常任理事国
国連総会では小泉首相が常任理事国入りを訴えている。
国際的発言力を持つとはどういうことなのか?
国際化とはどういうことなのか?
国際貢献とは?
最近の潮流を見ると力で紛争を抑える事ができなければ何もできないかのようだ。
国連を分断し、国際社会の共通理念作りの妨げになっているのは力を持つ大国(現常任理事国)のエゴに他ならない。
新しい枠組み作りのための争い、軍事産業の市場獲得合戦、既得権の奪い合い、自国の利益優先の環境破壊、非核保有国への不公平で一方的な核拡散防止。
常任理事国が軍事力を背景に秩序をもたらす役割を果たすどころか、この軍事力を誇示し、エゴを押し付け合い、拒否権をちらつかせ国連を無力化し、その他の国の反発を買い秩序を乱しているだけである。
このような中での国連改革であり、その国連改革の一環として持ち上がっているのが常任理事国の拡大のはずだ。
ドイツの歩みはEUをフランスとともに纏め上げてきた実績、東西ドイツを様々な困難に遭いながらも形にしてきた実績、さらに経済的な発展の実績等この拡大に大きく貢献できる可能性を感じさせる。
日本も効率的だったかどうかは別にして後進国の発展を後押ししてきた実績、世界各国と友好関係を持つことに努力し、大国となりながらも核には手を出さず平和を貫いてきた実績は各国に可能性を感じさせたはずである。
以前の日本は、今の国連のあり方を変える可能性を秘めていたと思うのだが、湾岸戦争以降の日本はエゴイスト集団の仲間入りをして利を得るという考えに支配されつつあるようだ。
これでは何のための日本の常任理事国入りかわからない。
軍事力を誇示したい常任理事国は他にいくらでもあるのだからそれはもう充分であろう。
常任理事国入りしようとも国連自体が常任理事国のエゴによりさらに分裂してしまえば「常任理事国」などという「名」は何の意味も持たなくなる。
肩書きだけもらって喜ぶ姿は想像しただけで哀れである。
日本が日本の実績をいかに国連の場で生かして信頼を得るかが発言力を持つという事なのではないか?
国際貢献を意識したきっかけは湾岸戦争での「日本への非難」が一番大きいのだと思う。
その時ショックだったのが「日本は金を出しても血を流さない」という言葉なのだろう。
PKO法案、イラクへの自衛隊派遣いずれもその影響が無いとはとても思えない。
しかし、本質的な「日本は金をだしても・・・・」の体質をこれらで変えることができたか?
形の上で軍隊を出そうとも、何も変わりはしない。
イラク戦争に自衛隊を派遣したのは経済的な米国依存がその理由の一つ。
我が身を守る為の安全保障上の理由が二つ目である。
我々国民は自衛隊に全てを押し付け、同朋がボランティアで危険を冒したことを国益に傷をつけた偽善者だと中傷し、国内の経済活動の虜であることを理由に、それを守る事に必死で道義的なことなどは理想論という言葉で一蹴する。
「日本は金を出しても血を流さない」姿勢に何ら変わりはない。
それは、利己的な行為のすぐにそれとわかる「理由付け」に過ぎず、むしろそれが、その姿勢に拍車を掛けている我々日本人の姿を浮き彫りにしているように思える。
国連は紛れもなく第二次大戦の戦勝国のコミュニティーである。
戦後の国際社会そのものも同じだ。
第二次大戦は枢軸国が「悪」と結論は定まっている社会なのだ。
中韓朝にかぎらず、その「悪」を「善」に名誉挽回しようとする行為がその国際社会に受け入れられるとでも思っているのだろうか?
「悪にされるのは理不尽である」とかそういう問題ではないのだ。
もちろん、戦争だから夫々に戦争に至る「必然」も「背景」もなかったわけがないが、それが「理不尽な戦争」に突入してしまった日本が受け入れなければならない「理不尽な結果」なのだ。
戦争によりもっと理不尽な結果を負わされた国はいくらでもある。
もし、それでも(戦争に関して)名誉挽回を図りたいなら、戦後の経済発展を否定し、民主主義と自由を否定し、常任理事国など夢見ずに、国際社会から一歩はなれたところを歩くことになろう。
戦勝国の社会の価値観で手に入れた金満にしがみつきながら、「戦争の理不尽」も受け入れる事ができず、それに対して重箱の隅をつつくように弁解を繰り返し、勇ましく振舞おうとする姿はあまりに滑稽である。
「戦争の理不尽さ」に対する感情は、それを知る我々が戦争の必然に追い込まれる国の身になって考える事がができるという事においてのみ生かされるのだと思う。
特定の相手にではなく「戦争の持つ理不尽」そのものに向ける事に意味があるのではないのか?
小国が陥りやすい戦争への道から抜け出す手助けをする為にそれを生かし、追い込まれる者の「必然」を大国に理解させ、その「必然を取り除く」ことで最悪の結果に陥らないようにしむける役割があるのではないだろうか?
