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2004/10/11

死んだ子の齢(よわい)を数える

大量破壊兵器の存在はイラク戦争の根拠である。

「虐げられたイラクを開放した」とか
「民主主義、自由をイラクにもたらした」とか

いくらもっともらしく言おうと、他の「方策」を拒否し「戦争」に踏み切った根拠が「大量破壊兵器」である事が覆るわけではない。

戦争の正当性を国際社会が認めたとする国連決議1441は「大量破壊兵器」に関した決議であって、けして「虐げられたイラク国民」でも「民主主義・自由」でもない。

国連決議1441を持ち出して、新たな決議無しに戦争に踏み切った事ですら認められないと言う解釈があるのだが、これはそういう問題でもない。
百歩譲って国連決議1441を戦争の根拠として認めたとしても、「大量破壊兵器」や「計画」が存在しなかったと言う事は、それすらも成り立たないと言うことだ。

イラクが査察を受け入れ、査察団が大量破壊兵器の存在に否定的な見解を示し、他の常任理事国(3国)が反対を表明する中で、それでも「大量破壊兵器が存在する根拠がある」から「イラクは隠している」と結論づけ、イラクの国連決議1441違反を強調し、その中にある「警告」に従って戦争を推し進めた。

このことは「大量破壊兵器が存在する根拠がある」と言うことが嘘であったことが判明した事で、イラク戦争は国際法上誤った戦争であったと結論づける事に他ならない。
この間違いで失ったものは大きい。(この予定通りの間違いで一部の人種は多くのものを得たはずだが)


感情的には死んだ子の齢を数えたくなるが、この言葉の意味するごとく、失った物はけして取戻す事はできない。
アメリカが失った求心力も信頼も、世界に広がったテロも、国連の失った威信も、「今」以前に戻す事はできない。
日本が間違いを拠り所に利を得ようとした事がついに事実として歴史に、人々の記憶に残る事になった事も、そのために積み上げられてきた「戦争準備」も消し去る事はできない。

何かをできるのは「今」に対してだけである。
過去にも未来にも手出しはできない。
未来を良き物にするには「今」を良き方向に向かせる事でしか、それは実現されない。
だからと言って高い峰を前に絶望する事はない。
できる事の大小ではなく、それぞれの立場で、力量で、自分を誤魔化さずに「素直に」良いと思う事にしたがって、着実にその方向に向かっていくことができればそこには希望がある。
しかし、たとえ小さい事であっても勇気の必要な事には違いない。
その方向には、自分が今持っている「大事に見えるもの」を失う覚悟も含んでいる。
ついでだからその「代償」が本当に価値があるのかどうかも吟味してみたら良い。
いずれにしても、「今」すべきことがなされずに時がたてば、「今」を思い返してみても、それは「死んだ子の齢を数える」事に他ならない。

今回の「大量破壊兵器」のような間違った情報に惑わされず、現状を正しく評価して「今」なすべきことができるのか、これまでのなし崩し的経過に引きずられ現在なすべき事を歪めてしまうのか、どちらにしても国民が日本を「あって欲しい姿」に近付けるには「今」何をすべきかを真剣に考える時に来ている。
本当に何が良いかの答えを決められなくとも、どのみち選択は強いられる。
「先送り」も「無視」も立派な選択であり、その結果にはそれに従った独自の結果が用意されているのであって、現状維持という結果がそこに有る訳ではない。


人々を経済と言う価値観で2種類に分けていこうというのが今の日本が属する経済圏の流れだ。
日本でも「勝ち組」「負け組」が市民権を得てきている事、「自己責任」がこれまで以上に強調されてきている事などを見ればその価値観がじわじわと浸透してきている事を容易に感知できる。
これは2種類に分ける事が別に悪いことではなく、むしろよい事であるという価値観の世界だ。
この「差」が経済に活性化をもたらすと言う価値観の世界だ。
魅力的ではあるが「地球環境」も「戦争」も「飢餓」も、「経済の拡大」に優先される事はない世界だ。
そう、この世界観は現代から将来にわたって抱える深刻な問題と密接に関わっている。

