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2004/11/27

暗黙の共有

「殺される前に殺したかった」

最近の、誰でも知っているある事件で犯人が口にした言葉だ。
この事件をこの一言で正当化することなどできないのは当然である。
しかし、この「言い訳」を非難する言葉を我々は持っているのだろうか。
我々は堂々と言いたいのだ。
「それでも人の命を奪う事は間違っている」と
しかし、我々自身が一方で犯人の口にする「言葉」と同じ考えを正当化している。
先制攻撃を正当化するブッシュ政権を「殺そうとしている」理由がなかったことがわかった今でも支持している。
人の命を国際社会の現実という言葉を使って亡き者とする行為を積極的に支援している。
アメリカ人の半数には国内の社会正義と国際社会での行動に矛盾はない。
それが世界にとって良いのだと信じている。
果たしていつまで「人道的に正しい軍事行動」という認識を維持できるかどうかはわからないが今のところ矛盾はない。
我々はこれらアメリカ人の半数とは違い、アメリカ政府の行為を「人道的に正しい」とは多くの人は見ていない。
自らが享受するものを守る為に、現実的に仕方のない選択だと捉えて、それを支持している。
それを、あらゆる現実論を駆使してシニカルに構え「現実はそうなのだ」と納得させようとしている。
殺人犯が口にする「言葉」と同じ理屈を共通認識として自らに植え付けようと必死なのだ。
「たかが一つの事件といっしょにするな」と言うかもしれない。
しかし、目をそむけなければ似たような理屈を日本社会で唱えるものが増えていることに気づくだろう。
いま、その認識が日本社会のモラルを崩壊に導こうとしている。
同様に
「自衛隊が派遣される場所が非戦闘地域である。」
等が公然と口にされ、それを見過ごす社会が人々に「道理」を求めている。
その同じ口が日本人の誇りを語り、モラルの低下を憂い、愛国心を求めているのである。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら官僚に姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら企業姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながらイラク人質や家族の姿勢を糾弾するおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら他国の道理や人道を非難するおかしさ。
そろそろそのおかしさが我々一人一人のおかしさであるであることに目を向ける時だと思う。
政府の横暴を支えるのも、官僚の悪癖を支えるのも、企業のモラルハザードを支えるのも我々一人一人、今現れている社会の姿は我々のその選択に伴なう自己責任の結果なのではないだろうか。
殺人犯の真の動機はどうあれ、彼の口にした「言葉」は異常ではなく我々が共有しようとする認識に他ならないのではないか?
それこそが我々が次代に残そうとする新しい秩序の世界なのではないか?(皆がそう思えばやがて動かしがたい「力」の秩序になる)
国際問題は国内問題。
国家の施策は社会の鏡。
その社会の認識は我々一人一人の選択が作り出す。
遠い国の出来事などでもなければ、他人の事などでもない。
ついでに、
一つの間違えが露見する事を恐れ犯罪を重ねてしまう犯罪者のごとく
小さな負けを取り返そうとしてドツボにはまるギャンブラーのごとく
麻薬に手を出して、止める事ができなくなってしまう中毒患者のごとく
身近な現実へのつじつま合わせで自分を見失うような「なし崩し」で継続される自衛隊派遣も考え直した方がいいのではないか?

「人を殺すのはいけない事だ」と堂々といえる社会の為に「新聞に広告を掲げよう」という試みも行われている。
詳細はこちらの「イラク意見広告の会」で確認できます。

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2004/11/21

盲目的で愚かな試み

皆それぞれ

勝手に生きたい。
思うが侭に生きたい。
欲に満たされたい。
指図はされたくない。
支配もされたくない。
嫌いな相手はいて欲しくない。
殺されたくは無い。
傷つけられたくは無い。

昔も今もそれほど変わらない。
これが、赤裸々な人間の本能的な姿なのかもしれない。
しかし、仮にこれらが満たされたとしても、なぜかそれだけでは幸福感を満たす事を保証しない。
また、仮にこれを人間本来の姿として全面的に認めたとしても、全てが満たされる事は無い。
人が一人で生きていても自然の摂理がこれを許してくれるはずも無い。
自然が許してくれても一人で生きたいように生きることが他人と生きること以上に幸福を保証する事も無い。
人が生物である以上その限界から逃れられる事も無い。
科学でその制限を軽減する事ができても、それだけでは幸福を保証する事は無い。
人との係わり合いは本能を制約する物には違いないが、それ無しにその本能を満たす事もありえない。
殆ど赤裸々な人の欲求を満たす事ができなくてもそこに幸福感が無いとも言い切れない。

どちらにしても人との係わり合い無しに我々は存在し得ない。
赤裸々な人の姿があったとしても、人との係わり合いの中で幸福を満たす方策を模索しながら生きる。
社会生活を営む者が普段の生活で「赤裸々な人の姿」そのままで生きていくことなどできない。
それは、そうする事で「赤裸々な人の姿」を求める「他」から、自らの「赤裸々な人の姿」を否定されてしまうことを意味する。
だから延々と答えの無い「最大公約数」を求めて試行錯誤を繰り返しながら生きている。
その生き方は、「赤裸々な人の姿」として生きることではない。
それを「理性」というのか「知恵」というのかは判らないが、それに近い物だろう。
それを「人は本来の姿を偽っている」と考える事に意味など無い。
人が置かれている「世界」に厳然と存在する「係わり合い」を否定する事自体が「盲目」であり「偽り」なのではないか。

