« 自浄作用 | トップページ | 経済至上主義の落とし子 »

2005/02/13

多様性

「自由」や「違い」、時には「異論」、つまり「多様性」は経済至上主義の価値観の中で発展するためには「核」となる部分だと思う。
私はこれまでのエントリーを見ても判るとおり経済至上主義者ではないが、政府の政策を見ればそれを是としている事は間違いなく、その流れに日本が在る以上賛成するにせよ反対するにせよ、この視点でこれを考えておく必要性を感じる。
極端なことを言えばイラク戦争にしても対米追従にしても構造改革にしてもこれらを頭に浮かべながら見なければいけないのだろう。
経済圏としてみると欧州と米国との対立にもこれが関係していないわけではないと思う。
となりの経済発展を続け日本経済とも深い関係になりつつある大国中国が今後、市場経済の中でやがて直面するであろうこれらとどのように整合性をつけるかを見るときにもこれは欠かせない部分だと思う。


この経済至上主義も、経済的な指標から見て2極化される事は確かだと思うが、特定の分野でのみ2極化される訳ではないところがミソなのではないかと私は勝手に思っている。
つまり多様性が保障されるが故に、経済的に豊かになる「手法」(方向性)もまたその多様性の分だけある事になり、それが社会の活性化を促すものだと思う。
実際には「持てる者」が圧倒的有利であったとしても、それ以外の者にも可能性として「希望を持続」させ、それがモチベーションとなりえる状況さえ維持できれば社会もまた不満を吸収して維持されるのだろう。
仮に「今」2極化された一方の底辺にいようとも、発想や着眼点によって独自の方向で一人者となりそこから抜け出す「可能性」を認識させる事ができるかどうかが社会全体にとって重要なキーとなりそうである。
新しい試みに対する積極性に対して、さらにそのリスクとしての「失敗」にも寛容で、再起可能である事も重要な要素だとも思う。
底辺にあっても多くの人が各々独自の価値観に希望を持ち、絶望や閉塞感に浸されなければいいのである。

ここで「自己責任」的な発想は、規制や規範(合意としての法律は別だが)による制約から「自由」や「多様性」を守るためにこそ必要とされる(基礎となる)概念となるはずである。
基本的には責任は社会が与えるのではなく、自己が失敗した分だけ負う物とすることで開放され、多様性を維持でき、可能性が広がり、モチベーションを高める。
社会が制裁的に与えるのは合意としての法であり、規範でも無ければ、決まった固定概念でも無い。
むしろこれらは[至上主義]では排除の対象とみなされるのではないだろうか?
経済摩擦の頃の古い言葉で言えば「非関税障壁」のようなもの。
だから小さい政府なのだろう。
アメリカなどで軍需産業や銃器メーカーの経済活動が「法律以外の規範の制約」よりも「自由」である事の為に許容されるのも「至上主義]から見れば不思議な事ではない。
圧倒的に訴訟が多く、弁護士の数も多いのも社会規範より法が重視されることと無関係とも思えない。
面白い事に、この訴訟さえも経済活動の多様性の分野の一端に組み込まれてこれを支えているとさえ言えるのかもしれない。

逆にいえば、多様で自由である事を抜きにしてしまえばここにある「希望」の芽が縮小する事になり、その社会が活性化することも無く閉塞感のみが支配する不安定な社会となり、よりダイナミックな社会に飲み込まれていく事になるのではないか?

私には、規範を大事にし、その規範で「世間」という曖昧な雰囲気が個人の失敗を糾弾するシステムを持ち、自由や多様性に疑問を持ちはじめた日本が、その議論もなく、直面する現実を根拠にこのような荒波に入ろうとしている姿を見ると、この飲み込まれる社会が日本であるような気がしてならない。
イラク戦争への支持が、アメリカ経済圏の拡大とその中での地位確保としての国益と見る現実主義者はこのあたりをどう見るのだろう。
経済至上主義に肯定的な古きよき日本を願う人たちもいるようだが、この規範の排除にはどう対処しようとしているのだろう。

実際にはアメリカでも「古きよき資本主義」と「古きよきアメリカのモラル」と「理性による修正」の価値観の間に横たわる矛盾や亀裂が表面化し国内的な求心力も国際的な求心力も低下し始めているように私には思えるのだが...

経済にも政治にも素人の私だけのピントはずれな杞憂なのだろうか?

|

« 自浄作用 | トップページ | 経済至上主義の落とし子 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 多様性:

« 自浄作用 | トップページ | 経済至上主義の落とし子 »