大きな組織が背後で関与していると言う事だが、その主体も構造も80年代の暴対法以前のそれと大して変わってはいないような気がする。
人が多数集まる社会であるい以上、統計的に考えれば反社会的な人がいないほうがおかしい。
実際には、そのような立場にいる人の数が多いか少ないか、そのような力が強いか弱いか、それに対し抑止力が働くかどうかが社会を特徴付けるのだと思う。

以前の暴力団と言えば事務所もそれとわかり、風貌もそちらの人である事が判り、ある程度住み分けがされていたように思う。
最近はどこからが組織で、どこからがそうでないか素人にはわからない。
警察や社会もこれまで様々な規制をしてきた。
バブルの頃なら「地上げ」「企業恐喝」そして最近では「風俗」「ヤミ金」「オレオレ詐欺」「架空請求」各々に規制を設けその都度規制を増やしていった。
今は「振り込め詐欺」であり「偽札事件」「カード偽造(スキミング)」「金券偽造」などがそうであろうか。
「覚せい剤」などの薬物は昔から今に至るまで絶えることなくその種類や形態が変わってきている。

ふたをしては吹きこぼれ、またふたをしては吹きこぼれる。
しかし、以前と違うのは規制が進むにつれて犯罪の主体が世の中の深い部分に隠れてしまい、なかなかそことは結びつかなくなってきている事と損害額が半端な数字ではない事だろう。
しかも、実際に事件になり、検挙されたりするのは末端の部分が多く、一般市民とほとんど区別がつかない領域の人達のような気がする。
今問題になっている様々な犯罪も規制が進めば、また新たな手口を発明するのは充分予期できることだ。
ある意味、違法性を抜きにすれば彼らの企業努力は恐らく警察や公安の比ではないのだろう。

認識の上で、富が力であり、モラルが力を失えば、その予備軍や利用者が増えるのも自明の事のように私には思える。

生活の苦しい立場の人、居場所を失った人、社会から疎外された人、何かに失敗し再起を期待できない人、抑圧された人
これらの人たちはコチラ側に居場所があればいいが、それが無く、しかも上記のような認識に浸された社会にあってはこれらの予備軍となったところでなんの不思議があろう。
これに対して「甘えている」と言うのも「間違っている」というのも自由であるが、それが富や力を容認する現実主義者の口から出た物ならばあまり効果はないだろう。


規制しても一時的には良くなっても長い目で見て悪くなる一方という物は他にもある。
交通事故・違反などもそうであろう。
これまでどれだけ規制・罰則が強化されてきた事か。
これも検挙する側の不備ばかりが目に付くが、例え規制や罰則を強化しようとも膨大な予算をかけない限り徹底する事は物理的に不可能なところまで来ている。
逆にこれにより検挙されない「皆」が増える事で遵法意識すら薄れ、検挙されるほうが不運と言うエクスキュースを生み出している。
法律の信頼性の低下である。

似たような事は不法投棄にも在る。
これも規制・罰則が強化されているが「皆」がすることの方が法律に優先すると言う「認識」が根にある。

共通するのは「検挙されなければいい」という(近視眼的には)非常に現実的で「合理的」な「認識」でこれはなかなか強固だ。
少年の万引きを糾弾するケースも多いが構造的にはこれら大人の所業と何ら変わる物ではない。


「規制や罰則では変わらない。」
このありふれた言葉が力を失ってからどれくらい立つだろう。
しかし、言葉が力を失おうとも、根本の認識に対するアプローチを抜きにした有効な手立ては現実的には存在しない。

「今そこにある危機」への対処がすぐにできる対処療法的なものに頼ろうとするのは人情であるが、それはそれとしても現実を口実に避けている地道な方策を抜きに、対処療法にそれを預けてしまう事がより大きな致命的「現実性」を伴なって目の前に現れてくる事を忘れてはいけないのではないだろうか?
たとい手間がかかろうと「今」それを無視すれば明日も明後日も未来もそれが実を結ぶことはない。
「今」効果が出ないからといって「現実性」で葬っていしまう事がどうにも「現実性」を欠いた思慮に思える私は「現実性」に欠けているのだろうか?

