自浄作用
イラク戦争が始まる前のアメリカは、9.11のショックとマスメディア操作により開戦色に染まり、保守はもちろん、リベラルも含め皆が民主主義国家とは思えないほどの狼狽振りを示した。
しかし、そんなアメリカでも大統領選では戦時下であるにもかかわらず、様々な不法行為がささやかれる中でほぼ半数が異論を表明し、最近では戦争を見直す動きや撤退を議論する空気も出てきている。
アメリカが第二次大戦、冷戦を通して連合軍,西側諸国のリーダーとして認められるようになったのも、力だけではなくこの民主主義としての自浄作用を持っていたことと無関係とは思えない。
ベトナム戦争中に内部に反戦運動を抱え、撤退を余儀なくされたことでさえも他の世界の国々のアメリカに対するイメージを悪化させたかというとむしろ逆なのではないだろうか。
現在、冷戦も歴史となり、これだけ国際社会が複雑に絡み合い、互いに関係し合い、先行きが不透明であれば、国のあり方に対する意見に多様性が有ってもそれは当然の事である。
忘れてはいけないのは、以前のようにもはや各国の勢力が固定した世界では無いということで、世界は新しい秩序模索の真っ只中に有るということだ。
様々な可能性を用意していなければいけない時代に入っている。
このような状況下では、現在、国家がどのような政策をとっていようとも、常に内部に異論を抱える事こそが正常なのであり、その多様性の中で実行権を決める為に民主主義があるようなものだ。
現在の方向性を民主主義で決めようと、世は動いていて、状況は常に変化するのであるから同様に民主主義による「再選択」も保証されなければ意味が無い。
そのためには「異論」は必要なのだ。
イラク人質事件、自衛隊派遣などに共通して見られるのは「異論」に対するアレルギーであり、構造改革、雪印,三菱などの企業事件、そしてNHK放送内容への圧力問題に共通して見られるのは「組織維持」体質である。
何れも以前「判断を委ねる事(1)」や「迷惑」で少し触れたような「共同体」に対する依存と、それに反する物への「排除」の傾向が日本では強い事を表わしている。
これは世界の勢力が固定された世界でこそ通用した内向きな装置であり、その装置は「国家の方向性」を修正する機能は持っていない。
我々の社会は「異論」の存在意義を認める事がどうにも苦手なのだ。
本来、異論が無ければ民主主義など必要性すら見出せない。
「異論」をつぶしに掛かる社会がその方向性を変更できる唯一の可能性は、指導者の意思だけである。
ところがそのリーダーはアメリカの自由や民主主義を支持しているかと思いきや自由の制限を謳い、迷言で議論をはぐらかし、民主主義自体をまるで信用していないご様子。
さらにグローバル経済を支持しているかと思いきや、これまでにした事は道路公団にしても年金制度にしても構造には手をつけず損失の補填(応急手当)を国民の負担で済ませただけで本気で日本の慣習を無くす力などありはしない。
反対に、自由、個人主義を基礎に置く「自己責任社会」を国民に要求しグローバル経済を進めるからにはアメリカナイズ゙され本来の価値観を喪失し傷ついた相互扶助社会に日本本来の精神を吹き込み回復させようという本来の保守的な意思があるとも到底思えない。
そもそも言葉は同じでも、アメリカの保守と日本の本来の保守は別物であろう。
自由や多様性に否定的なアメリカ式グローバル自由経済って一体なんだ?
そこから見えてくるのは、迫り来る現実にその場その場で安易な選択をしながら、それをあたかも困難な問題に取り組んだかのように取り繕う姿でしかないように私には思える。
社会は相反する価値観を導入するリーダーの政策により秩序を失っているが、そこに整合性を模索しその答えを国民向けに用意しようとする姿勢は見られない。
ある意味、自己責任騒動などはその混乱の現れとも言えるだろう。
これは旧来の「社会に対する責任感」の強い人が社会の乱れを心配するがあまり、それとは「対極」にある個人主義の産物である「自己責任」という言葉に置き換えて人質を非難してしまうというような価値観が混乱・錯綜した現象では無いのか?
これらの人たちが本当に言いたいのは「社会に対する責任」であって「自己責任」ではないのではないか?
「迷惑だ」「自業自得だ」という主張の根拠を辿ってそこに見えてくるのはそういうことではないのか?
何とか「自己責任」という概念を,それとは本来相容れない「秩序があった旧来の社会に対する責任」と整合性をつけようとしてもがいているのではないのか?
我々のリーダーは日本をどこに向かわせようというのか?
荒波の中でそれを修正する我々国民の自浄作用はどこにあるのか?
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