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2005/01/18

自浄作用

イラク戦争が始まる前のアメリカは、9.11のショックとマスメディア操作により開戦色に染まり、保守はもちろん、リベラルも含め皆が民主主義国家とは思えないほどの狼狽振りを示した。
しかし、そんなアメリカでも大統領選では戦時下であるにもかかわらず、様々な不法行為がささやかれる中でほぼ半数が異論を表明し、最近では戦争を見直す動きや撤退を議論する空気も出てきている。
アメリカが第二次大戦、冷戦を通して連合軍,西側諸国のリーダーとして認められるようになったのも、力だけではなくこの民主主義としての自浄作用を持っていたことと無関係とは思えない。
ベトナム戦争中に内部に反戦運動を抱え、撤退を余儀なくされたことでさえも他の世界の国々のアメリカに対するイメージを悪化させたかというとむしろ逆なのではないだろうか。

現在、冷戦も歴史となり、これだけ国際社会が複雑に絡み合い、互いに関係し合い、先行きが不透明であれば、国のあり方に対する意見に多様性が有ってもそれは当然の事である。
忘れてはいけないのは、以前のようにもはや各国の勢力が固定した世界では無いということで、世界は新しい秩序模索の真っ只中に有るということだ。
様々な可能性を用意していなければいけない時代に入っている。

このような状況下では、現在、国家がどのような政策をとっていようとも、常に内部に異論を抱える事こそが正常なのであり、その多様性の中で実行権を決める為に民主主義があるようなものだ。
現在の方向性を民主主義で決めようと、世は動いていて、状況は常に変化するのであるから同様に民主主義による「再選択」も保証されなければ意味が無い。
そのためには「異論」は必要なのだ。

イラク人質事件、自衛隊派遣などに共通して見られるのは「異論」に対するアレルギーであり、構造改革、雪印,三菱などの企業事件、そしてNHK放送内容への圧力問題に共通して見られるのは「組織維持」体質である。
何れも以前「判断を委ねる事(1)」「迷惑」で少し触れたような「共同体」に対する依存と、それに反する物への「排除」の傾向が日本では強い事を表わしている。
これは世界の勢力が固定された世界でこそ通用した内向きな装置であり、その装置は「国家の方向性」を修正する機能は持っていない。
我々の社会は「異論」の存在意義を認める事がどうにも苦手なのだ。
本来、異論が無ければ民主主義など必要性すら見出せない。
「異論」をつぶしに掛かる社会がその方向性を変更できる唯一の可能性は、指導者の意思だけである。

ところがそのリーダーはアメリカの自由や民主主義を支持しているかと思いきや自由の制限を謳い、迷言で議論をはぐらかし、民主主義自体をまるで信用していないご様子。
さらにグローバル経済を支持しているかと思いきや、これまでにした事は道路公団にしても年金制度にしても構造には手をつけず損失の補填(応急手当)を国民の負担で済ませただけで本気で日本の慣習を無くす力などありはしない。
反対に、自由、個人主義を基礎に置く「自己責任社会」を国民に要求しグローバル経済を進めるからにはアメリカナイズ゙され本来の価値観を喪失し傷ついた相互扶助社会に日本本来の精神を吹き込み回復させようという本来の保守的な意思があるとも到底思えない。
そもそも言葉は同じでも、アメリカの保守と日本の本来の保守は別物であろう。
自由や多様性に否定的なアメリカ式グローバル自由経済って一体なんだ?

そこから見えてくるのは、迫り来る現実にその場その場で安易な選択をしながら、それをあたかも困難な問題に取り組んだかのように取り繕う姿でしかないように私には思える。
社会は相反する価値観を導入するリーダーの政策により秩序を失っているが、そこに整合性を模索しその答えを国民向けに用意しようとする姿勢は見られない。

ある意味、自己責任騒動などはその混乱の現れとも言えるだろう。
これは旧来の「社会に対する責任感」の強い人が社会の乱れを心配するがあまり、それとは「対極」にある個人主義の産物である「自己責任」という言葉に置き換えて人質を非難してしまうというような価値観が混乱・錯綜した現象では無いのか?
これらの人たちが本当に言いたいのは「社会に対する責任」であって「自己責任」ではないのではないか?
「迷惑だ」「自業自得だ」という主張の根拠を辿ってそこに見えてくるのはそういうことではないのか?
何とか「自己責任」という概念を,それとは本来相容れない「秩序があった旧来の社会に対する責任」と整合性をつけようとしてもがいているのではないのか?

我々のリーダーは日本をどこに向かわせようというのか?
荒波の中でそれを修正する我々国民の自浄作用はどこにあるのか?

