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2004/10/31

人の命

ここしばらく天災が続いた。
台風が連続して大きな被害をもたらし、それに追い討ちを掛けるように地震が起きた。
便利な社会が天災の前にあえなく分断される。
大事な人の命の喪失感、悲しみは何処に向ければいいのだろう。

台風が発生し上陸が予想される時にいつも思う事は、今普通に家族と暮らしている人の何人かがまた犠牲になるのだろうと言うこと。その人たちは自らが犠牲になる事などは夢にも思っていないはずだということ。
そして台風でも、地震でも天災が過ぎてみて、犠牲になった方たちが、その直前まで家族とどんな会話を交わし、どれだけ長い歴史を生き抜き、どれだけ多くの人と関わってその人たちに影響を与えてきたのだろうということを思う。
この世に生れ落ちて、大事に育てられ、周囲の人に幸せを与え、幸せを受け取り、傷つけ傷つけられながら過ごした歴史が一瞬にして終止符が打たれる。
なくなった方、一人一人に忘れがたい歴史があるはずだ。
生き残った家族にも同様の歴史が刻まれているはずだ。
直接被害を受けなかった私には「天災」であっても、被害者の方やその家族にとっては「人生」であり「命」そのものであるはずだ。

これはいつでも自分の身に起こっていてもおかしくない事であって、今私がその当事者でないのは単に運が良かっただけなのだ。

その一方で生きることに真摯に取り組み、協力し、分断された便利な社会に頼らずに立ち上がろうとする姿、1つの命の為に危険を顧みず救出しようとする姿、少しでもできる事をしようと支援の手を差し伸べようとする姿。
頭が下がる思いであると同時に、なんともいえない救いの思いがある。


こんな中で、ちょうど今、バグダッドで見つかった遺体が人質となった香田さんであった事が確認されたと報道している。
どんないきさつがあったにせよ同じように両親に愛され、歴史を負った人一人の命が奪われた。
大事に育てた困難にあっている子の無事を祈っていた両親に最悪の結果がもたらされてしまった。
またもや卑劣な誹謗を浴びせ、悲しみに追い討ちを掛けた者がいたというが、そのもの達は国民である以前に人であることを終に忘れてしまったのではないかと疑った方がいい。
政府は「このような卑劣極まりない行為はけして許されない。テロとの戦いは断固として続けていかなければいけない」といっていた。
テロと戦うのは良いが、そのやり方が同じような「歴史を背負った罪のないイラク人の命」を犠牲にする卑劣極まりない行為をいとわぬような物であるならば、それはテロとの戦いとは違う、全く的外れな言動である事を自覚してもいい頃だろう。
イラク戦争は、もはやその大儀を失い、その汚さは人々の目にさらされてしまっている。
戦う相手が歪められてしまっていることを白日の下にさらしてしまっているのだ。
その白々しさは、全くもって人の死を冒涜する物だという憤りのみが残る。
「人」であることを失った時、「国民」である事に何の意味があるのか?
そこに愛国も誇りもあるはずもない。

台風でなくなった方、地震でなくなった方、そしてイラクの犠牲者、パレスチナの犠牲者、ベスランの犠牲者、ダルフールの犠牲者、アメリカ兵の犠牲者、残念ながら香田さんも 命を落とされた全ての方のご冥福をお祈りします。

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2004/10/11

死んだ子の齢(よわい)を数える

大量破壊兵器の存在はイラク戦争の根拠である。

「虐げられたイラクを開放した」とか
「民主主義、自由をイラクにもたらした」とか

いくらもっともらしく言おうと、他の「方策」を拒否し「戦争」に踏み切った根拠が「大量破壊兵器」である事が覆るわけではない。

戦争の正当性を国際社会が認めたとする国連決議1441は「大量破壊兵器」に関した決議であって、けして「虐げられたイラク国民」でも「民主主義・自由」でもない。

国連決議1441を持ち出して、新たな決議無しに戦争に踏み切った事ですら認められないと言う解釈があるのだが、これはそういう問題でもない。
百歩譲って国連決議1441を戦争の根拠として認めたとしても、「大量破壊兵器」や「計画」が存在しなかったと言う事は、それすらも成り立たないと言うことだ。