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社会のリアル

今我々の社会は経済的見地から様々なものが自由化され、それと同時に社会の中でもその責任を夫々が負う方向へと変わりつつある。
いわゆる私のような庶民においても「自分のことは自分で」という意識を求められるようになってきた。
一方で、金融機関のペイオフがこの4月まで延期されたり、ライブドア騒動に見られるように政府によるメディアの擁護発言が公然となされたりもする。
また、社会保険庁やその他の官庁,そして既得権者のように、それが見逃され放置されたりしている。
庶民である私から見ると、やはりそこに「不公平」感を感じたりするわけで...。

ここには複合化された世の中で様々な事が自由化され、あらゆる事を個々の責任に帰結していく事が本当に「より人や社会にとって」有意なのか?
と言う問題と
そうするにしても、それが偏向して行われる事の是非を考えなくていいのか?
と言う問題があるような気がする。

私自身は前者に「より強く」問題意識をもっているが、「現実」容認の流れの中でこれが議論になることは残念ながらあまり無く分も悪い。
保守までもが経済において大筋これに従順なのには納得いかないが、あらゆる場面でねじれが起きているのでそれは今回は言うまい。
これはひとまず置くとして、後者についてである。

後者の問題についてその偏向を正当化するのはどうやら「公共の利益」と言う概念になりそうだ。
公共といっても全ての「人」ではなくあくまで「国内限定」である。
「日本」と言う境界に影響される我々日本人が「より多く影響を受ける」物に関して「公共の利益」という概念によって保護しようとしている(してきた)と見て差し支えなさそうだ。
「国」という境界を持たなければ何ら区別する必要の無い事だが「国」という概念が(日本に限らず)今のところ最も人に影響を与える境界であるとの認識が多勢を占める中では致し方ないとしてもグローバリズムの本質は、その境界を無くす事なのだからそもそも元から矛盾は在るのだと思う。
一番自由と見なされるアメリカでさえも程度の差こそあれそれはある。

もし不良債権を抱えたまま準備も無くグローバルスタンダードに飲み込まれてしまえばどうなっていたかと言う問いに「日本の金融機関は破綻していたかもしれない」と言うのはなんとなく説得力がある。
日本の金融機関を利用している多くの我々国民にとっても痛手であり、経済立国の日本で金融機関が外資に独占されるのもあまり気持ちのいいものではない。
が、グローバル化を「原理的」にそのまま受け入れるならば淘汰されて当然なのであり、痛手や偏見が在ろうともそれを乗り越えた先に本来の合理的なグローバル化の理想が在るともいえるわけで、それを留保しているのは間違いないと思う。
実際、その留保が一方で構造的な腐敗を清算することなく温存させてしまってもいる。
しかし、これは影響力の少ないとされる中小企業や自営業者そして会社の為に残業をしてしまうサラリーマンとて同じ事で、親会社や所属する会社がグローバルスタンダードに直面し、あっさり家族的企業風土や義理人情をかなぐり捨ててしまう事には留保があってもおかしくはないはずだ。
そしてこれも実際グローバルスタンダードを「錦の旗」として振りかざす経営者に対し、従来の慣習から逃れられずに「義理」「人情」「義務」「迷惑」を利用される中小企業、自営業者、サラリーマンと言う構図をもたらす傾向も無きにしも非ずである。

その留保は構造的なものでなく影響の大きさによって区分けされ、一方は無視され一方は正当化されている。
ただ、どうなのだろう?
留保されない庶民一人一人の夫々への影響は果たして日本や日本社会にとって影響力は小さい(かった)のであろうか?
公共の利益がこのような基準で決められる事は果たして妥当なのだろうか?
また、私達はグローバル化とそれに伴なう自己責任社会を原理的に無条件に肯定しすぎてはいないだろうか?
個々に程度や公正感の落しどころをもう少し丁寧に論じるべきところがありはしないだろうか?
現実社会ではどの国でもどの社会でも国民(市民)の名において「留保」に着目し、あるところでは規制を設け、あるところでは規制を減らす代わりに公的な部分に公正を厳しく求めたりしているように私の目には映る。(思い過ごしか?)
我々庶民には現実や帰属に縛られすぎて個々のそのような視点からの議論が少しばかり欠けているのではなかろうか?
これも自己責任の認識の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、もう少しリアルに「今」の在り方に自らの立場と責任において関与しても良い様に思うのだが。

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2005/03/06

意思の自由と振る舞いの自由

「自由」というのはけして楽な物ではない。
実際の世界では自由が保障されていようとも全く自由に振舞う事はどんな社会でもまず不可能だろう。
そのように振舞おうとすれば、自ら振る舞いの不自由に陥りかねない。
下手をすれば犯罪者にすらなりかねない。
自分1人で生きているわけではないのだから当然と言えば当然のこと。
実際は、自由な意思が不自由に見える振る舞いをも決めるのではないかと思う。
自由なのは意思であり、だからこそどんな状況でも開放感をもたらす「可能性」を秘めているのだと思う。