実生活では、大抵の人はそれを肌で感じ、実践している。
そうでなければ
マナーなど必要ない、思いやりも必要ない。
言葉も無用なら、コミュニケーションなども必要ない。
家族を持つ必要も無いし、親を子を愛する事などあるはずもない。
友情も必要無ければ、法を守る必要も無い。
働く必要も無ければ、学ぶ必要も無い。
全ては「赤裸々な人の姿」に制約を与える手段である。
何れも、「係わり合い」を知るが故の最大公約数を求める試行錯誤だ。

しかし、共同体を形成し、その中に埋没する事でこの単純な「係わり合い」を平気で否定する。
試行錯誤までも放棄する。
共同体を擬人化しながら、擬人化された共同体には「赤裸々な人の姿」こそ「真」であるとみなして憚らない。
人同士であろうと共同体同士であろうと「係わり合い」には変わらないにも拘わらず、あたかも例外であるかのように扱う事に躊躇も無い。
その事がまた、実生活で大抵の人が実践しているモラルまでも崩壊させようとしている事になど見向きもしない。
なんと盲目的で愚かな試みであろうか。

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2004/11/18

忘れたくないもう一つの現実

StopWar1.jpg

世界には冷酷な現実があふれているって本当か?
皆が冷酷なわけはない。
周りを見れば良かる。
世界には暖かさもあふれている。
だから、冷酷になる言い訳にはならないだろう?

世界は不信に満ちているって本当か?
皆が不信に生きているわけない。
不信だらけなら外など歩けるものか。
世界は信頼にも満ちている。
だから、相手に不信を募らせる言い訳にはならないだろう?

世界に住む多くの人は家族を大切にし、隣人を大切にし、良く生きようとしている。
それは豊かな国だからでも、貧しい国だからでもない。
豊かな国にも冷酷な人間も暖かい人間もいる、貧しい国にも冷酷な人間も暖かい人間もいる。
家族の生活のために物を盗んだって、豊かさのために虐殺の資金を提供するよりは品が良い。
家族を守るために自らの手で相手を殴り倒す方が、安全な所から富のために虐殺を指示するよりも人間らしい。

世界が冷酷だと警戒していればそれで安心なのか?

暖かさを失ってしまう事を想像しているか?
人間性に見捨てられる事を想像しているか?
世界は人で動いている。
暖かい人たちがいるという「現実」を甘く見ない方が良い。
そこには我々が忘れた「意思」がある。

Iraqis will never forgive this- never. It's outrageous- it's genocide and America, with the help and support of Allawi, is responsible. May whoever contributes to this see the sorrow, terror and misery of the people suffering in Falloojeh.(Nov.13 2004 Murderより)

苦境の中でも前向きに生きようとする温かいBaghdad Burningのriverbendの言葉は以前にもまして強い憤りに満ちている。
この言葉は誰でもない米国に莫大な資金援助をして虐殺を支える我々日本人に「まっすぐ」向けられている事を我々は本当に判っているのか?

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2004/11/15

小さいけどできること

遅くなってしまい、ほとんどの方は既にご存知かと思いますが
小さいけどできそうな事がTBをいただいた私的スクラップ帳さんのblogにあります。
これならできそうだと思った方は是非尋ねてみてください。
今は瓦礫と化したファルージャを、そしてその中でなくなった方を、以前の整然としたファルージャの町の航空写真から想像してみるだけでも...

私的スクラップ帳さん の記事より
--内容--
Noam Chomsky氏を筆頭にした攻撃激化に反対するオンライン署名
アメリカ国防総省に直接抗議のメール
首相官邸ホームページより意見
ファルージャ航空写真

良くお邪魔する 愛のまぜご飯記事にも同じオンライン署名のリンクがあります。

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打ち消したい妄想

「資本主義」の上に「人権」を置くのか、「人権」の上に「資本主義」を置くのか。
私はイラク戦争を通じ、ファルージャの掃討作戦を目にし、これから構築される世界の秩序がどちらに向かうかの現実的な分かれ目に来ているのかもしれないと思い始めている。

今のところ世界の人々(政府ではない)の認識は前者の『「資本主義」の上に「人権」』を置く方が、その数ではまだまだ優位を保っていると思う。
アメリカ国内でも「宗教」や「愛国心」そして「マスコミ」の助けを借り歪めなければ、まだまだ、この認識への支持は根強い物があると思う。歪められるのも支持のうちと考えるならば半々という事になる。
日本では...
(ちなみに、私がここでいっている認識とは「人がそれを当然と思う」というようなことを意味しています。)

しかし、今、圧倒的資本とそれを根拠とする「力」を持つ「主体」(便宜的にそう呼ぶだけです)がアメリカ合衆国(≠主体)という1つの国家を使い、「力」の絶対性を見せつけることにより後者の『「人権」の上に「資本主義」を置く』世界に「本気」で変えようとし始めたのではないかと感じている。
つまり、「世の中は富と力で動く」といった認識を既成事実を繰り返す事により、「人権は守られねばならぬ」の優位性を打ち砕きその地位にとって代わろうとしているのではないかという事。
この「主体」は、できれば「それこそが正義である」という認識にまで高めたいと願い、それが多様化した世界に秩序をもたらす唯一の方法であると実際に固く信じているのではないかという事。
そういう世界は想像可能であり、そこに秩序は確かに存在し得るのかもしれない。(ただ私がそれを望まないだけで)