イラクが査察を受け入れ、査察団が大量破壊兵器の存在に否定的な見解を示し、他の常任理事国(3国)が反対を表明する中で、それでも「大量破壊兵器が存在する根拠がある」から「イラクは隠している」と結論づけ、イラクの国連決議1441違反を強調し、その中にある「警告」に従って戦争を推し進めた。

このことは「大量破壊兵器が存在する根拠がある」と言うことが嘘であったことが判明した事で、イラク戦争は国際法上誤った戦争であったと結論づける事に他ならない。
この間違いで失ったものは大きい。(この予定通りの間違いで一部の人種は多くのものを得たはずだが)


感情的には死んだ子の齢を数えたくなるが、この言葉の意味するごとく、失った物はけして取戻す事はできない。
アメリカが失った求心力も信頼も、世界に広がったテロも、国連の失った威信も、「今」以前に戻す事はできない。
日本が間違いを拠り所に利を得ようとした事がついに事実として歴史に、人々の記憶に残る事になった事も、そのために積み上げられてきた「戦争準備」も消し去る事はできない。

何かをできるのは「今」に対してだけである。
過去にも未来にも手出しはできない。
未来を良き物にするには「今」を良き方向に向かせる事でしか、それは実現されない。
だからと言って高い峰を前に絶望する事はない。
できる事の大小ではなく、それぞれの立場で、力量で、自分を誤魔化さずに「素直に」良いと思う事にしたがって、着実にその方向に向かっていくことができればそこには希望がある。
しかし、たとえ小さい事であっても勇気の必要な事には違いない。
その方向には、自分が今持っている「大事に見えるもの」を失う覚悟も含んでいる。
ついでだからその「代償」が本当に価値があるのかどうかも吟味してみたら良い。
いずれにしても、「今」すべきことがなされずに時がたてば、「今」を思い返してみても、それは「死んだ子の齢を数える」事に他ならない。

今回の「大量破壊兵器」のような間違った情報に惑わされず、現状を正しく評価して「今」なすべきことができるのか、これまでのなし崩し的経過に引きずられ現在なすべき事を歪めてしまうのか、どちらにしても国民が日本を「あって欲しい姿」に近付けるには「今」何をすべきかを真剣に考える時に来ている。
本当に何が良いかの答えを決められなくとも、どのみち選択は強いられる。
「先送り」も「無視」も立派な選択であり、その結果にはそれに従った独自の結果が用意されているのであって、現状維持という結果がそこに有る訳ではない。


人々を経済と言う価値観で2種類に分けていこうというのが今の日本が属する経済圏の流れだ。
日本でも「勝ち組」「負け組」が市民権を得てきている事、「自己責任」がこれまで以上に強調されてきている事などを見ればその価値観がじわじわと浸透してきている事を容易に感知できる。
これは2種類に分ける事が別に悪いことではなく、むしろよい事であるという価値観の世界だ。
この「差」が経済に活性化をもたらすと言う価値観の世界だ。
魅力的ではあるが「地球環境」も「戦争」も「飢餓」も、「経済の拡大」に優先される事はない世界だ。
そう、この世界観は現代から将来にわたって抱える深刻な問題と密接に関わっている。

ここでいう2種類とは、現在の姿を歪める事で利益を得ながら何も失う事のない立場と、そのために多くの大事な物を失うその他の立場とも言える。
この流れの先にある世界では、残念ながら、そのシステムの性格上、好むと好まざるに拘わらず、殆どの人々は後者に属することになる。

もし、「今」を侮っていれば今度は何年後かに(利益を得て、何も失う事のない前者の国民の為に)「死んだ『我が子』の齢を数える」ことになる確率は高いのだ。
死んだ「我が子」の齢を数えても戻ってくる事はないのは・・・いうまでもない。

日本という国が衰退することによってのみ、このような状況になると言うのではない。
仮に国としては栄えようと、その内部でこのような状況に置かれる事があるということだ。

