暗黙の共有
「殺される前に殺したかった」
最近の、誰でも知っているある事件で犯人が口にした言葉だ。
この事件をこの一言で正当化することなどできないのは当然である。
しかし、この「言い訳」を非難する言葉を我々は持っているのだろうか。
我々は堂々と言いたいのだ。
「それでも人の命を奪う事は間違っている」と
しかし、我々自身が一方で犯人の口にする「言葉」と同じ考えを正当化している。
先制攻撃を正当化するブッシュ政権を「殺そうとしている」理由がなかったことがわかった今でも支持している。
人の命を国際社会の現実という言葉を使って亡き者とする行為を積極的に支援している。
アメリカ人の半数には国内の社会正義と国際社会での行動に矛盾はない。
それが世界にとって良いのだと信じている。
果たしていつまで「人道的に正しい軍事行動」という認識を維持できるかどうかはわからないが今のところ矛盾はない。
我々はこれらアメリカ人の半数とは違い、アメリカ政府の行為を「人道的に正しい」とは多くの人は見ていない。
自らが享受するものを守る為に、現実的に仕方のない選択だと捉えて、それを支持している。
それを、あらゆる現実論を駆使してシニカルに構え「現実はそうなのだ」と納得させようとしている。
殺人犯が口にする「言葉」と同じ理屈を共通認識として自らに植え付けようと必死なのだ。
「たかが一つの事件といっしょにするな」と言うかもしれない。
しかし、目をそむけなければ似たような理屈を日本社会で唱えるものが増えていることに気づくだろう。
いま、その認識が日本社会のモラルを崩壊に導こうとしている。
同様に
「自衛隊が派遣される場所が非戦闘地域である。」
等が公然と口にされ、それを見過ごす社会が人々に「道理」を求めている。
その同じ口が日本人の誇りを語り、モラルの低下を憂い、愛国心を求めているのである。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら官僚に姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら企業姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながらイラク人質や家族の姿勢を糾弾するおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら他国の道理や人道を非難するおかしさ。
そろそろそのおかしさが我々一人一人のおかしさであるであることに目を向ける時だと思う。
政府の横暴を支えるのも、官僚の悪癖を支えるのも、企業のモラルハザードを支えるのも我々一人一人、今現れている社会の姿は我々のその選択に伴なう自己責任の結果なのではないだろうか。
殺人犯の真の動機はどうあれ、彼の口にした「言葉」は異常ではなく我々が共有しようとする認識に他ならないのではないか?
それこそが我々が次代に残そうとする新しい秩序の世界なのではないか?(皆がそう思えばやがて動かしがたい「力」の秩序になる)
国際問題は国内問題。
国家の施策は社会の鏡。
その社会の認識は我々一人一人の選択が作り出す。
遠い国の出来事などでもなければ、他人の事などでもない。
ついでに、
一つの間違えが露見する事を恐れ犯罪を重ねてしまう犯罪者のごとく
小さな負けを取り返そうとしてドツボにはまるギャンブラーのごとく
麻薬に手を出して、止める事ができなくなってしまう中毒患者のごとく
身近な現実へのつじつま合わせで自分を見失うような「なし崩し」で継続される自衛隊派遣も考え直した方がいいのではないか?
「人を殺すのはいけない事だ」と堂々といえる社会の為に「新聞に広告を掲げよう」という試みも行われている。
詳細はこちらの「イラク意見広告の会」で確認できます。
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