ファルージャ掃討作戦はアメリカが本気でイラクの安定を求めるならば私にはとても賢明な策とは思えない。
しかし、本当はファルージャを圧倒的な力で制圧する行為にこそ意味があり、その結果生ずるであろう新たな戦いですらも結果的に「人権尊重」に対する「力」の優位性を相対的に高める事になるならばそこにも意味はあるといった類の物なのではないだろうか?
「人権など力の前では意味を持たない」と多くの人が追認し、それを普通に感じてしまうようにさえなればいいと考えている、とする事は乱暴すぎるだろうか。
しかし、そう考えると、我々には非合理に見えても「主体」にとっての合理性をそこに見出す事ができる。

これは、一方の真実かもしれない。これはより原理的といえるかもしれない。
しかし、他方で
「力は人権の前には跪かなければならない」
も真実として存在しうる。これはより意思的といえるかもしれない。
共に公平にその可能性を示している
これを決めるのは「秩序」をもたらすための共通認識(多くの人がそれを当然に思うこと)という錦の旗をどちらが手に入れるかに掛かっているといっていいのではないだろうか。

主体の実体は今の所、軍産複合体であったり、一般企業体、資本家、トップエリートであったりするのだろうが決め付けると本質がぼやけそうだ。
同時にこの主体は今のところその所在をアメリカという国家に置いてはいるが、その必然性はなさそうだ。
秩序の最上階に位置するが故に、想像上の存在である現在の「国家」に限定される必要はなくそれを越えて存在しうる。
また、主体が富であり力であり、その意思であるが故に実体である具体的な集団や企業体に盛衰があってもそれも関係なさそうだ。
しかし、その性質故に、常にごく少数である事は間違いないと思う。
そんな存在だ。

ここまでは、「力」に対しもう一方を「人権」として固定し話をしているが、これは「環境問題」でも「民主主義」でも構わず、多くの人の意思による示唆的なものであるならばそれでよい。
肝心な事は「資本主義」の上にそれ以外のものが置かれる事を許すか許さないかという事。


京都議定書に関して最近話題になった「排出権」などは資本主義的要素が色濃くても、資本主義の上に「環境問題」という認識を置かなければ許されない発想だ。
それを許したくない米国政府がそれを認めないのは不自然な話ではない。
京都議定書そのものに異を唱えるのも同様に不自然ではない。
一方資本主義を修正しようとするヨーロッパがそれを推し進めるのもまた当然といえる。
日本は...これはもともとその政策にグローバルなポリシーがないので理窟から傾向を見出そうとする方が間違っている。

アフリカのAIDsに関する薬品の特許問題も資本主義の上に「人道」という認識を置かなければ許されない発想だ。
それを許したくない米国政府が人道よりも資本(医薬企業体)の保護に寄った姿勢をとるのも自然である。

イラク戦争も大儀は最初からありはしなかった。
無いにも拘わらず行われたのは「平和」もまた、「資本主義」の上に置かれるべき認識ではないからと考えればそこに矛盾は見出せない。

遺伝子工学部門で若干の妥協を示すのは、過渡期ならではの支持層であるキリスト教右派に対する現実的な配慮で本質的な物ではないと思う。

こんな中で日本はどうなのか?
政府の選択を追って行けば予想はつきそうだ。
日本人はどうなのか?
それは私達一人一人が自分自身に問えばいい。
簡単である。
「世界は富と力で動いている」と信じているかどうかを問えばいい。
むしろ冷戦崩壊以降の日本人のほうが本家以上にどっぷりその認識に浸っているのかもしれない。
(その意味ではよい実験場であり、アメリカやヨーロッパでは失敗して日本では成功してまたもや孤立などという事にならなければ良いが。これは余談)
この前提(認識)がいつ頃から自らのものとなったのかを辿ればその起源ももしかすると明らかになるかもしれない。
その上で、この価値観に浸された世界では本来の精神的な「右」にも「左」にも「国家」に対してさえも、たいした意味を与えられる事はなく、それより大きな物に同様にからみとられている可能性を見るかもしれない。

この主体の意思が本当に存在し賛同を得たなら「ファルージャ」はイラクに限った特別な事ではなく、身近な場所(普段の生活で、仕事の場で、司法の場でetc)で同じような理由で同じような事がいつでも起こりうることを示唆する事になるのではないだろうか。

もしかしたら偶然かもしれない、偶然なら妄想として片付けられ、むしろ私にとっては喜ばしいことなのだが。

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2004/11/12

ごめんなさい

まんがめがむんど[news]館さんのサイトで
Sorry everybodyというサイトを目にした。

アメリカがブッシュ大統領を選出した事を、投稿者が写真入で謝っているサイトです。
このサイトでアメリカの良心や反ブッシュを語る訳にはいかないけど、このような試みを実行し、それに賛同する人がいるということに意味があると思う。
現実の前に何の実効的な効果は望めないかもしれない。
でも、今できる小さな事をしていこうとうする姿勢に学ぶものがあるような気がする。
このサイトの一人一人の言葉は少なくとも遠く離れた私にメッセージを届け、その存在が私に小さな希望を与えてくれている。
もし、私のこのエントリーを見てくれる人がいて,このサイトを目にし、何かを感じる人がいればそれはそれほど小さな事ではないことを意味するのではないだろうか。

このサイトのメインはGalleryだが、FAQ(よくある質問)で次のような質疑が書かれている。
Why does America need to apologize?
It doesn't. Our message isn't normative; it doesn't require anything of anybody. We don't say you should be sorry or you must be sorry. Our apologies are voluntary. Situations like this are great sources of misunderstanding and rancor between cultures. We don't pretend apologies are the solution, but we don't see the harm in offering them.

