想像をはるかに越える
NHKでアーカンソン州兵の特集をやっていた。
以前ここに出てくる養鶏場の経営者と神父が招集されるまでの特集も放送していたような気がする。
今回はイラクに派遣されイラクでどのように過ごしているかまでカバーされていた。
焦点を当てていた2人はごく普通のアメリカ市民であったが,それぞれ平時の必要性から予備役に登録した事で、戦時となった今イラクに向け召集される事になった。
いずれも、アメリカ市民としての責任とアメリカへの誇りを持って戦場へ向かう決意を出発前には感じていたようである。
実際にイラクに派遣され任務に就く中で次から次へと戦場の現実が押し寄せてくる。
正規軍に比べ著しく劣った装備で身を守らなくてはいけない現実。
イラク人の為に行なわれているはずの任務がイラク人からの恨みを買う現実。
聖職者で有りながら女子供に銃を発砲しなければいけない選択に迫られる矛盾と向き合わなければいけない現実。
駐屯地が攻撃され仲間の死を目にすることにより、死の危険に実際にさらされる現実。
彼はこういっていた。
「これまでずっと人を信じてきたが、ここでは全てが敵に見える。」
と
そして、夜間パトロールで車列が攻撃され炎上する味方の車両を目にし、自分の装甲車にあたる弾丸の音に怯え、暗闇で見えない敵に反撃の乱射をしつづける。
そしてさらに口にする。
「現実は想像をはるかに越えていた。」
と
彼らはバグダット周辺に配備されたのでありファルージャに派遣されたわけではない。
彼らは圧倒的な装備で制圧する側の人間である。
それならば、イラク人から見た現実はどれほど想像を越えるのであろうか。
彼らに同情しながらも、その立場の人々に思いを馳せようともしなかったその傲慢さへの怒りも同時に込みあげる。
戦争を体験した事も無く平和に浸りきった大部分の我々日本人がどれだけ想像しようとも、さらにそれをはるかに超えるものであろう事ぐらいは「想像」できるだろう。
「国益」や「愛国心」が現実なのではない、戦闘で人の脳漿が飛び散り無残に死に、自分の体が吹き飛ばされ死ぬ事こそが、そこでは「現実」なのではないのか?
人の死に思いを馳せようともしない傲慢さは我々自身の物でも有る。
我々の先輩方はその「現実」を体験してきた。
多くの先達はその「現実」の中で散っていった。
多くの生き残った人たちは「絶え難きを堪え,しのび難きをしのんで」も戦争を止めることの方が良かったと実感した。
その時人々はやっと戦争が終り、戦争が無いことの尊さを思い知り何に代えても二度と戦争はこりごりだと思ったはずなのだ。
それを忘れた今の我々がどんなに想像して「覚悟を決める」などと口にしようとも、「現実」はそんな戯言など跡形も無く忘れさせてくれる事だろう。
この番組で取り上げたイラク戦争で「現実」に直面しなくて済むのはラムズフェルドやブッシュ大統領のような立場の人種だけであろう。
あなたや私は果たしてそのような立場の人種なのか?
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コメント
寒中お見舞い申し上げます。
昨年中は興味深い記事を読ませて頂き
ありがとうございました。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
(イラク関連ということでTBさせて頂きました)
投稿: heteheete | 2005/01/10 16:14
heteさん こんにちは
私もheteさんの人間味のあふれる、しかも感覚の優れたblogをいつも楽しませてもらっています。
唐変木な私にはとても書けない幅広さや意外性も私を楽しませてくれます。
今年もどうか宜しくお願いします。
投稿: FAIRNESS | 2005/01/11 11:18