これは今の常任理事国には難しい事だ。
そんな国際貢献が日本には科せられているような気がしてならない。
| 固定リンク
« 恐怖心の囚われ人 | トップページ | 姪の一言 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
こんにちは。初めまして。興味深く拝読しています。日本政府が軍事力重視の外交路線を選ぶなら選んだ場合、10年20年50年後ののビジョンはもっているのかと考えると、なかなか見えてこないですよね。そして力関係のシステムは世界のマジョリティーの生活を更に不安定にしていくというグローバリゼーションの問題点についてなどの議論らしい議論が政府レベルでも起こらぬまま物事が進んでいっていると思うのです。国際社会の大国の一員となったら避けられない問題点です。中国は歴史認識の点で戦争を再び出来る下地を整えつつある日本を非難していますが、これからの日本がFAIRNESSさんが最後のパラグラフに書かれたような路線に変換していくことは、可能なのでしょうか。ご挨拶代わりに、少し書いてみましたが自分のBLOGでも取り上げてみたいと思いました。
投稿: miu | 2004/09/26 05:48
miuさん はじめまして。
といっても私がお邪魔するblogのコメントで何度かお名前を拝見しているのではじめてという気がしません。(今調べたのですがどこだか定かではないのですが)
miuさんのおっしゃる通り政府がどのような長期的なビジョンの元に今の政策を行っているかが明確であれば今ほどの不信感は持たないと思います。
そこを明らかにしない,またはできないという現状から推察できる事は何なんでしょう?
あまり多くの国民にとって気持ちのいいものではないのでしょうね。
最後のほうに書かせていただいたことは私個人が日本があって欲しいと思う姿なのですが、これに限定せずこの手のものは、「現実」の中の「好ましい現実」を積み上げていく事で「近づけていく」ものだと思っています。
最初から100パーセントの実現を夢見るものでも実現性が無いといって投げ捨てるものでもないような気がします。
あって欲しいと思う事(本当は理想と書きたいのですがこの言葉は議論を呼ぶので)を「現実」を前にしてあっさり捨てざるをえない社会は恐らく内部に矛盾を抱え、そこから荒み、終いにはヒステリックな結末を迎えるような気がしてなりません。
実現性も重要なのは間違い有りませんが、それ以上にそちらのほうが今は気がかりです。
miuさんもmiuさんのblogのMyFavBlogsにリストされている方々も皆豊富な知識を持ち論理的な思考をされる方々でいつも勉強させられるばかりです。
その点、私は到底及びませんが庶民の目線で感じる事を書きつづけていきたいと思いますので今後も色々な意見をお聞かせください。
miuさんのBLOG楽しみにしています。
投稿: FAIRNESS | 2004/09/26 21:24
お返事ありがとうございます。私の名前は多分standpoint1989さんの「小さな目で見る大きな世界」で見かけられたのだと思います。最近BLOGをはじめたのですが、皆さんが深い視点で、さまざまな立場からさまざまな表現で自らの意見を書かれているのをみて嬉しくなり興奮しました。私は市民は政治家や政府と同様或いはそれ以上の能力が必要だと思っているのですが実際にそうなってきた面もあると思います。
FAIRNESSさんがおっしゃられた「好ましい現実を積み上げ」というのは本当に大切だと思います。何が好ましいか好ましくないかなどの議論が行えるBLOGは活用大だなと思います。こういう会話や意見ひとつひとつがそこまで小さなかけらでないとは、ネット人口から見ても否定しきれないと思います。ただFAIRNESSさんも指摘するように、読み方や「違い」との接し方も進歩していかなければいけないと思うんです。
わたしはたいしたことをかいているわけではないのですが、周りの同年代の友達に少しでも考えてくれたらよいなくらいの気持ちで書いています。FAIRNESSさんのBLOGも読んでくれたらもっとよいなとおもってわたしのところにもリンクを張らせていただきました。この場をかりてお伝えさせていただきます。
投稿: miu | 2004/09/27 06:39
miuさん おはようございます。
私も、相互リンクさせていただきます。
これからも宜しく願いします。
投稿: FAIRNESS | 2004/09/28 08:36
常任理事国制度は、戦勝国の利権制度にしかすぎず、いかなるいみでも恒久的に設置しておくべきではありません。
10年以内に廃止すべきでしょう。
それとも未来永劫このシステムを保存しますか?その、根拠は?
投稿: 古井戸 | 2007/12/22 12:34
古井戸さん コメントありがとうございます。
今の戦勝国の常任理事国制度なんてなくなっていいと思います。
未来永劫保存する根拠も無いし、恒久的に続くことも無いと思います。
そして、それが10年以内に廃止されていいと思います。
それは明日でもいい。
ただ、このような問いの立て方の前に引き出されると困惑もあります。
その理由を書くことがいいのかどうか・・・
それは躊躇であっても否定じゃないのですが。
それを言葉にすると本来願っている「望ましさ」を置き去りにして「否定」として独り歩きしそうなんです。
投稿: FAIRNESS | 2007/12/24 17:35