人の命
ここしばらく天災が続いた。
台風が連続して大きな被害をもたらし、それに追い討ちを掛けるように地震が起きた。
便利な社会が天災の前にあえなく分断される。
大事な人の命の喪失感、悲しみは何処に向ければいいのだろう。
台風が発生し上陸が予想される時にいつも思う事は、今普通に家族と暮らしている人の何人かがまた犠牲になるのだろうと言うこと。その人たちは自らが犠牲になる事などは夢にも思っていないはずだということ。
そして台風でも、地震でも天災が過ぎてみて、犠牲になった方たちが、その直前まで家族とどんな会話を交わし、どれだけ長い歴史を生き抜き、どれだけ多くの人と関わってその人たちに影響を与えてきたのだろうということを思う。
この世に生れ落ちて、大事に育てられ、周囲の人に幸せを与え、幸せを受け取り、傷つけ傷つけられながら過ごした歴史が一瞬にして終止符が打たれる。
なくなった方、一人一人に忘れがたい歴史があるはずだ。
生き残った家族にも同様の歴史が刻まれているはずだ。
直接被害を受けなかった私には「天災」であっても、被害者の方やその家族にとっては「人生」であり「命」そのものであるはずだ。
これはいつでも自分の身に起こっていてもおかしくない事であって、今私がその当事者でないのは単に運が良かっただけなのだ。
その一方で生きることに真摯に取り組み、協力し、分断された便利な社会に頼らずに立ち上がろうとする姿、1つの命の為に危険を顧みず救出しようとする姿、少しでもできる事をしようと支援の手を差し伸べようとする姿。
頭が下がる思いであると同時に、なんともいえない救いの思いがある。
こんな中で、ちょうど今、バグダッドで見つかった遺体が人質となった香田さんであった事が確認されたと報道している。
どんないきさつがあったにせよ同じように両親に愛され、歴史を負った人一人の命が奪われた。
大事に育てた困難にあっている子の無事を祈っていた両親に最悪の結果がもたらされてしまった。
またもや卑劣な誹謗を浴びせ、悲しみに追い討ちを掛けた者がいたというが、そのもの達は国民である以前に人であることを終に忘れてしまったのではないかと疑った方がいい。
政府は「このような卑劣極まりない行為はけして許されない。テロとの戦いは断固として続けていかなければいけない」といっていた。
テロと戦うのは良いが、そのやり方が同じような「歴史を背負った罪のないイラク人の命」を犠牲にする卑劣極まりない行為をいとわぬような物であるならば、それはテロとの戦いとは違う、全く的外れな言動である事を自覚してもいい頃だろう。
イラク戦争は、もはやその大儀を失い、その汚さは人々の目にさらされてしまっている。
戦う相手が歪められてしまっていることを白日の下にさらしてしまっているのだ。
その白々しさは、全くもって人の死を冒涜する物だという憤りのみが残る。
「人」であることを失った時、「国民」である事に何の意味があるのか?
そこに愛国も誇りもあるはずもない。
台風でなくなった方、地震でなくなった方、そしてイラクの犠牲者、パレスチナの犠牲者、ベスランの犠牲者、ダルフールの犠牲者、アメリカ兵の犠牲者、残念ながら香田さんも 命を落とされた全ての方のご冥福をお祈りします。
| 固定リンク
| コメント (4)
| トラックバック (7)
最近のコメント