同じく謝罪について
Don't you understand that an apology is a sign of weakness?
You are free to think so; we are of the opinion that the willingness to apologize is a sign of courage and strength.

同じく私の印象に残った質疑
Are you ashamed to be an American?
No. Are you ashamed to be a human?

人が別のどんな代名詞で呼ばれようと、その前に人であることを忘れないようにしたい。

最後に:
「何もできなくてごめんなさい。」
「知る努力が足りなくてごめんなさい。」

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2004/11/11

国籍不明の潜水艦

日本近海に国籍不明の艦船が出没する出来事は一体年に何回発生しているのだろう。
公表されなくともそれを確認し、追尾したり、レーダー等で捕捉しつづけるようなことは1度や2度であると考えるのはいかにも不自然のような気がするのだが。

そんな中で政府はその情報を公表した。
各局のニュースではこれを目立つように扱っている。
断定はしないのだが中国船であることを示唆している。
「海上警備行動の発令が遅れた」と報道している。
政府のコメントは発動の遅れを淡々と発表している。

このニュースを最初に見たときに私が持つ印象は
領海侵犯に不安を持つ。
北朝鮮の不信船事件を連想する。
尖閣諸島、海洋石油採掘を連想する。
中国の意図を推測したくなる。
日中関係の悪化を意識する。
非常時の対応の不備に不安を覚える。
etc
といったところだ。

マスコミは
中国の政治的メッセージだといったり
海上警備行動を発動する事による日本の中国側へのメッセージといったり
発動の遅れに対し防衛の不備を危惧したり
以前の中国の台湾への軍事演習の画像を使ってその意図を推測したり
そのとき米軍がそれに対抗した事をあわせて紹介したり
北朝鮮の不信船事件の画像を持ち出して「海上警備行動」を説明したりして報道している。

それを見る私は与えられた情報で無意識に考える。
中国は危険な存在なのかもしれない。
日本の固有の資源確保は大丈夫なのだろうか
そういえば北朝鮮の事件もあったけど今はどうなんだろう。
今の防衛体制は改善・強化しなければいけないのではないか。
やはり身を守る為には自ら身を守るか在日米軍の後ろ盾が必要なのかもしれない。

投げられた石は「普段は公表しない1つの領海侵犯事件」にすぎない。
それはこの地域での既存の問題に関連する事として必然性を主張する。
その小さな石が、私の中にそれ以前とは違う意識をもたらし、その意識が新しい前提を植え付け、以前と違う私が出来上がる。
米軍によりファルージャが攻撃され、自衛隊の撤退問題が論議されるさなかにこのような発表がニュースのトップを飾る。

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2004/11/10

我々が支持しているもの

とうとう、アメリカ軍のファルージャ攻撃が何のためらいもなく、かくも露骨に開始されてしまった。
ブッシュ大統領再選後のブッシュ政権に国際協調を期待することができないことを、全く躊躇のないファルージャ攻撃で世界に宣言した。
彼らの望む物は世界との協調ではなく、世界に力による既成事実への追認を求めることを意味しそうだ。

これでアメリカは力によるテロとの戦いをどうしても勝たなくてはいけない理由を増やしてしまった。
これまでもそうであったが、勝って闇に葬らなくてはいけない事実をさらに増やしてしまった。
どんなに非論理的で、非合理的、非人道的、非合法的と気づこうとも、軌道修正を困難にする要因をまた1つ積み上げてしまった。
戦争は負ければ歴史には悪と記される。
その中で行なわれた事は悪行として露見する。
これまで行なわれてきた事を闇に葬り「正義」とする為にはどんなに反対されても、どんな手を使っても勝たなくてはならない立場にさらに自らを追い込んでしまった。
戦争が人類にとっていかに「不合理」(日本もかつて通ってきた)であるかの典型的なサンプルではないか。

これまで「愛国心」があるがゆえにイラク攻撃に批判的であった半数のアメリカ人にも、既成事実をよりどころに更なる「愛国心」を突きつけ、「愛国心を持つものがこの期に及んでまだ批判を口にするのか?」と「踏絵」を暗黙のうちに迫る事になりそうだ。
これも歴史で何度も行なわれた「愛国心」の流用の典型的なサンプルだ。
これは同盟国と呼ばれる諸国に対しても「忠誠心」と言葉は変わるが同じことである。

民主主義や人権・自由を理由にした秩序作りという当初の受けのよい看板を捨て、(本来の?)前時代的な力の正義という価値観による秩序造りに架け替えられたように思える。
これは意図的であったかどうかに関わらず、どちらにしてもそうなってしまったという事だ。
このような「過去の遺物」と思っていたことを私たちは目にしている。