前者を「夢」と呼び、それを目指すのも選択の一つだろうが、アメリカとは違い日本ではその門は排他的で狭い物となりそうだ。
本来このシステムは「徹底した自由」の発想が根本であるはずなのだが、日本のそれはこの「徹底した自由」という根本を認め様とはしていない。
たとえ、望み叶ったとしても、思っているほど「負け組」が「お人よし」ではいられない事は、中東で見られる「テロ」と呼ばれている現象を見れば想像がつく。
「勝ち組」とて、そうそう安心するわけにも行かないだろう。


ところで、人の「夢」や「望む物」そして「価値観」そのものが、「経済」だけで決まる物ではなさそうだということも「うすうす」は感じているのではないだろうか。(ヨーロッパでは苦戦はしているが、なんとか、これを形にしようという試みもある。)
目に見える現実の手前、それを言い出せないだけではないだろうか?
「大量破壊兵器の存在」が嘘っぱちで「戦争」が行なわれたことが判明した今、うすうす感じている事をちょっとばかり素直になって考えてみるにはいい機会だと思う。
私は、もう「のんき」でいられるほど状況は楽観的ではないと思うのだが・・・。

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2004/10/07

学問(補足)

先のエントリー(学問)で前触れも無く突然「技術的な手法」という言葉を使ってしまったので、もう少し関係する事で補足したい。

根本から考える事で問題を解決しようとすると、それがゆえに壁にぶつかる事がある。
例えば私の体験だが、ある数学の問題に直面したときに、問題を考える過程でAをBに置き換えると見事にその問題が解決できるというものがあった。
Aは問題を考える流れの中で自然に出てくる要素なのだが、Bはどこからとも無く突然そこに現れる。
このBは大抵、別の問題を考えた時の結論であったり、その過程で出てくる一形式であったりその変形だったりするわけだ。
「技術的な手法」の見地に立てばBをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないかと言う事になる。
しかし、根本から考えようとすると「なぜここでBというものを結びつける発想が出てくるのか」というものが気になって来るものだ。
ここでBを持ち込むという発想が解明されなければ気持ちが悪いのだ。
私はそのとき、その問題自体を解くことよりも、同じような別の問題でも同様に、一見全く違うものの要素を結びつける事に気がつくことができなければその問題を理解したと思えなかったのだ。

よくよく考えればこれを結びつける発想をした人(先人)は何万人かに1人で、偶然見つけたものかもしれないのだから、その発想を一からたどって結論に至ろうというのは非常に無謀な試みである。

だから、成績をあげるには
「Bをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないか」(技術的な手法)
と割り切れた方が効率的に違いない。
「Bを持ち出す発想」にこだわって引っかかってしまえば次に進む事すらできない。
私は、この時点で「技術的な手法」に魅力を感じてすっかり乗り換えてしまった。
今考えてみて、こだわったそのときの私は知的好奇心が無かったかといえば、むしろ素直に受け入れる子よりは知的好奇心は強かったのだと思う。(手前味噌とおしかりを受けるかもしれないが)
でも、そのままでは成績は明らかに悪くなったことだろう。

知識の積み重ねにはこういう側面があり、先人の偶然の積み重ねを生かすには「真似る」(まねぶ→学ぶ)事が重要だとされる根拠にはなると思う。
しかし、真似る事の必要性を知りながらも、「こだわりの過程を持ちつづける」人と、最初から気にかけない人では、新しい事を発見したり、矛盾に気づく力には差が出てくることだろう。
既存の物をそのまま受け入れる習慣が染み付いてしまえば、よほどの幸運に恵まれない限り、新しい事やそのきっかけとなる矛盾に出会っても気が付くのは難しい。
気が付いても無視してしまうか価値の無いものとして切り捨ててしまいかねない。
数学ではあまり既存のものに矛盾を感じる事は無いのだろうが、これが他の自然科学では「原理の発見」とか「発明」など、つまり独創性の分野では大きなウェートを占めると思う。
普通の社会でも、閉塞状態から抜け出すには既存のものに縛られた発想では難しい。
これだけ情報が氾濫する中で、見抜く力(メディアテラシー)の面から見れば今後ますます重要になるだろう。

