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2004/12/03

退廃美術展

私は全く絵画に詳しくは無いが嫌いではない。
旅行に行く時は美術館に立ち寄ることも時々ある。
好きな画家については絵画集を買ったりして、その背景を読んだりする事は有るけどあまり長くその内容を頭にとどめることもない。(記憶力が弱いだけなのだが...)
Monetも好きな画家の一人で、Bostonに多くの作品があったためその時間の多くを美術館に費やして、ボーとながめたりして時間を過ごしたりした。
筆遣いや絵の具の質感などは写真では判らないので、実物を目の前にすると近くによって眺め、離れて眺め、じっと見つめなどということをしてしまうので、時間はあっという間に過ぎてしまう。
そのボストンで私がMonetを好きになったきっかけになった絵がワシントンにあるという事を知って、急遽旅行期間を延ばしてワシントンDCまで足を伸ばした事も。(その結果以前のエントリーで書いたように中西部をバイクで移動中雪に閉ざされるという失態に繋がることになったのだが)
当然印象派を見る機会が多くなりルノアールやピッサロ、そしてゴッホやシャガールなども見る事も多くなる。
抽象画も目にすることにもなるが、そのあたりになると何かを読み取ろうとするような努力はしない事にして、目にとまるか、目にとまらないか、綺麗か綺麗でないか、奇妙か奇妙じゃないかなど殆ど見た印象だけで立ち止まったり通り過ぎたりして、作品を見る前にタイトルや作者を確認しないようにして、作品から受けた印象とタイトルとのギャップを楽しむ程度だ。
(やはりここでもblog同様、感覚的な見方しかしないようだ)

その程度なので昨夜NHKBSで取り上げたクレーの名は当然のように知らなかった。(「金色の魚」はどこかで目にしたようなしないような...)
その番組は画家パウル・クレーに焦点を当てながらナチス政権下で開かれた「退廃美術展」のことを取り上げていた。
これはヒトラーの芸術に対する統制・弾圧の1つとして行なわれ、プロパガンダ的な要素を帯びながら「退廃した」絵画を集め、さらし者にするような美術展だったようだ。
ナチスが本を焼却させたのと同じように危険な思想、民族の退廃の象徴として槍玉に挙げられたという。

退廃のターゲットにされたのは「常識で理解できないような物」「戦争の悲劇を表現した物」「ユダヤ人に関する物」などだそうで、私が気になったのはやはり「常識では理解できない物」という理由だ。
ある意味、芸術と言われる物は秩序を打ちたてようとする権力者の敵になる要素を持つのかもしれない。
秩序には認識の共有が必要となり、何らかの同質性が要求されるのだと思うが、芸術はむしろ既成概念への挑戦であったり、新しい価値の創出であったりして、同一性の枠からはみ出る物に違いない。
芸術の持つこれらの性質こそが人に感動を与え人に潤いを与える物になりえるのだと思う。

先日、「盲目的で愚かな試み」というタイトルで私は「赤裸々な人の姿」のまま人は生きることはできないと書いたのだが、芸術には「人の根源を求める」要素も含んでいて、私の中にある「それを大事したい」という気持をどう帰属させるべきかは結構厄介な問題に思える。
「赤裸々な人の姿のまま人は生きていく事はできない」をさらに発展させ飛躍させればヒトラーに繋がる可能性も秘めているような気がする。
一方で芸術もまた人にとって無ければ生きていけない物の1つなのかもしれないとも強く思うのだ。
だから何処かしら相反する物を含んでいるように思える。

これはまだ突き詰めて考えたわけではないが、突き詰めて考えていくと戦争にしても平和にしても愛にしても憎悪にしても相反する矛盾を色々な場面で見つける事ができる。
人は矛盾に対し究極の答えを探しつつ、試行錯誤により新しい認識を生みながらその解決を図ろうとする、しかし、永遠にその答えに到達する事は無いだろうと確信にも近い物も有る。
それでは人にとって答えの見つからない試行錯誤が無駄なことかといえば、そうでもない。
試行錯誤という行為そのものにすら「意味」を見つけてしまうのが「人」(私でありあなた)のような気がする。
「究極の答え」の代わりに時間軸と変化を含む試行錯誤があればそこに有用な意味を見出す事もできる。
今を生きる私達もそこに「意思」を反映させる事ができればさらにその「意味」は増す。

絶望は矛盾に耐え切れず試行錯誤を止めてしまったときに、そして最大の絶望はその矛盾がすべて解決してしまった時に起こる事であって、本当は解決できない矛盾があるからこそ人は希望を持って生きていけるのかもしれない。
ならば、人を取り巻く矛盾に満ちた世界(宇宙)は人にとって意外にやさしいのかもしれない。
などと
都合のよいことをちょこっと考えてみたりする。

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