初期のイラク戦争で米軍が圧倒的な軍事力で制圧したように、ファルージャも軍事的に制圧する事が可能かもしれない。
報道管制により「人道」を表に出す事がなければそれはさらにたやすい事かもしれない。
しかし、それでファルージャが葬り去られて終るわけではない。
人に植え付けられた「力の正当化」は、その作戦名のごとく「亡霊」のように社会に巣食う事になるだろう。
「やはりこの世は力だ」という輩がためらいもなく跋扈することになろう。
経済に於けるグローバリゼーションと軍事力による「弱肉強食」時代の到来。
「理不尽」に対し「従属」か「絶望」の選択しかもたらさない時代。

これはブッシュ政権に限らず大国である中国にも、ロシアにも、そしてテロリストにも、その口実を等しく与える事を忘れてはいけない。

ブッシュ政権のこの意思は我々の持つ意思と同じなのだろうか?
秩序を望んでも、このような秩序が我々の望む秩序なのだろうか?

今、日本はそんな価値観を支持する側にいる。
この価値観で報われそうもない私を含めた国民がそれを支持している。

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2004/11/08

善良な人々

ブッシュ大統領が再選されてしばらく経つ。
選挙前に「大統領選とアメリカ」でその支持層の事について書いた。
大統領選を通じ、その支持層の素顔が一層クローズアップされ、分析する情報を目にするようになった。
けしてネオコンの持つイメージのような人々ばかりではない。
素朴で、人懐こく、信心深い人々が多いように思われる。
道徳を重んじ、善くありたいと思っている人々。
一度好かれたらトコトン面倒を見てくれそうな。
理窟を好まぬがゆえにシンプルで裏を感じさせず判りやすく安心できる人々。
細かい事を気にしないおおらかさ。
竹を割ったような明確さ。
コミュニティーを大事にして仲間になにかあればすぐにでも駆けつけてくれそうな。
私が若い頃バイクで雪に閉ざされ、困っているところを助けてもらい、次の町まで連れて行ってもらった上置き去りにされたバイクを取りにいく為にピックアップバンをわざわざ知人から借りてきて、一緒に吹雪で凍りついたバイクを回収してくれたのも今回ブッシュ大統領が勝った中西部の田舎町のおじさんだった。
(もちろん、あのおじさんが共和党支持かどうかは判らないが)
ちなみにバイクを壊され、カメラを盗まれたのは大都市だ。

私は所ジョージの「笑ってこらえて」という番組が好きでよく見るのだが、そこに出てくる人のよいおじいちゃんおばあちゃんに通じるところがある。
最初よそ者が現れた時は怪訝そうな顔をするのだがすぐに人のよい素顔を見せてくれる。
「難しい事はわからないけど...」と謙遜をこめて口にする人たち。
私は、そんな素朴な人たちの笑った顔を見るのが大好きだ。

アメリカではこれらの人々がブッシュ大統領を力強いよきリーダーとして尊敬し、日本ではこれらの人々が地元の政治家を先生として尊敬する。
そんな政治家たちは恐らく一人の人間として捉えたならば、話題の鈴木宗雄氏も含めて皆、人並み以上に魅力のある人に違いない。
また、1つの同質的なコミュニティーであるならば誰もが優れた能力を発揮するのかもしれない。

しかし、アメリカのブッシュ大統領は支持してくれる同質的なコミュニティーの価値観をそのまま持ち込み、世界を混乱に向かわせてしまっている。
日本の先生方も地域の支持してくれる人々のために同質的なコミュニティーの価値観で利益誘導を図り、国家財政を食い物にしてしまった。

私も古きよきことには非常に魅力を感じる。
素朴さにも、人のよさにも、安心感にも魅力を感じる。
その同質性にさえ溶け込む事ができれば、余計な事を考える必要はない。
色々な事に皆が共有できる価値観があるという事は言葉を必要としない。
善悪も明快で悪ければ怒りよければ誉めれば言い。
このようなコミュニティーはそのまま残っていて欲しいとさえ思う。
人の背丈に合った適度に小さいコミュニティーに不都合があるとも思えないのだ。

しかし、人の社会はその背丈を越え複合化している。
便利で豊かである為には手段として流動化が必要となる。
コミュニティーとコミュニティーはつながり、人が出入りし、価値観が行き交う。
地方と国、国と国際社会
これは同質性が通用しない異質性の出会いである。
互いに同一性を維持しようとすれば争いを引起し、淘汰が起こる。
それは歴史の中で実際に起き、同一性がある大きさまで拡大されるまで続けられてきた。
しかし、人は気づいたはずなのだ。
もはや同一性を争いで解決していくにはあまりに大きな悲劇を必要としてしまう事を。
そして思ったはずなのだ。
他を尊重する事で共存する必要性を。

個と個、コミュニティとコミュニティーが共存するには同質的なコミュニティーの仕組みや、やり方とは違って然るべきだ。
そこにはコミュニケーションが必要であり、新たな共有できる認識の構築が必要である。
その試みはしばらくは続いていた。

しかし、あるきっかけで「豊かさの為の流動化」が再び強い力を得て、そのあるきっかけの別の要素が過去の淘汰により無理やり同一化された小さな古い同一性達が元の同一性を回復し始めた。
「豊かさの為の流動化」は再びその同一性を強引に拡大させようと淘汰をはじめようとしている。
同一性を取戻そうとするものたちはその淘汰に抵抗すべく、起こるべくして争いに回帰してしまった。

小さなコミュニティーの長になるべき人が、複合化された高度な仕組みを作り出すべき宿命を負った長についてしまったようだ。
優れた人間性を持っていても、その能力を必要とする時と場所を間違ってしまったのではないか?

