« 忘れたくないもう一つの現実 | トップページ | 暗黙の共有 »

2004/11/21

盲目的で愚かな試み

皆それぞれ

勝手に生きたい。
思うが侭に生きたい。
欲に満たされたい。
指図はされたくない。
支配もされたくない。
嫌いな相手はいて欲しくない。
殺されたくは無い。
傷つけられたくは無い。

昔も今もそれほど変わらない。
これが、赤裸々な人間の本能的な姿なのかもしれない。
しかし、仮にこれらが満たされたとしても、なぜかそれだけでは幸福感を満たす事を保証しない。
また、仮にこれを人間本来の姿として全面的に認めたとしても、全てが満たされる事は無い。
人が一人で生きていても自然の摂理がこれを許してくれるはずも無い。
自然が許してくれても一人で生きたいように生きることが他人と生きること以上に幸福を保証する事も無い。
人が生物である以上その限界から逃れられる事も無い。
科学でその制限を軽減する事ができても、それだけでは幸福を保証する事は無い。
人との係わり合いは本能を制約する物には違いないが、それ無しにその本能を満たす事もありえない。
殆ど赤裸々な人の欲求を満たす事ができなくてもそこに幸福感が無いとも言い切れない。

どちらにしても人との係わり合い無しに我々は存在し得ない。
赤裸々な人の姿があったとしても、人との係わり合いの中で幸福を満たす方策を模索しながら生きる。
社会生活を営む者が普段の生活で「赤裸々な人の姿」そのままで生きていくことなどできない。
それは、そうする事で「赤裸々な人の姿」を求める「他」から、自らの「赤裸々な人の姿」を否定されてしまうことを意味する。
だから延々と答えの無い「最大公約数」を求めて試行錯誤を繰り返しながら生きている。
その生き方は、「赤裸々な人の姿」として生きることではない。
それを「理性」というのか「知恵」というのかは判らないが、それに近い物だろう。
それを「人は本来の姿を偽っている」と考える事に意味など無い。
人が置かれている「世界」に厳然と存在する「係わり合い」を否定する事自体が「盲目」であり「偽り」なのではないか。

実生活では、大抵の人はそれを肌で感じ、実践している。
そうでなければ
マナーなど必要ない、思いやりも必要ない。
言葉も無用なら、コミュニケーションなども必要ない。
家族を持つ必要も無いし、親を子を愛する事などあるはずもない。
友情も必要無ければ、法を守る必要も無い。
働く必要も無ければ、学ぶ必要も無い。
全ては「赤裸々な人の姿」に制約を与える手段である。
何れも、「係わり合い」を知るが故の最大公約数を求める試行錯誤だ。

しかし、共同体を形成し、その中に埋没する事でこの単純な「係わり合い」を平気で否定する。
試行錯誤までも放棄する。
共同体を擬人化しながら、擬人化された共同体には「赤裸々な人の姿」こそ「真」であるとみなして憚らない。
人同士であろうと共同体同士であろうと「係わり合い」には変わらないにも拘わらず、あたかも例外であるかのように扱う事に躊躇も無い。
その事がまた、実生活で大抵の人が実践しているモラルまでも崩壊させようとしている事になど見向きもしない。
なんと盲目的で愚かな試みであろうか。

|

« 忘れたくないもう一つの現実 | トップページ | 暗黙の共有 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 盲目的で愚かな試み:

« 忘れたくないもう一つの現実 | トップページ | 暗黙の共有 »