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2004/11/07

信頼

人の命というエントリーで瀬戸さんにいただいたコメントへのコメントを書きながら頭に「信頼の喪失」と言う言葉が浮かんでいた。
文脈とは直接は関係ないのだが、「どこかで世界は冷酷な現実のみで動いていると勘違いして、それを受け入れる事が現実的だと自らを戒めようとしている。」という部分を書いている時にそれを考えていた。

以前「姪の一言」というタイトルで少し「信頼」について触れた。
本当はこの出来事に関連して別の記事を書いてUPしようと思ったのだが、自分が納得できずボツにしたことがある。
人から見ると関連性は判りにくいが私の頭の中では繋がっている。
実は最近、数学屋のめがねの秀さんが紹介していた宮台氏の「社会学入門」を目にする機会に恵まれた。
いろいろ興味深い概念が紹介されていたのだが、その中で出てくる「社会秩序の合意モデルと信頼モデル」(連載第八回)を読んで、ボツにした記事で書きたかったことは多少なりともこれに関係があったのではないか、今回頭に浮かんだ「信頼の喪失」とも関係があるのではないかと思ってちょっと長いがここに引っ張り出そうと思う。


今、世の中の事、共同体、社会を考えるとどこにでも顔を出すのがこの言葉。
不信は伝染し蔓延する。
一つの不信が隣の人を不信に陥れ、またその不信が隣の人を不信に陥れたり、不信を与えた元の人の不信を更に煽る。
日本で使われる「自己責任」は周りに対して「不信でありなさい」といっているのだからなおさらだ。

これが蔓延してくると、もうにっちもさっちも行かなくなる。
普通は車道の左側を走っていれば対向車とぶつかる事はないのだが、「人がルールを守るなどと期待するな」となると車も安心して運転できない。
車にカギをかけなければ「盗まれて当然」であり、盗まれるほうが悪いとなる。
警察に通報しようとも「警察がそんなことに真剣に取り組むはずないだろう。」言われてしまう。
銀行に金を預けておけば安心だなどと言おうものなら大変だ。

悪意を持つほうも大変だろう。
善意を信じる者を信頼できれば簡単だったのにこうも皆に不信をもたれてはこれまでの生易しい方法ではわが身が危ない。
当然、巧妙に周到にしかも強行になるだろう。

困っている人を助けようものなら「偽善」のレッテルを貼られ、その人が少しでも間違った事をしたら「それ見た事か」と総攻撃、やはり「人など信用するものではない。」は勢いを増す。
人など助けなければ「ただの人が間違った」で済むのに人を助けた事があるばかりにそれではすまなくなるのなら、とても人を助けるなどといったおこがましい事はできなくなる。下手をすれば訴訟にもなりかねない。

私達の生活は何をするにも何らかの事を信用できることが前提で社会生活を営む事ができるのだが、そんな事を言っては「非現実的」とか「甘い」とのそしりを受けることになる。
一種の防衛本能なのだろう。
かなり、不信が蔓延した共同体では当然「不信」を前提に話をしなければ、現実的な具体策とはみなされない。
この現実的な具体策でなければ、採用される事がないのだからますます「不信」は発言権を強め、更に不信の和は広がっていく。

戦争、防衛などでよく引用されるのは「強盗に襲われたら黙って殺されるのか?」
「不信」を前提にした話なので、答えは

「身を守るために皆が銃を持って生活する事だ。」

と言う事が妥当なのか?
しかし、ここで現実論を打ち切るのは現実的ではない。
ここで止まればいいのだが必然はそれを許さない。

更に現実的には隣人も常に銃を持つわけだから

「銃を持った隣人には常に気をつけろ」

中には奇妙な行動を取る人もいるだろう。そのときは

「やられる前にやるのは正当防衛」

といって先制攻撃で引き金を引くのだ。

「やられるほうが悪いのだ」

強盗も殺されちゃたまらないから

「相手は銃を持っているのだから、躊躇するな」

と・・・・・・
更に続きはあるのだろうが、「不信」とそれに対して
「現実的」である事を前提にすれば充分可能性を考慮できる事だと思う。

極端すぎるなどとは言わないで欲しい。
アメリカでは実際にハロウィーンで射殺された日本人がいたのだから全く現実的な話だ。
過激な犯罪も浮世離れした話ではない。
紛争地域ではなおさらだ。
つまり非常に現実的にはこうなる事は全く不思議はなく、実際にをれを選んだ人々がいるから
現実に存在するのだ。
そういう世界は存在し、そういう世界に同調する事に違和感など存在するはずがない。
(意図しようと意図しまいと)それを望んでいるのだ。