大統領を選んだ閉じたコミュニティーに住む善良な人々を見ながら、そんな事をとりとめもなく思う。

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2004/11/07

信頼

人の命というエントリーで瀬戸さんにいただいたコメントへのコメントを書きながら頭に「信頼の喪失」と言う言葉が浮かんでいた。
文脈とは直接は関係ないのだが、「どこかで世界は冷酷な現実のみで動いていると勘違いして、それを受け入れる事が現実的だと自らを戒めようとしている。」という部分を書いている時にそれを考えていた。

以前「姪の一言」というタイトルで少し「信頼」について触れた。
本当はこの出来事に関連して別の記事を書いてUPしようと思ったのだが、自分が納得できずボツにしたことがある。
人から見ると関連性は判りにくいが私の頭の中では繋がっている。
実は最近、数学屋のめがねの秀さんが紹介していた宮台氏の「社会学入門」を目にする機会に恵まれた。
いろいろ興味深い概念が紹介されていたのだが、その中で出てくる「社会秩序の合意モデルと信頼モデル」(連載第八回)を読んで、ボツにした記事で書きたかったことは多少なりともこれに関係があったのではないか、今回頭に浮かんだ「信頼の喪失」とも関係があるのではないかと思ってちょっと長いがここに引っ張り出そうと思う。


今、世の中の事、共同体、社会を考えるとどこにでも顔を出すのがこの言葉。
不信は伝染し蔓延する。
一つの不信が隣の人を不信に陥れ、またその不信が隣の人を不信に陥れたり、不信を与えた元の人の不信を更に煽る。
日本で使われる「自己責任」は周りに対して「不信でありなさい」といっているのだからなおさらだ。

これが蔓延してくると、もうにっちもさっちも行かなくなる。
普通は車道の左側を走っていれば対向車とぶつかる事はないのだが、「人がルールを守るなどと期待するな」となると車も安心して運転できない。
車にカギをかけなければ「盗まれて当然」であり、盗まれるほうが悪いとなる。
警察に通報しようとも「警察がそんなことに真剣に取り組むはずないだろう。」言われてしまう。
銀行に金を預けておけば安心だなどと言おうものなら大変だ。

悪意を持つほうも大変だろう。
善意を信じる者を信頼できれば簡単だったのにこうも皆に不信をもたれてはこれまでの生易しい方法ではわが身が危ない。
当然、巧妙に周到にしかも強行になるだろう。

困っている人を助けようものなら「偽善」のレッテルを貼られ、その人が少しでも間違った事をしたら「それ見た事か」と総攻撃、やはり「人など信用するものではない。」は勢いを増す。
人など助けなければ「ただの人が間違った」で済むのに人を助けた事があるばかりにそれではすまなくなるのなら、とても人を助けるなどといったおこがましい事はできなくなる。下手をすれば訴訟にもなりかねない。

私達の生活は何をするにも何らかの事を信用できることが前提で社会生活を営む事ができるのだが、そんな事を言っては「非現実的」とか「甘い」とのそしりを受けることになる。
一種の防衛本能なのだろう。
かなり、不信が蔓延した共同体では当然「不信」を前提に話をしなければ、現実的な具体策とはみなされない。
この現実的な具体策でなければ、採用される事がないのだからますます「不信」は発言権を強め、更に不信の和は広がっていく。

戦争、防衛などでよく引用されるのは「強盗に襲われたら黙って殺されるのか?」
「不信」を前提にした話なので、答えは

「身を守るために皆が銃を持って生活する事だ。」

と言う事が妥当なのか?
しかし、ここで現実論を打ち切るのは現実的ではない。
ここで止まればいいのだが必然はそれを許さない。

更に現実的には隣人も常に銃を持つわけだから

「銃を持った隣人には常に気をつけろ」

中には奇妙な行動を取る人もいるだろう。そのときは

「やられる前にやるのは正当防衛」

といって先制攻撃で引き金を引くのだ。

「やられるほうが悪いのだ」

強盗も殺されちゃたまらないから

「相手は銃を持っているのだから、躊躇するな」

と・・・・・・
更に続きはあるのだろうが、「不信」とそれに対して
「現実的」である事を前提にすれば充分可能性を考慮できる事だと思う。

極端すぎるなどとは言わないで欲しい。
アメリカでは実際にハロウィーンで射殺された日本人がいたのだから全く現実的な話だ。
過激な犯罪も浮世離れした話ではない。
紛争地域ではなおさらだ。
つまり非常に現実的にはこうなる事は全く不思議はなく、実際にをれを選んだ人々がいるから
現実に存在するのだ。
そういう世界は存在し、そういう世界に同調する事に違和感など存在するはずがない。
(意図しようと意図しまいと)それを望んでいるのだ。

私はそれを望まない。
これを意図的に望んでいる立場の人から非現実的な理想主義といわれても構わないが、途中で流れが止まることを期待する立場の人にはあまり言われたくない。
大きな流れに「身を任せながら」その流れが「自然に止まる」のはその結果としての戦争、自然災害などのような流れのエネルギーを一気に放出するような事態を待つしかないような気がする。
でも、大きな流れに逆らう小さな流れが少しずつ大きくなり流れを変える歴史は存在する。