成績や効率から考えれば無駄な回り道に違いない。
それは、ナンセンスに見えるかもしれない。
しかし、それでも、そこには大事なものがあり、簡単に切り捨ててはいけない事のような気がする。
ある時期、それが重要だと思い返した私だが習慣を変えるのはなかなか容易な事ではない。

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2004/10/06

学問

小さい頃、算数は覚えなくても考えれば判る事だと信じていた。
頭にイメージして一つ一つその場で考えていけば解けると。
だから前のエントリーでも書いたが宿題をやらずに先生にビンタを食らう羽目になったのだが。
でも、さすがに普通の脳みそでは算数が数学になり中学の後半から高校になるとそうもいかない。
基本的な事をいちいち最初から考えていたのでは時間かかるし、局部に集中しすぎて問題の全体像もつかめなくなる。
基礎的なことや反復の重要性を実感するのはこんなときだ。
一つ一つを良く考える事も重要だし、その結論を体に染み込ませすぐに取り出す事ができるような訓練も大事なのだろう。

色々な意味で多様になり、複雑さが増して来ると学ぶべき事柄の絶対量も増える一方だ。
そんな増えつづける知識を教えるのに人の持つ時間は限られている。
どんなに社会が高度化して複雑になろうとも、それに比例して子供が義務教育を受ける時間が増える訳でもない。
学校の先生も大変だろう。
子供の可能性を考えると多様化した社会に対応する「基礎」自体も多様化しておかなければいけない。
限られた中で多くのことを教えるには、できるだけ結論の出た物を暗記し、技術的な手法を用いるしかなくなってしまうのも無理からぬ事にも思える。
技術的な手法ではやはり、根本から考える機会は少なくなり、その習慣すら無駄に思えるようになるのが自然なのかもしれない。

科学に関する知恵は先人の知恵を学び、その確実な知恵を拠り所に次から次えと積み上げていくものだろう。
科学の中でも特に「数学」はその仮定の存在による絶対性から先人の知恵が崩れる事はほとんど無いような気がする。積み上げ、分岐し更に積み上げていけば良い。
一番論理的な科学の分野なのではないだろうか。
「物理」とか「化学」などといった分野は論理性を仮定の世界から現実のものに適用していくという意味で数学の次に先人の知恵が確かなものだともいえるかもしれない。
しかし、ここには現象の捉え方(観測,解釈)の中に人の要素による限界や不確かさが加わるため先人の知恵が覆される事がしばしばある。
その他もろもろの自然科学もこれに準ずると思う。
哲学を科学とすると、それは人そのものを対象にするだけに、この限界や不確かさはかなり大きくなるのではないだろうか。

どれも思考の過程に論理性を必要とする事には変わりは無いが、その扱う対象は学問によって確かさが大きく異なってくる。
もっと簡単にいえば同じ科学でも不確かさが高ければ高いほどほど根本を見直す必要に迫られる可能性が高くなるのではないかという事。
(もちろんもっとも論理的な数学でさえも、発展させるためには根本を見直す事は必要だがそれはひとまず置かせてもらいます)

先ほど出てきた「技術的手法」に頼る事は確実に積み上げられるものには有効で効率が良いかもしれないが、限界や不確かさの比率が高くなればなるほど対応していく事が難しくなるような気がする。
そして、長く続いた技術的な学問の積み重ねが「人」という不確かのものへの関心を遠ざけている遠因にもなっているのではないだろうか?

歴史の本などを見ると、昔の人の「学問」にはその時代その時代で「人」について、今よりもっと学んでいたのではないかと思える。
科学としての「哲学」も、知恵の集大成ような「宗教」もそうだが、「どう生きるか」を重要な「学問」として学んでいたのではないだろうか?
確かに不確かで積み上げにくいもので理論でまとめきれないかもしれないが、先人の知恵を拠り所に時代に即して学び、追求していたのではないか?

現代の我々は確かな科学に対する技術的手法を、どうも不確かで根本を見つめる必要のあるものにも同じように適用してしまう癖がついてしまっているのではないだろうか。
いわゆる、(あまり好きな言葉ではないが)「思考停止」はそれに当たるのかもしれない。

「どう生きるか」と社会のかかわりは深い、政治との関わりも、国際問題との関わりも、地球規模の環境との関わりも,戦争との関わりも....