極端な例を一つ。
例えばイラク派遣のアメリカ兵の「兵役拒否」があったとする。
これは「振る舞い」であり廻りにそぐわない(軍規に違反する)から身は拘束される。
拘束された彼らは意思の自由を行為に移した為に身を拘束される(振る舞いの自由を奪われる)のである。
しかし、それを不自由と簡単に結論付けることができるのか?
自らの意思に反して兵役につくことで身の拘束は免れるが、彼の意思も行動も兵役に沿った行動に拘束される。
自らの意思に反して人を殺し、自らの意思に反してそれに目を瞑る。
それにより苛まれ苦悩する例は少なくは無い。
どちらを自由とみなすかと言う事である。

身近な例を一つ。
自らの所属する企業が不正を働いている事を知りその不正に反発したとする。
これもやはり「振る舞い」であり、周囲にそぐわないからその組織から排除される。
排除された彼らは意思の自由を行為に移したために経済的な自由を制限される事になるのである。
しかし,それを不自由と簡単に結論付けることができるのか?
自らの意思に反して不正に荷担するすることで経済的な制限を免れる事ができるが、彼の意思も行動もその組織に沿った物に拘束されるのである。
自らの意思に反して不正を行い,自らの意思に反してそれに目を瞑る。
それに思い悩み人生を無意味な物と見なしてしまう人も少なくは無い。
どちらを自由とみなすかと言う事である。
(ちょっと倫理的に過ぎる例ではあるが、倫理的であっても無くても自らが大事(例えば夢)に思う事と廻りとの間にギャップが在れば同じような例題が出来上がる。)


「意思の自由」は保障されようが保障されまいが意識するかしないかという違いだけの事で、本来、意識さえすれば遮る物は無い。
しかし、行為に移す際のギャップを乗り越えるには個人の意志の強さもそうだが、もう一つ社会のあり方とも大きく関わっている。
「振る舞いの自由」は多かれ少なかれ社会の洗礼を受けるのである。
社会がどのような洗礼を用意するか、それがその社会を特徴付けるのだと思う。
固定化した閉塞社会を望むのか、開放的だがリスキーで刺激的な社会を望むのか。
前者であれば意志を貫くためのギャップは大きい物が必要とされ多くは「へたれ」やすく、後者はギャップは小さい代わりに自由同士の衝突は起き易くなるだろう。
単に自由だからといって原理的に考えて解決する物でもなく、そのあたりは結局は我々自身が良いと思う物をテクニカルに選択していくしかないのだろう。
個人的には、より「自由な意思」を「行為」に移し易い社会で、しかし他を尊重して自重するところはするような社会を望むのだが...

いずれにしても、およそ社会は自分の思い通りなどはならない物だが「意思は自由」である事だけは常に意識できる自分でありたいと思う。
そして、必要なときに逆風を恐れて、知らぬ間に気がついたら不自由にからみ取られている自分に気づくようにはなりたくないものだ。

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2005/03/01

前回の続きのようなもの

以前、私の住む県のとある学校の近くの水路(川?)で児童の水難事故があり残念ながらその児童が亡くなった。
そして、先月、学校と隣接する川との境界に危険があった事を知りながら、何の対応もしなかった学校側の管理の不備を認める判決が下った。
私は、ニュースに出てくる映像しか見ておらず、事故以前にどれだけその場所の危険性が指摘されていたかも判らない。
しかし、私の頭の中で危険な遊びが楽しかった子供の頃の思い出が頭を掠めた事を告白しなければいけない。
そのとき同時に、公園などにある遊具が起因となる事故が発生し、危険と見られる遊具が全国の公園から消えていった事を思い出していた。
私自身も海の近くに住んでいるので、危ないところに秘密基地を作り海に落ちたり、遊具に挟まれたり、本来の遊び方とは違う遊び方をして怪我をしたことがあるので、今考えるとぞっとするようなこのような危険性をイメージする事はできる。

