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2005/02/27

経済至上主義の落とし子

ライブドアとフジサンケイグループの問題は多くの専門的知識を有する人が言及しているので書くつもりも無かったのだが、折りしも前回のエントリーとの関連性を感じたのでちょっと試しに書いてみようと思う。

ライブドアの株支配の意図、その手法は、日本政府が色々な政策で推し進めている経済至上主義の原理の上では特に問題にすべき事ではないはずだと思えてしまう。

前回のエントリー「多様性」で

『基本的には責任は社会が与えるのではなく、自己が失敗した分だけ負う物とすることで開放され、多様性を維持でき、可能性が広がり、モチベーションを高める。
社会が制裁的に与えるのは合意としての法であり、規範でも無ければ、決まった固定概念でも無い。
むしろこれらは[至上主義]では排除の対象とみなされるのではないだろうか?』

とプラグマティズム的に記述したが、私が書きたかったことはちょうど今回のような状況にぴったり当てはまる。

日本ではこれまでの規範の信頼性ゆえ、このような手法や意図に対して明確な法的な整備はなされていない(ようだ)。
つまり多くの人が共有する規範には反しているように感じるかもしれないのだが違法であるとも言い切れない。
今のところこれに批判を与えられるのは一般共通概念としての「規範」であり、仮に裁判所がこれを必要以上に重視して既存の法律を解釈し裁定を下せば(前回のエントリーの表現で言うところの)「非関税障壁」的な意味合いを帯びる事になるのだと思う。
そして、それはどちらかと言えば経済至上主義に反する。

発生した事例だけを捉えるならば、経済至上主義を推進する政府が歓迎すべき事はまさに堀江社長の取った行為(活力)であり、現象であると考えるのが妥当なのでは無いだろうか?
ライブドアの意図や手法に、ある種の嫌悪感を持つとするならば「経済至上主義」、つまり政府の経済政策に対する嫌悪感の現れでもあると言えるのだと思う。(私自身も本心では堀江社長の既存勢力にチャレンジする姿勢には共感しても、プラグマティズム的手法に対する嫌悪感が強い)
対米政策上や経済大国としての地位を守ろうとする立場から仕方あろうが仕方なかろうが、現政府を支持する以上はこのような現実が付属してくるのは当然のことで、たとえそれが既存の社会のモラルに影響すると憂慮しようとも、それこそが我々が支持しているものであり、今選択ししている物なのだからおかしな話では無い。
このような世相の中で育った若い世代が既存の規範に囚われずにライブドアの行為に肯定的であるのも政府や我々大人世代の現実的選択の賜物でであっていまさらそのモラルを憂う方がおかしいのではないだろうか。


私は時々これまでの日本社会(今も根強い)は「社会主義」と類似の作用を「世間」が持ち、「左翼」のレッテルさえ見えなければ基本的にそれを好む傾向にある様に感じていた。
(共同体に従っていればと言う強い制約があるが)共助的である事、悪い(異質であったりもするが)ものに個人ではなく世間が圧力を加え排除・矯正しようとするところ、出る釘を作らないようにする事、皆と同じ(平等)であろうとするところ等々。
それは日本人のこれまでの歩みや気質と無関係ではないような気がする。
かといって明確に目に見えるシステムを持つ社会主義と違って、目に見えない同一性に対する強い信頼に基づいた共通概念の共有によって臨機応変に曖昧に行われてきたのだと思う。
その曖昧さや自由度が、社会主義との類似的な作用を持っているにもかかわらず、社会主義のような失敗に陥らずに済んだ要因でもあるような気もする。
例え自由・民主主義を目に見えるシステムとして採用していようとも、その表層の下にはこのような自己制約がそれを支えていて、米国の経済的脅威となる前の高度成長期、幸いにも冷戦構造下でそれは米国に見逃されてきたのだと思う。
ここで挙げた「規範」もこの一部だと思う。

私自身は、ある意味、日本が「本来の」自由や個人主義を突きつけられるまでは、この曖昧なシステムは安定した社会の形成・維持と言う点で非常に高度化されたすぐれたシステムだったと思う。
日本の国内の治安における安全神話を支えたのも、高度成長期の経済成長を支えたのも、これと関係があるような気がする。
さらにいうならば、国を単なる「尤も影響力のある共同体」としてではなく「なにか特別なもの」として愛そうとする「愛国心」や「回顧的な保守」傾向とも関係があるのではないかとも思うが話題が逸れるので省略。

こんな事を考えていると
市場経済に対するコントロールをできうる限り排除しようとする立場(米国)、市場経済を基本としながらも必要なコントロールを取り入れようとする立場(欧州)、コントロールを強く維持しながら市場経済を利用しようとする立場(中国)、市場経済を建前としながら同一性の共通認識でコントロールしようとする立場(日本)
と言う構図が頭にイメージされる。(またもや非論理的な印象論になってしまったような気もしますが...)

