覚悟
前回のエントリーで今年を終えようと思ったが、このグロテスクなテーマを新しい年に持ち込みたくないと思い返しあと一つだけ書いて今年を終えようと思う。
最近様々な局面で「覚悟」という言葉を目にするようになった。
きな臭い国際情勢、中国に対する警戒感、北朝鮮に対する怒り、そして我々自身の社会の閉塞感に対する嫌気が満ちている事がその背景にあると思う。
北朝鮮の拉致問題への政策として浮上した経済制裁に関する文脈では特に顕著になってきているような気がする。
殆どの日本人は北朝鮮に対する「経済制裁」を考える時に、日本が本気である事を伝えなければ効果がないことを感じている。
本気である事を示す以上、北朝鮮が「物理的反撃」をすることを抜きに語ることが「楽観論」になってしまうことを皆知っているのだと思う。
つまり、「有事」を覚悟し、その上で経済制裁を行なわなければ意味がないと思っている。
経済制裁に踏み切るならばやはり、その覚悟が問われるのは当然の事だと私も思う。
それでは我々は一体何を覚悟しなければいけないのだろう。
イラク戦争の例で見るならば死亡率の低い米軍でも1000人以上の死者を出しているが、その影で重軽傷者はその10倍以上にはなるだろう。(イラク人の被害がそれ以上だということは言うまでもない)
多くの人は被害を受けても、なかなかあっさりは死なせてはくれない。
閉塞感で絶望し自らの思いどうりに命を絶つ自殺とは違う。
このうち何人が障害や後遺症を持ちながら生きていかなくてはいけないのだろう。
北朝鮮がミサイルを打ち込んでくる事も覚悟するという事は通常兵器ではない「放射能」による被害も考えなければなるまい。
これは直接命を奪われる以上に生きている者の人生を無残な物にすることだろう。
ここでもそう簡単には死なせてはくれない。
被爆者の真実は隠蔽され、差別され、結婚も難しく、子を授かれば不安になり、被害を受けなかった者にはあっさり忘れ去られて健康の不安に脅かされながら「生きて」いくのである。それが被爆国の教訓である。
ミサイルを打ち込まなくとも、北朝鮮にとってはテロという手段も当然その選択肢となる。
子供の拉致殺害やドンキホーテへの放火などの事件でも社会不安が一気に高まる社会なのだから、日本社会を不安に陥れるのはそれほど難しいことでもなさそうだ。
社会に対する信頼という秩序に頼った社会資本は日本には腐るほどある。
これらを安心して利用できなければ経済がどうのこうのといっている今がきっと「のんき」に見える事だろう。
信頼の上で成り立っている経済がもし信頼を失ったなら、まともに経済活動が機能するはずがない。
日本が高度化した社会であることは、残念ながらこのような事態に対しては短所にしかならないかもしれない。
疑心暗鬼の中で、公安は在日の人々やそのシンパを炙り出す為に徹底的に調査する事だろう。
テロを見分ける為に締め付けは自国民にも向けられるはずである。
「有事」には人権などはあっさり軽視されることも考慮しなければいけない。
「現実的」である我々は、軍事力も国家権力も「有事」のまえにはなす術もなく受け入れる可能性は高い。
テロを含めた現代の「有事」を覚悟するということは、死や傷を負う事はもちろんだが、信頼によって成り立っている秩序(恐怖による統制的秩序ではない)が徹底的に荒廃することぐらいは当然想定していなければいけないだろう。
私が私自身の事で最も簡単に想像できる覚悟は「死」である。
あえて考えようとしなければ、せいぜい潔く一瞬で死ぬ自分の姿を想像するのが限界だろう。
しかし敢えて現実の戦場の情報から想像するとそんな潔い物ではなさそうだ。
脳みそが吹き飛んだ、形をとどめない大切な人の遺骸の傍らで、自らも手足が吹き飛ばされ、麻酔もなく,のた打ち回りながら、誰にも気付かれることなく、死にきれないまま苦痛の中で生き続ける事。
テロで爆破された瓦礫の下敷きになり、逃げる事もできず,迫りくる劫火に炙られながら髪の毛、衣服,そして自分の皮膚が少しずつ焼かれていく事。
爆風で飛び散った破片が腹を切り裂き、はみ出た腸を自分で抑えながら、何もできずに時間をかけて死を待つ事。
体が動かない自分を自覚しながらどこが傷ついているかも判らず、ただ他人の恐れと哀れみの目が自分に注がれる事。
熱線を受け、放射能を浴び、肌がだらりとたれ、そこにうじが湧き、吐き気と頭痛で不安と絶望の中で確実に死に向かう現実を見せつけられ、少しずつ弱りながらその時が来るまで生き続ける事。
いやそれ以上の物だろう。
死に方も,傷つき方も、生き方も、何一つ選ぶ事などできない不条理に直面する事であり、その不条理の中で「死ぬまで生きていかなければいけない」ことなのだろう。
国家を擬人化すれば、国が攻められても、私ではない他の誰かがこのような目に遭うだけで済むかもしれないという言う楽観的な錯覚をしがちな自分にはなかなか目が行かない。
「認識」である「国」は実際には傷つくことはない、傷つくと「考える」だけである。
実際に傷つくのは一人一人の生身の人間であり、生きる環境である。
たかが経済制裁でそこまで極端なことを考える必要はないなどと言う事ができるだろうか?
そこまで予想しない「覚悟」などはそもそも必要ない。
それは、暗に北朝鮮が武力行使などしないと希望的な予測をしているというだけの事で、「覚悟」とは全く別次元の話だ。
それならば「覚悟」を口にしようとしまいと、たいして変わりはしない。
一つの行動は次の必然を生む、その先にも予想だにしない事態(必然)が待ち受けている。
引くに引けない状態が理性的な判断をいかに無力化するかを見せつける事例は現在(もちろん過去にも)地球のいたるところで「紛争」という形で見る事ができる。
そこでは相手が優位か不利かはもはや問題とはならない。
我々はどこまで想像して「覚悟」を口にしているのだろう。
新しい年を希望の年とするために、私も本当の「覚悟」や「勇気」が何なのかを考えていきたい。
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