私の場合は幸運にも命には別状が無かった。
しかし、私は私自身がどこからが危険であり、どこからが危険でないかの判断基準を養うのにこのような経験が少なからず寄与している事を無視はできない。
一方で、こんな経験をしなくともそれを教育(学校だけではなく)などを通じ疑似体験もしくは、別の手段を以って身に付けることが「できるならば」それはそれでもいいのかなとも思っている。(そのためには想像力を育成しなければ無理だろうが)
今の私達の社会はどちらかと言うと経験、選択の機会を奪ってでもこのような事故を規制して防ごうとする傾向が強い社会だと思う。
事故は「異常」であり、あってはいけないと考え、もし、そのような事態が発生したならばその原因、責任が必ずどこかにあると考え、その所在をどこかに見つけ出し、何らかの強制的な権威(法)に位置付けていく傾向が強い。(品質管理でいえばPDCAをまわして標準化すると言うような事をしたがる)
一方の結果として、いたるところにルールや責任が溢れ、そこから来る閉塞感と不自由さに苛まれ、消極的になってしまったり、何もしない者が何かをする者を批判する風潮を作ったり、無関心が居心地がよくなったり、ルールや責任そのものの信頼性自体が低下してしまったりすると言う代償を払う事にもなる。


私自身にも、私の身近にいた友達にも同じような危険があったことを考えると、当時今回と同じような事故で不運にも命を落した子供達はいたのではないかと思う。
「人の命」の大切さは言うまでも無い事であって、我が子、近しい人が事故で亡くなれば、今も昔も変わりなく悲しく、辛かったに違いない。
でも、今ほどマスコミが騒ぐ事も、訴訟になる事も少なかったような気がする。
かといって最近良く耳にする「自己責任」だと言って突き放された記憶も無い。

本来日本人は「人の命」の大切さは、周りの人がそれに注意を払いながら守りつつ、不幸にして事故がおきたならば、周りの人が命の大切さを思いながら彼らをいたわるという共助により果たされていたのではないだろうか?
(今ではおせっかいでしかないのだろうが)
ほとんどの人がその方法に異論が無かったのでそれが機能していたのかもしれない。
根っこの部分に責任を明確にすると言う対処ではなく、責任をある程度曖昧にしながら、事を荒立てずに穏やかに物事を処理していこうとする傾向が強かったのではないだろうか?


今はなかなかそうも言っていられない。
戦後、共産主義的な思想が力を持った時、労働運動などを通じて、対決を前提としたシビアな「責任」を明確にして追求する傾向は強くなっただろうし、日本の経済が他国の脅威となってからはそれまで資本主義の中にあっても社会も経済も黙認されていた共助的なシステムも非関税障壁として解体が求められるようになり、今もそれは続いている。
私には、どちらも曖昧さが受け入れられない点では共通しているような気がする。
共産主義も共助的なところはあっても曖昧さを許さない「制度」であるし、自由主義経済も自由であってもその責任を自己に置く事で整合性を付け曖昧である事とは全く違う。
いずれも日本的な「問題の解決法」とは異なる。

これは日本以外の特に欧米を中心とする「論理」を重視する先進国の手法なのだと思うが、論理性はこれらの先進国と付き合う上での共通言語として無視はできない。
我々は深層に本来の「曖昧さ」を持ちながら、その共助的な親近感を左派的なものに感じ、現実性から資本主義を採用しそれに付随する自由を何とかだましだまし操っていると言う状況なのだと思う。
多かれ少なかれ、そんな複雑な状態を抱え芽生えた疑問を抱きながら、夫々が皆どれかに重点をおき、それが各々の主張として表明されているように思えるのだが、私自身などは何か出来事が起こるたびにこの矛盾に直面し右往左往して論理的に矛盾した事を疑うことなく平気で口にしてしまったりすることがある。

会社や社会の中にあって社会的責任を曖昧にし、生活や身近なものを守りたいと思いながら、一方で自由経済の名を借りて官僚の曖昧さを守ろうとする抵抗勢力をためらいも無く批判してしまう事は無いだろうか?

以前の穏やかな社会、安全な社会を取り戻したいと思いながら、無批判にグローバル自由主義経済を受け入れていないだろうか?

自由を標榜しながら、自由意志に拠る選択に「曖昧性で保たれている和」に背くものを感じ「迷惑」だと強い拒絶反応を持つことは無いだろうか?

私が人様に対し謙虚であると言う本来の「迷惑」を、自由に伴なう行動への対抗策として、相手に求めるものに変質してはいないだろうか?

