経済至上主義の落とし子
ライブドアとフジサンケイグループの問題は多くの専門的知識を有する人が言及しているので書くつもりも無かったのだが、折りしも前回のエントリーとの関連性を感じたのでちょっと試しに書いてみようと思う。
ライブドアの株支配の意図、その手法は、日本政府が色々な政策で推し進めている経済至上主義の原理の上では特に問題にすべき事ではないはずだと思えてしまう。
前回のエントリー「多様性」で
『基本的には責任は社会が与えるのではなく、自己が失敗した分だけ負う物とすることで開放され、多様性を維持でき、可能性が広がり、モチベーションを高める。
社会が制裁的に与えるのは合意としての法であり、規範でも無ければ、決まった固定概念でも無い。
むしろこれらは[至上主義]では排除の対象とみなされるのではないだろうか?』
とプラグマティズム的に記述したが、私が書きたかったことはちょうど今回のような状況にぴったり当てはまる。
日本ではこれまでの規範の信頼性ゆえ、このような手法や意図に対して明確な法的な整備はなされていない(ようだ)。
つまり多くの人が共有する規範には反しているように感じるかもしれないのだが違法であるとも言い切れない。
今のところこれに批判を与えられるのは一般共通概念としての「規範」であり、仮に裁判所がこれを必要以上に重視して既存の法律を解釈し裁定を下せば(前回のエントリーの表現で言うところの)「非関税障壁」的な意味合いを帯びる事になるのだと思う。
そして、それはどちらかと言えば経済至上主義に反する。
発生した事例だけを捉えるならば、経済至上主義を推進する政府が歓迎すべき事はまさに堀江社長の取った行為(活力)であり、現象であると考えるのが妥当なのでは無いだろうか?
ライブドアの意図や手法に、ある種の嫌悪感を持つとするならば「経済至上主義」、つまり政府の経済政策に対する嫌悪感の現れでもあると言えるのだと思う。(私自身も本心では堀江社長の既存勢力にチャレンジする姿勢には共感しても、プラグマティズム的手法に対する嫌悪感が強い)
対米政策上や経済大国としての地位を守ろうとする立場から仕方あろうが仕方なかろうが、現政府を支持する以上はこのような現実が付属してくるのは当然のことで、たとえそれが既存の社会のモラルに影響すると憂慮しようとも、それこそが我々が支持しているものであり、今選択ししている物なのだからおかしな話では無い。
このような世相の中で育った若い世代が既存の規範に囚われずにライブドアの行為に肯定的であるのも政府や我々大人世代の現実的選択の賜物でであっていまさらそのモラルを憂う方がおかしいのではないだろうか。
私は時々これまでの日本社会(今も根強い)は「社会主義」と類似の作用を「世間」が持ち、「左翼」のレッテルさえ見えなければ基本的にそれを好む傾向にある様に感じていた。
(共同体に従っていればと言う強い制約があるが)共助的である事、悪い(異質であったりもするが)ものに個人ではなく世間が圧力を加え排除・矯正しようとするところ、出る釘を作らないようにする事、皆と同じ(平等)であろうとするところ等々。
それは日本人のこれまでの歩みや気質と無関係ではないような気がする。
かといって明確に目に見えるシステムを持つ社会主義と違って、目に見えない同一性に対する強い信頼に基づいた共通概念の共有によって臨機応変に曖昧に行われてきたのだと思う。
その曖昧さや自由度が、社会主義との類似的な作用を持っているにもかかわらず、社会主義のような失敗に陥らずに済んだ要因でもあるような気もする。
例え自由・民主主義を目に見えるシステムとして採用していようとも、その表層の下にはこのような自己制約がそれを支えていて、米国の経済的脅威となる前の高度成長期、幸いにも冷戦構造下でそれは米国に見逃されてきたのだと思う。
ここで挙げた「規範」もこの一部だと思う。
私自身は、ある意味、日本が「本来の」自由や個人主義を突きつけられるまでは、この曖昧なシステムは安定した社会の形成・維持と言う点で非常に高度化されたすぐれたシステムだったと思う。
日本の国内の治安における安全神話を支えたのも、高度成長期の経済成長を支えたのも、これと関係があるような気がする。
さらにいうならば、国を単なる「尤も影響力のある共同体」としてではなく「なにか特別なもの」として愛そうとする「愛国心」や「回顧的な保守」傾向とも関係があるのではないかとも思うが話題が逸れるので省略。
こんな事を考えていると
市場経済に対するコントロールをできうる限り排除しようとする立場(米国)、市場経済を基本としながらも必要なコントロールを取り入れようとする立場(欧州)、コントロールを強く維持しながら市場経済を利用しようとする立場(中国)、市場経済を建前としながら同一性の共通認識でコントロールしようとする立場(日本)
と言う構図が頭にイメージされる。(またもや非論理的な印象論になってしまったような気もしますが...)
今後、日本は今回のライブドアとフジサンケイグループの対立のように、このあたりの矛盾との格闘の中でその影響を受けモラルは当分混乱し傷つけられそうな気がする。
それを経済大国としての立場を維持する為の犠牲として切り捨てるだけで、その対策を真剣に議論しなくてもいいのかどうか・・・
いずれにしても、「共通認識」は期待を裏切らないことにより「信頼」が積み上げられてはじめて「信ずるに足る物」として定着するのであって、認識が多様化しモラルが低下したからと言って、信頼を積み上げることなく「強要」することで対処療法的に体面だけ整えようとするのだけは勘弁願いたい。
例え経済的に豊かでも信頼の無い社会で猜疑心にかこまれて生きていくのでは生きた心地がしない。
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