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2004/12/08

判断を委ねる事(1)

私達は様々な場面で知らず知らずに他に判断を委ねながら生きている。
経済活動に使われる紙幣などもそうで、本来は絵が印刷された紙切れでしかない。
その紙切れを「他」が価値のあるものとして判断して、それに相当する物やサービスに提供してくれる事を高い確率で期待できるから「私」もそれを価値のある大事なものとして扱う。
今のところ(最近は怪しいが)、紙幣一枚一枚を本物であるかどうかを虫眼鏡や機械を使って判別しなくても使えるのも、「他」(皆)が本物を「私」に差し出す判断をしてくれる事を高い確率で期待できるからできる事だ。
最近、偽札事件が多発している。
犯人が実際にした事は「紙にある図柄に良く似た絵を印刷した」だけの話であるが、その期待の確率を低下させ「他に判断を委ねる」事をできなくしてしまうから重大な問題となる。

電車に安心して乗る事ができるのも、設計者、製造者、管理者の判断に安全を委ねられるからであり、安心して他人の横を歩けるのも、その他人が突然私を傷つけないという判断に委ねられるからである。
一般的にモラルといわれるものも同じだと思う。
皆が同じように考える事を高い確率で期待でき、「他」の「判断に委ねる事」ができる状態は、高度化された文明社会では必要な要素の1つになる。
もしこれが無ければ科学の発展により専門家し、複合化することにより成り立つ便利さや安全は、むしろ不便さと危険に豹変してしまいかねない。
原発などはこの信頼がなければとても認められる物ではない。
秩序崩壊後のロシアの核物質管理の甘さを見ても、その危うさを想像できる。
(これはモラルなき富と力の原理[あからさまな秩序]の持つ危うさも同時に示唆しているように思えるが、わき道にそれるので省略)

だから今の社会は不安や不信に対して脆く、それを突いてくる無秩序なテロに対しても脆いのだろう。
オレオレ詐欺のような、以前には想定できない信頼を逆手に取った無秩序な「悪意」に対して脆いのもそうだと思う。

「自己責任」という言葉が経済のグローバル化とともに注目度が増しているが、今も昔も本質的には変わらず「自己責任」自体は存在していたと思う。
社会の変化で、その概念をこれまで以上に「認識」せざるを得なくなったにすぎないのだと思う。
皆が同じように思う事に「判断を委ねる事」はその確率さえ高ければ効率的で過ごしやすい。(シンプルだ)
ただし、それでも確率は高いとはいえ裏切られる事はあるわけで、その確率に判断を委ねる事において「自己責任」が生ずる事には変わりはない。
これまでは裏切られる事が少なかった(と皆が思っていた)から意識せずにいることができたにすぎない。

グローバル化(もちろん経済だけの話ではない)は共通の認識に沿わない異質(違った価値観)を受け入れる事でも有る。
異質の流入は「他に判断を委ねる」為の条件となる「暗黙の期待に応える確率の高さ」を保証してはくれない。
そこでは「他に判断を委ねる」便利な手段は通用しないケースが頻出する事を覚悟する必要がある。
結果として意識しなくても済んだ「自己責任」という認識を意識せざろう得なくなったということ。
それまでの安定した秩序が不安定になったと言い代えてもいいと思う。
このような秩序の不安定化はいろいろな場面で見られる。

地域社会のコミュニティーもこれまでは暗黙の決まりがあり、近所の付き合い、助け合いなどもそれらの必要性という認識を共有していたからその決まりに「判断を委ねて」いられたのだが、その決まりが自由や個人主義、資本主義という異質の流入により支えきれなくなり「判断を委ねる事」ができなくなった。

会社も就職すれば定年まで働く事ができ、それが為に個人よりも組織のために一生懸命働くといった暗黙の決まりがあり、そのために組織独自の認識に「判断を委ねる事」もできたのだが、経済のグローバル化がその不文律(秩序)を不安定にしてしまっている。

国(内政、外交)や国際社会にもそれは言える。
これまでは冷戦構造という安定した秩序の中で平和、モラル、発展、自由、民主主義、親米といったものは多くの人にとって、それを問いただす必要もなく、これらに肯定的である全体の漠然とした判断に「身を委ねて」いても、それを始点として物事を考えようと、それほど期待を裏切られる事がなかったのだが、上記のような国内の秩序の低下により、冷戦の崩壊により、その後の世界の枠組みの変化により、これらにそのまま「身を委ねる事」ができなくなってしまった。
根拠のないレッテル貼りに使われるので好きな言葉ではないが「平和ボケ」とか「思考停止」もこのあたりと関係が有りそうだ。

その意味ではイラク人質事件に見られた「政府の方針に反する行為」を理由としたバッシングは、むしろ共同体である国(政府)の判断に身を委ねた旧来の構造に近いような気がするので、その立場で「自己責任」が語られると違和感を感じてしまう。
この立場で言うなら「自己責任」という言葉など使わず従来どおり「日本社会の価値観の維持の為にそこからはみ出す事は許されない」と主張したほうが論点も、違いも明確になるのではないか?
もちろん個人的には、この「自己責任」という言葉を使ったこのような論法は「自己責任」の意味を取り違えているのではないかと思っている。
グローバル化や世界の枠組みの変化に直面する中で、疑いもなく「共同体の判断に身を委ねる」姿を見せ付けられたようで、むしろ「自己責任」の認識欠如による危うさを感じてしまうのだ。

地域社会も会社も国家も過去の共同体の価値観に判断を委ねる事ができなくなり、新しい信頼できる秩序ができるまでは自らの判断としての自己責任をこれまで以上に認識せざろう得ないのは事実であろう。

最初の方で書いたように共同体の価値観に判断を身を委ねようと委ねまいと「自己責任」の存在そのものは違わない。
同様に、判断を委ねることが共同体が責任を引き受けてくれる事を意味するわけでもない。
共同体自体の判断が間違えば結局はその結果を自らが負うことになり、そのときに責任までも免除されると勘違いして共同体を罵倒しようともどうにかなる物でもない。

もちろん、共同体の秩序が低下しても尚、共同体の認識に身を委ねることは可能であるが、それが自らが納得できる結果をもたらすことを期待はできないということ。

果たして、このように低下した秩序の中で、全ての事柄を「ある秩序」に判断を委ねることなく「自己責任」の認識のみで人は生を処理できるだろうか?
それは、科学で言うならば電車に乗るときに技術的な事から、製造に関する事から、管理的なことまで全てにおいて自らが把握するか、把握できない低下していく確率の不確かさを承知しながら安全を運に任せるようなものだ。
文明と社会は切り離す事はできないし、すでに有る文明を人が放棄することも人の記憶がそれを許さない。
やはり、複合化に対応した何らかの信頼できる新しい認識(価値観)を創出していこうとするのではないだろうか。
それが、これまで慣れ親しんできた日本的な認識(価値観)を踏み込んで未来に向け再考しなくてはいけない理由であり、今、変革期に生きる私達が直面している現実のような気がする。

これに対してアメリカもヨーロッパもその他の勢力もそれぞれが違ったアプローチをしている。
「認識」のグローバルスタンダードの構築を現実の中で「意思」を持って推し進めている。
日本もその渦中(意思と意思の凌ぎ合いの中)にいることを忘れてはいけないと思う。

長くなってしまったので続きはいつかまた...

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» 「自己責任」 [kitakitune]
あのバッシングで出た「自己責任」だが,ひどい台詞だと思っている. FAIRNES [続きを読む]

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