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2005/01/15

NHK報道番組の放送内容変更問題

私の立位置からすると、取り上げたくなる内容なのだが、今のところ必ずしもどちらの言い分が事実か曖昧だし、2001年の出来事を「現在」の状況の中で考察するのも気が引ける。
今のところ事実が確認できるのは

2001年1月の番組で長井チーフプロデューサーが放送したかった内容がNHK幹部との打ち合わせで一部カットされ、その直前にNHK幹部と安部氏らが会った事実がある。

ということだけだ。

当初の報道(長井氏の話)では放送前日安倍・中川両氏に呼び出されて幹部と面談し、幹部から圧力がかかり番組の内容に変更を余儀なくされたというものだった。
(正確にはココを参照)
安倍氏は「公平公正な報道をしてもらいたい」といっただけだという。
中川氏は会ったのは放送後だとのこと。

今のところ言った言わないが双方にあり、いつもこの手の出来事に「ありがち」な展開になっている。
事実は今後の進展を待つしかない。
ただ、このような出来事が話題になると、つい「認識」について考えさせられてしまう。
(ちなみにここからは一般論で事実関係が明らかでない今回の出来事とは直接関係無ありません。)

人が人に「ある意図」を伝える方法はそこでかわされる言葉だけで決まるわけではない。
極端な事を言えば、互いに認識(前提)を深く共有する時には目配せ一つで伝える事ができるのである。
この「表に出てくる事が無い前提」を共有しているかどうかを証明する事は至難の業である。
以心伝心という言葉があるがこのような場合においては厄介以外の何者でもない。
これに権力が関わってくると尚更で、その権力の存在そのものが既に意味となり、共有する前提となりえてしまう。
弱い立場の者は、強者が言わなくとも推察する事を求められ、しかもその受け止め方は弱い立場の判断(選択)であるため、その責任までも負わなくてはならないケースは色々な場面でよく見られる。
しかし、確実に強者の「意図」そのものは伝わっていくのである。
強者である権力者は往々にしてこのような手段を講じて自らに危害が及ばないようにするのが常套手段である。
そこには人が「理不尽」と感じる何かがある。
社会に「理不尽」が積もれば積もるほど不満,不信が募り、住みにくい社会となって行くのだと思うが、それを合理的に解決する手段が見つからない。
全てが認識の共有で運営される社会であったり、全てが合理的な手続きで運営される社会であったならまだしも、根底に前者があり、表面上後者で判断される今の我々の社会ではそれ以上にこのようなケースが起こりやすく割り切れぬ思いに刈られる事が多い。
いずれにせよ、意図を証明する事ができようとできまいと、それとは関係なく「それ」は伝わり、事態は進行していく。
今のところ、合理的に表に出して議論する事ができない以上、それに対応するには自分の欲する情報に歪められないように「注意深く」周辺にある事実を繋ぎ合わせ、それでも間違いはあるという自戒を持ちながら、自らの責任において判断(選択)して行くという事になるのだろう。

これはあくまで一般論的な考察ですのでお忘れなく。

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2005/01/11

悲劇の中の希望

スマトラの地震ではその犠牲者は16万人に達しようとしている。
各国はそれぞれに資金援助を申し出て,ボランティアによる寄付もいたるところで行なわれている。
恐らくこれだけ多くの被害を出した災害である以上、これで資金は十分だということは無いと思う。
どんな名目であろうと1ドルでも多くの資金が集まり、それが少しでも救済に繋がればいいと願ってやまない。

ここのところ、国内では「ヒューマニズム」という言葉が陳腐に扱われ、「人権」と言う言葉になるとさらに分が悪く「奇麗事」という言葉で敢えて避けようとする風潮さえ見られるようになっている。
これらの言葉は現実的な国際社会を語るときにも大抵同じように「奇麗事」として片隅に追いやられがちだ。
今回の各国の資金援助でも、どこの国がどれだけ出したとか、どこそこの国の援助にはこれこれこのような思惑を持っているなどとあたかもそれだけが真実であるかのように語られる。
国際政治の中でそのような事があるのは事実であるのでそれについて、それは間違っているなどという事は無い。
だからといって、各国の政策は所詮冷厳な駆け引きにすぎないなどと捉え、シニカルに構える必要も全く無い。

そんなことよりもこの資金援助がなぜ各国の政策にとって重要となりえるのかのほうがよほど私には関心がある。
何がそうさせるのか?
それは、このような政策が多くの世界の人々、夫々の国内の人々から「共感」を得ることができるからではないのか。
そこにヒューマニズムに敏感な「多くの人々」が居るからなのではないだろうか?
「人を助ける」ことを「望ましい」事であるとの認識に今もなお浸されていて、それを希求しているからではないのか?
世界の人々がヒューマニズムに飽いていたならば、政策にも、駆け引きにもなりはしない。
政治の世界に駆け引きがあろうとも世界の人々が冷たいわけではないのである。

「人を助ける事」、「困っている人に手を差し伸べる事」は望ましいという「思い」はけしてマイノリティーなどではない。
そのような思いにもっと自信を持っていいのではないのか?
敢えて一方の事実に背を向け,それを「ヒューマニズム」や「人権」と言う言葉で語られたからといって「奇麗事」として帰属させ不信に陥る必要がどこにあるのだろう。
政治はヒューマニズムに大きく左右され,それを無視などしていないし、できない。
政治がヒューマニズムを左右するのではなくヒューマニズムが政治を左右している面を無視できるものではない。
政府の援助だけでなく多くの個人が自らのできる事として寄付しようとする姿はさらにその思いを強くさせる。

大きな災害で大きな悲劇を生んでいることは間違いないが、そんな中でも世界の人々の中でヒューマニズムがけして絵空事ではないという事実が現れている事は「大きな希望」だと思う。
それを私達は現に今、目にしている。
様々な「色眼鏡」や「利」が世界に対立を引起している事が事実でも、それに抗し難く争いをしていようとも、また、仮にその争いの原因に掛け違ったヒューマニズムを見出そうとも、人々の中に「ヒューマニズムは生きている」という事だけは忘れずに信用してもいいのではないか?
それを捨てなければ、今年はこれまでより少しは良い世界になるのではないだろうか。

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