ここでいう2種類とは、現在の姿を歪める事で利益を得ながら何も失う事のない立場と、そのために多くの大事な物を失うその他の立場とも言える。
この流れの先にある世界では、残念ながら、そのシステムの性格上、好むと好まざるに拘わらず、殆どの人々は後者に属することになる。

もし、「今」を侮っていれば今度は何年後かに(利益を得て、何も失う事のない前者の国民の為に)「死んだ『我が子』の齢を数える」ことになる確率は高いのだ。
死んだ「我が子」の齢を数えても戻ってくる事はないのは・・・いうまでもない。

日本という国が衰退することによってのみ、このような状況になると言うのではない。
仮に国としては栄えようと、その内部でこのような状況に置かれる事があるということだ。

前者を「夢」と呼び、それを目指すのも選択の一つだろうが、アメリカとは違い日本ではその門は排他的で狭い物となりそうだ。
本来このシステムは「徹底した自由」の発想が根本であるはずなのだが、日本のそれはこの「徹底した自由」という根本を認め様とはしていない。
たとえ、望み叶ったとしても、思っているほど「負け組」が「お人よし」ではいられない事は、中東で見られる「テロ」と呼ばれている現象を見れば想像がつく。
「勝ち組」とて、そうそう安心するわけにも行かないだろう。


ところで、人の「夢」や「望む物」そして「価値観」そのものが、「経済」だけで決まる物ではなさそうだということも「うすうす」は感じているのではないだろうか。(ヨーロッパでは苦戦はしているが、なんとか、これを形にしようという試みもある。)
目に見える現実の手前、それを言い出せないだけではないだろうか?
「大量破壊兵器の存在」が嘘っぱちで「戦争」が行なわれたことが判明した今、うすうす感じている事をちょっとばかり素直になって考えてみるにはいい機会だと思う。
私は、もう「のんき」でいられるほど状況は楽観的ではないと思うのだが・・・。

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コメント

FAIRNESSさん

このエントリは、先月お書きになられた「戦争へ導く主役」と密接にリンクしていますね。FAIRNESSさんは、こうおっしゃいました。

>現実的であるということは「必然」に沿う事ではなく、不幸に繋がるもっともらしい「必然」には抵抗する「今できる小さな一歩」を踏み出すことではないだろうか?

いま、大量破壊兵器が少なくともイラク戦争開戦時に無かったことが明らかになりました。
与党議員からは早速こんな声が出ています。「当時日本にはアメリカのいう根拠を検証する方法がなかった。開戦支持が唯一の選択肢だった」。
もっともらしい「必然」は、こんな風につくられてゆくようです。
「現実を見きわめる目」と「小さな一歩」がもとめられていると、僕も思います。

ところで、FAIRNESSさんのblogにリンクを張らせていただいたのですが、ご迷惑ではないでしょうか。また、FAIRNESSさんさえ宜しければ、相互リンクしていただけると光栄です。

今後とも宜しくお願いいたします。

投稿: priestk | 2004/10/11 23:38

priestkさん こんにちは
急ぎの仕事で手が離せなくて遅くなってしまいました。
リンクして頂いてありがとうございます。
こちらも喜んでリンクさせていただきます。

この「検証する方法が無かった」は曲者ですよね。
こういう発言が繰り返される事で、次第に「検証するために情報収集能力が必要である」という意見を皆、不自然とは思わなくなると思います。
情報収集能力を持てば、やがてこの手の情報を全て公開することが如何にナンセンスであるかに気づくはずなので、その機密性が公認されていくのでしょう。
機密性が保たれるという事は、その中で何が調べられようと検証するのは困難になるります。
実用的な諜報システムを考えたとき、何を調べるかを監視できるように規定する事も現実的ではない事がすぐわかりますので、機関が必要とするものが調べる対象となるのが自然です。
そうなれば、機関を使う公的権力に反する言葉に注意しなくてはいけない息苦しい社会が想定できます。
(今でさえ反戦ビラをアパートのポストに入れただけで何日も拘留されてしまうのだから。)
でも、一つ一つをその段階段階で判断すればおかしな事はいっていないんですよね。
どれも現実的だけど、最後にたどり着くものは好ましくない。
こんな事を考えると、必然として「最後にたどり着くもの」と、「現在の問題点」との比較でどちらが本当に妥当なのかを検討しなければいけないのだと思います。