今後、日本は今回のライブドアとフジサンケイグループの対立のように、このあたりの矛盾との格闘の中でその影響を受けモラルは当分混乱し傷つけられそうな気がする。
それを経済大国としての立場を維持する為の犠牲として切り捨てるだけで、その対策を真剣に議論しなくてもいいのかどうか・・・
いずれにしても、「共通認識」は期待を裏切らないことにより「信頼」が積み上げられてはじめて「信ずるに足る物」として定着するのであって、認識が多様化しモラルが低下したからと言って、信頼を積み上げることなく「強要」することで対処療法的に体面だけ整えようとするのだけは勘弁願いたい。
例え経済的に豊かでも信頼の無い社会で猜疑心にかこまれて生きていくのでは生きた心地がしない。

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2005/02/13

多様性

「自由」や「違い」、時には「異論」、つまり「多様性」は経済至上主義の価値観の中で発展するためには「核」となる部分だと思う。
私はこれまでのエントリーを見ても判るとおり経済至上主義者ではないが、政府の政策を見ればそれを是としている事は間違いなく、その流れに日本が在る以上賛成するにせよ反対するにせよ、この視点でこれを考えておく必要性を感じる。
極端なことを言えばイラク戦争にしても対米追従にしても構造改革にしてもこれらを頭に浮かべながら見なければいけないのだろう。
経済圏としてみると欧州と米国との対立にもこれが関係していないわけではないと思う。
となりの経済発展を続け日本経済とも深い関係になりつつある大国中国が今後、市場経済の中でやがて直面するであろうこれらとどのように整合性をつけるかを見るときにもこれは欠かせない部分だと思う。


この経済至上主義も、経済的な指標から見て2極化される事は確かだと思うが、特定の分野でのみ2極化される訳ではないところがミソなのではないかと私は勝手に思っている。
つまり多様性が保障されるが故に、経済的に豊かになる「手法」(方向性)もまたその多様性の分だけある事になり、それが社会の活性化を促すものだと思う。
実際には「持てる者」が圧倒的有利であったとしても、それ以外の者にも可能性として「希望を持続」させ、それがモチベーションとなりえる状況さえ維持できれば社会もまた不満を吸収して維持されるのだろう。
仮に「今」2極化された一方の底辺にいようとも、発想や着眼点によって独自の方向で一人者となりそこから抜け出す「可能性」を認識させる事ができるかどうかが社会全体にとって重要なキーとなりそうである。
新しい試みに対する積極性に対して、さらにそのリスクとしての「失敗」にも寛容で、再起可能である事も重要な要素だとも思う。
底辺にあっても多くの人が各々独自の価値観に希望を持ち、絶望や閉塞感に浸されなければいいのである。

ここで「自己責任」的な発想は、規制や規範(合意としての法律は別だが)による制約から「自由」や「多様性」を守るためにこそ必要とされる(基礎となる)概念となるはずである。
基本的には責任は社会が与えるのではなく、自己が失敗した分だけ負う物とすることで開放され、多様性を維持でき、可能性が広がり、モチベーションを高める。
社会が制裁的に与えるのは合意としての法であり、規範でも無ければ、決まった固定概念でも無い。
むしろこれらは[至上主義]では排除の対象とみなされるのではないだろうか?
経済摩擦の頃の古い言葉で言えば「非関税障壁」のようなもの。
だから小さい政府なのだろう。
アメリカなどで軍需産業や銃器メーカーの経済活動が「法律以外の規範の制約」よりも「自由」である事の為に許容されるのも「至上主義]から見れば不思議な事ではない。
圧倒的に訴訟が多く、弁護士の数も多いのも社会規範より法が重視されることと無関係とも思えない。
面白い事に、この訴訟さえも経済活動の多様性の分野の一端に組み込まれてこれを支えているとさえ言えるのかもしれない。

逆にいえば、多様で自由である事を抜きにしてしまえばここにある「希望」の芽が縮小する事になり、その社会が活性化することも無く閉塞感のみが支配する不安定な社会となり、よりダイナミックな社会に飲み込まれていく事になるのではないか?

私には、規範を大事にし、その規範で「世間」という曖昧な雰囲気が個人の失敗を糾弾するシステムを持ち、自由や多様性に疑問を持ちはじめた日本が、その議論もなく、直面する現実を根拠にこのような荒波に入ろうとしている姿を見ると、この飲み込まれる社会が日本であるような気がしてならない。
イラク戦争への支持が、アメリカ経済圏の拡大とその中での地位確保としての国益と見る現実主義者はこのあたりをどう見るのだろう。
経済至上主義に肯定的な古きよき日本を願う人たちもいるようだが、この規範の排除にはどう対処しようとしているのだろう。

実際にはアメリカでも「古きよき資本主義」と「古きよきアメリカのモラル」と「理性による修正」の価値観の間に横たわる矛盾や亀裂が表面化し国内的な求心力も国際的な求心力も低下し始めているように私には思えるのだが...

経済にも政治にも素人の私だけのピントはずれな杞憂なのだろうか?

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