私はそれを望まない。
これを意図的に望んでいる立場の人から非現実的な理想主義といわれても構わないが、途中で流れが止まることを期待する立場の人にはあまり言われたくない。
大きな流れに「身を任せながら」その流れが「自然に止まる」のはその結果としての戦争、自然災害などのような流れのエネルギーを一気に放出するような事態を待つしかないような気がする。
でも、大きな流れに逆らう小さな流れが少しずつ大きくなり流れを変える歴史は存在する。


以上引用

ボツにした文をそのまま修正せずに写したので文脈的に変なところもあるのだが、この中で納得できなかったのはその文脈のおかしさもそうだが、あまりに唐突な結論に何かしらの違和感を感じたからだと思う。
もともと化学出身(大昔)の私には究極的には無秩序に向かう流れは抗し難いものであり、それが自然の法則であるという考えが頭の片隅のどこかにある。(エネルギー論(熱力学)のエントロピー的な概念)
ついでに言うなら「恨みの連鎖」を考える時は化学の「連鎖反応」を、緊張を考える時は「エネルギーの励起状態」を無意識に頭に浮かべる。

私の内面から湧き上がる「現実という流れに異を唱えたい欲求」を感じつつも、この概念(前提)から来る無力感と自分の「頼りない思い」との葛藤が常にある。
しかし、社会学入門を読んでこのことに小さな光を見る気がした。(連載はまだ続いているが)
あまりに多くの私にとって有意義な概念があったのだが、この自分の意識の「頼りなさ」に勇気を与えてくれたのは
「現在、人がまがりなりにも社会を構成しシステムを維持しているのはもともと、ありそうもない事の実現に他ならない。」(素人である私が文脈からこう解釈したに過ぎないが)
ということを感じたことであり、社会の存在自体が物理現象にはない「エントロピーの低い状態を維持する」可能性に光を与えてくれたことだ。
また、この中で出てくる「信頼モデル」という概念も私の思考の方向性(上記のボツにしたエントリーのような)に力を与えてくれる。
それは「物質」と「意味」との持つ性質の違い(物理的であることと意味的であることの違い)であり、意味は選びなおしを可能にする事であり、コミュニケーションであり、自発性を持つ etcです。
逆に、ここに取り上げたエントリーのように武器が必要となる状況でも「同一性を互いに供給しあう」事で、それは秩序が維持されていると考えられる課題を生むことにもなるが、そこではどういう形で秩序が保たれるかを考えればいいと思う。

そのほかにも社会学入門を読んで考えさせられる事は多かった。
政府と国民の「信頼」が現実により歪められる事により社会という秩序にどのようなダメージをもたらすかも予期させる。
力や権力で法が歪められる事で同じ信頼モデル内でもどのような予期の変化を生じどんな社会が想定されるかにも興味がでてくる。
「選択前提」を考慮すると教育のあり方、マスコミ操作の効果にも繋がりそうだ。
「選択連鎖」は私が良く使う「必然」や「なし崩し」を考える時にポイントになりそうだ。
「意味の持続性」は「歴史問題」にも関わるだろうし
「自由」や「多様性」はイメージとは違い、必ずしも即それが政府の言うように「複雑性」(無秩序)を意味するのではなく「複合性」による、よりエントロピーの低い高度化した「秩序」として考える事の妥当性を感じる。
国際社会が直面する混乱した多様性の中で秩序を見出す時、システムとシステムが新たなシステムを生むような概念として考えてみたい。
アメリカの試みが何処に位置し、宗教同士の絶対的な対立をどう見るかにも興味が湧く。
入門と謳っていても「社会学入門」は難解で分からない事が沢山あるが何度も読み返したいし、連載は今も続いているのでそちらも読みたいと思う。関連する書物にも手を出そうと思う。

私は常に不完全であり、けっして完全にはなれない。
だから、完全になる事を待つことはできない。
生きている以上、常に選択(先送りも含めて)の連続であり、その不完全な状態でその選択をし続けるわけだが、現時点で納得できる「より良い選択」をしようと「あがこう」と思う。
それは心地よい秩序を模索する事であり、同一性を供給しあう要素の一端としてコミュニケーションを試みる事かもしれない。
おそらく今後のエントリーにこんな難解な用語がでてくる事はないと思うし、そうしたいとも思わないがエントリーに書く内容は体験的で感覚的でも、常に私の中で整理しながら勉強していきたいと改めて思う。
同時に、皮肉にも「システム概念」が一箇所にとどまる事がない事も示唆しているようにも思えるので、私は自身の感覚的な物には錯誤が付き物であると疑問を投げかけ続ける事を前提にしながら、この感覚的なものも大切にする立場をとりたい。

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