最近、与党が通してきた法案、通そうとしている法案にはいろいろな「兆し」が見えると思うのですが、「兆し」が次に何を「妥当」にするかと言う事を基準に考えるとやはり好ましくない状況を予感してしまいます。
私はこれらの法案を必要にさせる「今の問題」よりもその予感が「大きな問題」に見えるので手間がかかっても、すっきりしなくても、違う解決策で乗り切って欲しいと願っているのですが、今は主流ではないんですよね、この予感。

投稿: FAIRNESS | 2004/10/12 12:06

リンクしていただき、ありがとうございました。

FAIRNESSさんのブログは、いつも考えさせられることが多くて、大変刺激になります。FAIRNESSさんのブログが面白いのは、ご自身の頭でお考えになったことをお書きになっていらっしゃるからだと思います。

政治・社会問題を論じるブロガーの方々の中には、自分のポジションを固定してしまっている人が少なくありません。これは大変残念なことです。
そういう方々は、せっかく不特定多数の人々に自分の意見を表明する機会を持ちながら、世間の受け売りを繰り返しているにすぎないのですから。

>こんな事を考えると、必然として「最後にたどり着くもの」と、「現在の問題点」との比較でどちらが本当に妥当なのかを検討しなければいけないのだと思います。

政府やマスコミが取り上げるのは、もっぱら「現在の問題点」だけです。自分自身の頭で考えないかぎり、「最後にたどり着くもの」は見えてこない。そんな気がしています。

投稿: priestk | 2004/10/14 12:37

>いずれにしても、「今」すべきことがなされずに時がたてば、「今」を思い返してみても、それは「死んだ子の齢を数える」事に他ならない

>もう「のんき」でいられるほど状況は楽観的ではない

若い頃、なぜ日本は戦争への道を進んだのだろうか、当時も人びとは戦争の悲惨さを知っていただろうし、なぜ止められなかったんだろう、と不思議だった。

しかし今、時代が坂道を転げ落ちる時に直面して、ぼくはうろたえている。それがわかっていながらもうすでに止めることはできないのか、という焦燥感を抱くが、では何が出来るのか。

このままでは流される。さりとて新しい方向はまだみつからない。としたら今できることは……。

立止まって、座り込んで考え抜くことではないか。そしてたとえ小さな声でも、間違っていると言うことだと思うのだ。

投稿: MAO | 2004/10/18 23:58

MAOさん こんばんは
流れって得体が知れませんね。
例えば多くの人が「戦争の準備」を本当に必要と思っているのかどうかなんて判らない。
でも、煽動者やマスコミなどのなんかのきっかけで、周りがそう思っているらしいと思うと同じように言わなくては居心地が悪い。
恐らく最初は軽い気持で本心ではない事をてらいや安心の為に口にする。
安心する為に表明した言動や態度がまた別の人に「周りはそう思っている」と、そう思わせる。
人の意見を、そのときに(言動的に)安全な方に勝手に推測してどんどん同化していく。
そのうちにそういう事を言い出すことすらできなくなってしまうのでしょうね。
そしていつか
『実は「戦争の準備」を快く思っていなかったが、それを言える雰囲気ではなかった』
という後日談になるのでしょうね。
人がどう思っているかを慮ってコミュニティーを守るのが日本特有の「世間」なのかもしれませんが、この言葉ではっきりさせない曖昧さに最近恐さを感じます。
(イラクの人質事件は、それに近い意味で「世間」の恐さの典型的なシュミレーションだったような気がするのです)

私もMAOさん同様、こうした物に対抗するのに何も大それた事ができなくとも、できるだけ多くの普通の人が、隣の人に「違う」と語りかけるだけでもいいと思っています。
政治家でもない一般人が自分の言動に何らかの行動の責任を感じる必要もないわけですから。
(今ならという条件がつくのかもしれませんが。)
大それた「反対」を想定して、それができそうもないからといって諦めてしまう事はないと思うんです。
私は「てらい」「安心」から自分を偽らないという消極的な事だけでも充分効果があると思っているのですが・・・。

投稿: FAIRNESS | 2004/10/19 05:48

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