個人主義を根幹とする「自由」を標榜しながら、一方で日本の持つ和や礼儀や風習を社会に取り戻したいと主張したくなる事は無いだろうか?

そして、今回の最初に上げた事件で私が持った感覚のように、様々な問題を「責任」を追及し社会制度により制約を強化しながら、昔の穏やかな社会を懐古したり、または一方で自己責任を伴なうはずの自由を熱望する事は無いだろうか?

私の心の中を覗くとそんな矛盾した多面性を見つける事があるのだが、どうだろうか。
いずれももっともらしく思え、語る内容によってぶれてしまうことは無いだろうか?
時々日本人の得意な「いいとこ取り」が相乗効果を生むどころか、相反する価値観が交錯することで元のどちらよりも悪い結果を選択しようとさえしてしまう。
もし多くの人がこのように何の気なしに常識と思える相反する2面性に直面するケースが多いなら、我々が持つ社会の常識や規範は信用するにはかなり混乱しているのだと思う。
結局これらは常識からさらに一歩踏み込んでいくしかない。
(多様性による意見の違いと、矛盾による多様に見える意見とは違う。多様性はその個々の中で整合性は必要とされ、それが無ければ尊重はされないだろう。)

どこの国の人でも同じような矛盾を抱えてはいるのは同じだろうが、政府そのものまでが曖昧さで秩序を維持しようとする国は特に先進国には少ないと思う。それなりに論理武装している物だ。
政治なので当然妥協や齟齬があるのは当然としてもそれは基本線を維持するための物であろう。

だから対米追従で経済至上主義を謳い、一方で日本の伝統を強要しようと言う政府与党(最近の民主党も同じような物だが)のような基本の部分の節操の無さを目のあたりにすると、たとい現憲法に矛盾を見出しても、そんな立ち位置で「器を作って魂入れず」の改憲改正案などを基準に改憲などして欲しくは無いと強く思ってしまうのだ。要するに全く信用できないのだ。

日本人の中には世界に挑戦してきた経済や技術を通じ培った論理的な一面と従来からの曖昧な一面が同居している。
日本の道徳の根幹をなす「和」や「精神」はそのままでは既に論理的な共通言語を身につけてしまった個々の日本人の共通認識として定着させる事は難しい。
そればかりでなく、その本来の有用性さえも忘れ誤用・悪用されたり、必要以上に敬遠されたりしているのが実情なのではないだろうか?
西欧諸国が宗教と論理性と整合性をつけるためのフィクションを作る努力をしたように、我々日本人も「和」や「精神」のような物を論理に訳していく(多くの人が妥当な認識として受け入れられるように整合性をつける)と言う非常に困難ではあるが、そのような努力が必要なのではないだろうか?
宗教や言語と同じく「本質そのもの」を論理的にイコールであらわす事はできないだろうが,曖昧さならば曖昧さの、和なら和の論理的な有益性を、あるいは存在の意味からのアプローチのような中間言語的にあらわし整合性を付けていく試みならば可能なのではないだろうか?

憲法前文にあるような国際社会(特に先進国での)での名誉ある地位を得るには他を模倣することなどではなく「論理性に基づいた基本理念」を共通言語で示しながら「それに沿った振る舞い」を示していく事の方が、「違い」を恐れて「同じ」であろうとすることなどよりもよほど重要な事なのではないだろうか?
私は国際社会で「政策や見解の違い」が常に協調を疎外するとは思っていない。
共通言語で対話できない「理解不能」のほうがより協調を疎外するのではないかと思っているのだがどうであろう?

その「訳」(つまり多くの日本人が受け入れる事ができ、外に向け伝える事ができ評価に耐えうる「新たなフィクション」)こそが「論理的な認識」と「日本の既存の規範」の間で右往左往する日本人の新たな規範となりうるもので、それが世界に向けて主張できるならば、そこにこそ本当の誇りが在るのではないだろうか?
私は、このような「内と外」に整合性をつける作業こそが伝統やアイデンティティーの継承を担った保守に今必要とされる役割なのではないかと思ってしまうのだ。
大きな矛盾をそのままにし、それによりいつも期待を裏切る結果に直面しなければならないようであれば、誰がそのような規範を信用するものか。
「日本人の同一性」と「現実と言う外圧」に頼った刷り込みや強要で認識を植え付ける試みは、国民の精神的な2重性を助長するのみならず、外に向けては「理解不能」でありつづける事に他ならず,気が付けば中身の無い器だけの国家になり下がりはしないだろうか?

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