以上引用

ボツにした文をそのまま修正せずに写したので文脈的に変なところもあるのだが、この中で納得できなかったのはその文脈のおかしさもそうだが、あまりに唐突な結論に何かしらの違和感を感じたからだと思う。
もともと化学出身(大昔)の私には究極的には無秩序に向かう流れは抗し難いものであり、それが自然の法則であるという考えが頭の片隅のどこかにある。(エネルギー論(熱力学)のエントロピー的な概念)
ついでに言うなら「恨みの連鎖」を考える時は化学の「連鎖反応」を、緊張を考える時は「エネルギーの励起状態」を無意識に頭に浮かべる。

私の内面から湧き上がる「現実という流れに異を唱えたい欲求」を感じつつも、この概念(前提)から来る無力感と自分の「頼りない思い」との葛藤が常にある。
しかし、社会学入門を読んでこのことに小さな光を見る気がした。(連載はまだ続いているが)
あまりに多くの私にとって有意義な概念があったのだが、この自分の意識の「頼りなさ」に勇気を与えてくれたのは
「現在、人がまがりなりにも社会を構成しシステムを維持しているのはもともと、ありそうもない事の実現に他ならない。」(素人である私が文脈からこう解釈したに過ぎないが)
ということを感じたことであり、社会の存在自体が物理現象にはない「エントロピーの低い状態を維持する」可能性に光を与えてくれたことだ。
また、この中で出てくる「信頼モデル」という概念も私の思考の方向性(上記のボツにしたエントリーのような)に力を与えてくれる。
それは「物質」と「意味」との持つ性質の違い(物理的であることと意味的であることの違い)であり、意味は選びなおしを可能にする事であり、コミュニケーションであり、自発性を持つ etcです。
逆に、ここに取り上げたエントリーのように武器が必要となる状況でも「同一性を互いに供給しあう」事で、それは秩序が維持されていると考えられる課題を生むことにもなるが、そこではどういう形で秩序が保たれるかを考えればいいと思う。

そのほかにも社会学入門を読んで考えさせられる事は多かった。
政府と国民の「信頼」が現実により歪められる事により社会という秩序にどのようなダメージをもたらすかも予期させる。
力や権力で法が歪められる事で同じ信頼モデル内でもどのような予期の変化を生じどんな社会が想定されるかにも興味がでてくる。
「選択前提」を考慮すると教育のあり方、マスコミ操作の効果にも繋がりそうだ。
「選択連鎖」は私が良く使う「必然」や「なし崩し」を考える時にポイントになりそうだ。
「意味の持続性」は「歴史問題」にも関わるだろうし
「自由」や「多様性」はイメージとは違い、必ずしも即それが政府の言うように「複雑性」(無秩序)を意味するのではなく「複合性」による、よりエントロピーの低い高度化した「秩序」として考える事の妥当性を感じる。
国際社会が直面する混乱した多様性の中で秩序を見出す時、システムとシステムが新たなシステムを生むような概念として考えてみたい。
アメリカの試みが何処に位置し、宗教同士の絶対的な対立をどう見るかにも興味が湧く。
入門と謳っていても「社会学入門」は難解で分からない事が沢山あるが何度も読み返したいし、連載は今も続いているのでそちらも読みたいと思う。関連する書物にも手を出そうと思う。

私は常に不完全であり、けっして完全にはなれない。
だから、完全になる事を待つことはできない。
生きている以上、常に選択(先送りも含めて)の連続であり、その不完全な状態でその選択をし続けるわけだが、現時点で納得できる「より良い選択」をしようと「あがこう」と思う。
それは心地よい秩序を模索する事であり、同一性を供給しあう要素の一端としてコミュニケーションを試みる事かもしれない。
おそらく今後のエントリーにこんな難解な用語がでてくる事はないと思うし、そうしたいとも思わないがエントリーに書く内容は体験的で感覚的でも、常に私の中で整理しながら勉強していきたいと改めて思う。
同時に、皮肉にも「システム概念」が一箇所にとどまる事がない事も示唆しているようにも思えるので、私は自身の感覚的な物には錯誤が付き物であると疑問を投げかけ続ける事を前提にしながら、この感覚的なものも大切にする立場をとりたい。

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過去の制約

人質事件に関しての対応に関する国民の意識調査のようなニュースが出ていた。
政府の対応が適切だったとする意見が多いそうだ。
このようなトピックは設問がはっきりしないのはいつもの事だが
私はむしろ本当の意味で適切と考えていると言うよりも
政府にはそれ以外の対応の選択肢がなかった。
と国民は受け止めているのではないかと思う。
「現時点に至っては」この選択が妥当だったと。
過去は変えられないから現時点で与えられた「選択肢」で考えて、という事なのではないか?。

(そうでないと思う場合は以下は意味を成しませんので貴重な時間を無駄にせずに読み飛ばしてください。私はそう思うのでその前提で以下の文章を書きます)