技術的で効率的な教育を受けてきた私の未熟さから、これらを再確認する必要性を感じている。
だから、日本の教育を考える時も、効率も良いが、答えのなかなか見えない不確かなものが気になってしかたがない。
確かな分野の科学は技術的な手法で専門分野化しても構わないが、この不確かな分野は共通して根本から学ぶ(考える)癖をつける必要があるのではないだろうか?
これは、あくまで不確かな感覚的な思いにすぎないが・・・

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大統領選とアメリカ

アメリカでは大統領選も終盤戦に入っている。
先日もブッシュ大統領とケリー上院議員の討論があった。
今では様々なルールがあり、あまり白熱した意見のぶつけ合いはないようだ。
直接の対決は殆ど見られず、どちらかと言うとそれぞれ主張をしあうところにとどまっている印象が強かった。
私にはケリー氏の話はすんなり入って来るがそれは私がアメリカ人ではないからで、アメリカ人の半数はやはりブッシュ大統領が良いようだ。

ブッシュ大統領の話には善悪がはっきりしている。
善は善であり悪は悪である。
信念を持って善を行なう事にたとえその道が険しくとも妥協はできない。
リベラルは善を曖昧にし、悪を許し、モラルと意欲を低下せしめる。
建国以来の「アメリカの民主主義と自由」は疑うべきもない善であり、そのための戦いもまた善である。

全くもって明快だ。

討論でブッシュ大統領が同じ事を繰り返すだけで私には説得力がないように見えても、そもそもこのような立場には他の言葉で説明する必要性すらないのかもしれない。
支持者にはこの繰り返しだけで充分なのだろう。

このような感覚は宗教(一神教)的な基盤を持たない私のような者には想像はできても実感する事はできない。
また、アメリカ人(保守)の持つ「自由」に対する徹底した考えも我々日本人にはなかなかわからない。
この点は同じ保守でも日本の「保守」とは違い、私の持つ日本語の「保守」という言葉のイメージともかけ離れているような気がする。(私だけか?)
また、多くの日本の国民が世界を気にしてそれを知ろうと思うほど、多くのアメリカ国民(保守層)がそれを知ろうとは思わないだろうし、その必要性も感じない人も少なからずいるように思える。

しかし、私はこの善は成就しないと思う。
イスラム過激派の善も同様に成就しないと思う。
少なくとも互いに同じ発想で争い続けるならば、どちらかが消滅するしかないがそれは実際は不可能だろう。
おそらく互いに傷つけ合いながら成就しないままか、周りを巻き込みつつ疲れ果て厭世感が満ちるのを待つしかないのではないか?
いずれかの善を最後まで信じる者だけはどのような結果になっても救われるのかもしれないが、それは人類の平和とは関係のない別次元の信念の話だ。
トコトン最後までこの善に疑いを持たず救われる人がどれだけいるのだろう。

アメリカに関して言えば、現状が続くようであれば、むしろその国際的求心力は低下するのではないだろうか。
アメリカの同盟国でその関係を政府が重視しても、果たしてその国民がその政府の方針にいつまでもついていく事ができるかどうかは判らない。
民主主義が浸透している国であればあるほどその姿勢が変わる可能性は大きい。
もっとも、今のアメリカの保守層がそのことを気にするかどうかも疑問なのだが、アメリカ人ではない私にはアメリカの求心力が低下する事は大きな問題であり、私の生活に大きく関係してくる。
それは、現在、日本政府がアメリカと一蓮托生の道を取っているからにほかならない。
アメリカ人ではない私がアメリカの大統領を選ぶ事はできない。
私が、できる事は日本の有権者として日本政府がアメリカと日本の違いをどのように捉えて、どのようにマネージメントしようとするのかを見極め、その選択に私自身の価値観に基づいて参加する事だけだ。

日本政府はどのような見通しを持っているのだろう。
米国追従を良しと考えているのはわかるが、先をどう見通して良しとするのかさっぱり判らないから困るのだ。

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