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2005/01/11

悲劇の中の希望

スマトラの地震ではその犠牲者は16万人に達しようとしている。
各国はそれぞれに資金援助を申し出て,ボランティアによる寄付もいたるところで行なわれている。
恐らくこれだけ多くの被害を出した災害である以上、これで資金は十分だということは無いと思う。
どんな名目であろうと1ドルでも多くの資金が集まり、それが少しでも救済に繋がればいいと願ってやまない。

ここのところ、国内では「ヒューマニズム」という言葉が陳腐に扱われ、「人権」と言う言葉になるとさらに分が悪く「奇麗事」という言葉で敢えて避けようとする風潮さえ見られるようになっている。
これらの言葉は現実的な国際社会を語るときにも大抵同じように「奇麗事」として片隅に追いやられがちだ。
今回の各国の資金援助でも、どこの国がどれだけ出したとか、どこそこの国の援助にはこれこれこのような思惑を持っているなどとあたかもそれだけが真実であるかのように語られる。
国際政治の中でそのような事があるのは事実であるのでそれについて、それは間違っているなどという事は無い。
だからといって、各国の政策は所詮冷厳な駆け引きにすぎないなどと捉え、シニカルに構える必要も全く無い。

そんなことよりもこの資金援助がなぜ各国の政策にとって重要となりえるのかのほうがよほど私には関心がある。
何がそうさせるのか?
それは、このような政策が多くの世界の人々、夫々の国内の人々から「共感」を得ることができるからではないのか。
そこにヒューマニズムに敏感な「多くの人々」が居るからなのではないだろうか?
「人を助ける」ことを「望ましい」事であるとの認識に今もなお浸されていて、それを希求しているからではないのか?
世界の人々がヒューマニズムに飽いていたならば、政策にも、駆け引きにもなりはしない。
政治の世界に駆け引きがあろうとも世界の人々が冷たいわけではないのである。

「人を助ける事」、「困っている人に手を差し伸べる事」は望ましいという「思い」はけしてマイノリティーなどではない。
そのような思いにもっと自信を持っていいのではないのか?
敢えて一方の事実に背を向け,それを「ヒューマニズム」や「人権」と言う言葉で語られたからといって「奇麗事」として帰属させ不信に陥る必要がどこにあるのだろう。
政治はヒューマニズムに大きく左右され,それを無視などしていないし、できない。
政治がヒューマニズムを左右するのではなくヒューマニズムが政治を左右している面を無視できるものではない。
政府の援助だけでなく多くの個人が自らのできる事として寄付しようとする姿はさらにその思いを強くさせる。

大きな災害で大きな悲劇を生んでいることは間違いないが、そんな中でも世界の人々の中でヒューマニズムがけして絵空事ではないという事実が現れている事は「大きな希望」だと思う。
それを私達は現に今、目にしている。
様々な「色眼鏡」や「利」が世界に対立を引起している事が事実でも、それに抗し難く争いをしていようとも、また、仮にその争いの原因に掛け違ったヒューマニズムを見出そうとも、人々の中に「ヒューマニズムは生きている」という事だけは忘れずに信用してもいいのではないか?
それを捨てなければ、今年はこれまでより少しは良い世界になるのではないだろうか。

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コメント

おっしゃる通り犠牲者や災害規模はかつてないものですが,援助・ボランティアも「かつてない」ものとなりそうですね.いい意味で民間やボランティアの国際的な連合・連携に育ったり「人間て捨てたもんじゃない」となることを思わず期待してしまいます.
おっと,口だけ(手だけ)動かすのではなく少しくらい何かしなくてはいけませんが,募金ぐらいしか思いつきません.

投稿: kitakitune | 2005/01/11 16:13

kitakituneさん いつもTBやコメントありがとうございます。
本当に、人間の嫌なところばかり見ず、良いところにも目を向けていきたいですね。
悪い面を正しく把握しつつも、良い面を広げていく事で希望もまた現実化していくのかもしれません。

投稿: FAIRNESS | 2005/01/12 22:32

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