この選択肢は今の現実だけでなく、実際には別の制約を大きく受けている。
変えられない過去を振り返らず将来を見る前向きな意見に見えるのだが、「これまでの経緯」と言う「過去」に大きく引きずられており、実際にあるあるがままの現実と日本人の価値観を率直に見ているとは言い切れない。
国として強く方針を出した過去があるから、米国に対する強い支持の手前、いまテロリストと交渉する弱気な態度は示せないと判断していわけで、米国政府のイラク政策に強く賛同する立場でなくそれをきりはなすことができれば交渉、譲歩と言う選択肢がないとはいえない。
同じ過去を持っていてもスペイン、フィリピンなど、実際にそのような判断をする国があるのが本来の現実世界である。(期限を決めて撤退を決めている国もある)

また、強く方針を出した状態から譲歩と言う大きな格差を「脅迫の結果として」見せたなら、つけいれられ、さらに犠牲を生むと危険性を予想する事もあるだろうが、これも「過去の経緯」の必然として出てきた物である。

世論調査で「適切」と答えた人の中でどれだけの人が
「米国主導によるテロとの戦い」に希望を持つ人がいるのだろう。
または、犠牲を払っても正しいと思って賛同するのであろう。
この戦いに付随する、日本の軍事的な意味合いの強化を歓迎するのだろう。
そして冷戦時代ほどの求心力を失いつつある米国の絶対性を、以前のように日本の発展の前提として信奉する根拠を確信できるのだろう。


過去によって歪められずに、純粋な判断が本当になされているのだろうか。
日本にとって国民の多くが正しいと思える価値や意思を、過去や他から押し寄せる現実に歪められてはいないだろうか?
どちらにしても「テロには屈しない」で「力によるテロ撲滅の支持」と言う事は徹底抗戦である。
勝算がなければ米国頼りで期待している恩恵などは受け入れられないだけでなく、失う物も大きくなる。
また、米国の思惑を正しく予想できなければ、方針転換による(表面上はともかく)事実上の日本の切捨てもしくは軽視のリスクも考えられる。
時間的な予測を誤れば長期化による米国の戦費負担も形を変え品を変え負担を強いられる事も覚悟しなくてはならない。
中東の一層の不安定化を懸念して米国を支持していても、為し遂げる見込みがないければ「力によるテロとの戦い」は逆に作用する諸刃の剣である。

過去の影響で現在を決める事がたとえ必然と思われても、今後の「展望が開ける」事を担保する事にはならない。
もともと理念と利害の両面に整合性を付けて動いている米国とは違い、日本の方針は広義の国益ではなく、狭義の利益だけで決められた政策である(理念は現実ではないと見る傾向は強い)、そこに見通しが見出せなければ方向を修正することがこのような決定には相応しい。

今も自衛隊派遣延長が過去にとらわれて決めようとなされている。
その条件として「状況を詳しく検討して・・・・」などというが、政府内では結論は決められている。
状況のデータがあろうとなかろうと結論を決めている。
何があったら「危険(戦闘地域)」かは現実的に定義などしていないし、できないだろう。
どんなに危険でも大事が起きない限り危険ではないと言い張ることは易い。
国民の感覚も特措法が論議されていた頃と比べどれほど危険への許容度がシフトしたかを自問自答すればそれもまた容易に想像できる。
このような状況で政府も国民も(言いたくはないが)自衛隊が実際に攻撃され、相当数の犠牲者を目にするまでは「危険認識」を共有する事はないのかもしれない。
しかし、そのような事態になればなったで、「攻撃されたから撤退する」状況を想像すれば「テロに屈する」事を今以上に露呈する事になる訳で、それを受け入れる事が政府にできるかといえば、期限を理由に撤退する以上に大きく国益を損ねるという苦痛に耐えるような困難な決断をできるとも思えない。
「テロとの戦い」を強調してきた首相がそれを受け入れる姿をどれだけの人が想像できるだろう。
ありそうに見えても先送りに期待した判断などは存在せず、困難を増すだけだ。
唯一、延長が正しいことがあるとしたらイラクが米国の思惑通りに平和に収束する事だが、私はその可能性は米国の姿勢が変わらぬ限り非常に困難に思える。
ブッシュ政権は国際社会を気にせぬ保守層、恐怖心に怯える人々、軍産複合体の支持で再選したように思える。
彼らの価値観を無視する事はできないわけで、国際世論の圧力で簡単に方針を変更する事もできず、協調ではなく、米国の正しさに理解を求め国際社会をいかに米国の方針に巻き込むかを課題とするだろう。
ヨーロッパにしても米国との関係を改善したくともこの姿勢が続く限り、表面的な賛同を示す事しかできそうもない。
かりに協調できたとしても、実を結ぶのはかなり先の話となる。(パレスチナを見れば良い)
自衛隊撤退を云々している間に事態が好転する事は期待できない。

事態は何が良いかではなく、何ができないかで進行している。
政治家を始めとして過去に起因する誰もができない(と思える)事に責任を取らないですむように何も起こらない事を期待して「運」に任せて継続しているのが実情であり、果たして本当の現実がそれを許してくれるのだろうか?
状況は違っても、勝てそうもない米国に宣戦布告した戦前の人々の心理も恐らく似たようなもので、それを間違った事をしたと言い放つ事は今の我々にはできない。
論理的でも現実的でも合理的でもない理由で過去との係わり合いで引きずられて決められることに我々国民は「しょうがない」を「現実的」と偽り納得しようとしているのではないか?

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