学問(補足)
先のエントリー(学問)で前触れも無く突然「技術的な手法」という言葉を使ってしまったので、もう少し関係する事で補足したい。
根本から考える事で問題を解決しようとすると、それがゆえに壁にぶつかる事がある。
例えば私の体験だが、ある数学の問題に直面したときに、問題を考える過程でAをBに置き換えると見事にその問題が解決できるというものがあった。
Aは問題を考える流れの中で自然に出てくる要素なのだが、Bはどこからとも無く突然そこに現れる。
このBは大抵、別の問題を考えた時の結論であったり、その過程で出てくる一形式であったりその変形だったりするわけだ。
「技術的な手法」の見地に立てばBをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないかと言う事になる。
しかし、根本から考えようとすると「なぜここでBというものを結びつける発想が出てくるのか」というものが気になって来るものだ。
ここでBを持ち込むという発想が解明されなければ気持ちが悪いのだ。
私はそのとき、その問題自体を解くことよりも、同じような別の問題でも同様に、一見全く違うものの要素を結びつける事に気がつくことができなければその問題を理解したと思えなかったのだ。
よくよく考えればこれを結びつける発想をした人(先人)は何万人かに1人で、偶然見つけたものかもしれないのだから、その発想を一からたどって結論に至ろうというのは非常に無謀な試みである。
だから、成績をあげるには
「Bをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないか」(技術的な手法)
と割り切れた方が効率的に違いない。
「Bを持ち出す発想」にこだわって引っかかってしまえば次に進む事すらできない。
私は、この時点で「技術的な手法」に魅力を感じてすっかり乗り換えてしまった。
今考えてみて、こだわったそのときの私は知的好奇心が無かったかといえば、むしろ素直に受け入れる子よりは知的好奇心は強かったのだと思う。(手前味噌とおしかりを受けるかもしれないが)
でも、そのままでは成績は明らかに悪くなったことだろう。
知識の積み重ねにはこういう側面があり、先人の偶然の積み重ねを生かすには「真似る」(まねぶ→学ぶ)事が重要だとされる根拠にはなると思う。
しかし、真似る事の必要性を知りながらも、「こだわりの過程を持ちつづける」人と、最初から気にかけない人では、新しい事を発見したり、矛盾に気づく力には差が出てくることだろう。
既存の物をそのまま受け入れる習慣が染み付いてしまえば、よほどの幸運に恵まれない限り、新しい事やそのきっかけとなる矛盾に出会っても気が付くのは難しい。
気が付いても無視してしまうか価値の無いものとして切り捨ててしまいかねない。
数学ではあまり既存のものに矛盾を感じる事は無いのだろうが、これが他の自然科学では「原理の発見」とか「発明」など、つまり独創性の分野では大きなウェートを占めると思う。
普通の社会でも、閉塞状態から抜け出すには既存のものに縛られた発想では難しい。
これだけ情報が氾濫する中で、見抜く力(メディアテラシー)の面から見れば今後ますます重要になるだろう。
成績や効率から考えれば無駄な回り道に違いない。
それは、ナンセンスに見えるかもしれない。
しかし、それでも、そこには大事なものがあり、簡単に切り捨ててはいけない事のような気がする。
ある時期、それが重要だと思い返した私だが習慣を変えるのはなかなか容易な事ではない。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。


コメント