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2004/09/15

先人の知恵

小さい共同体、例えば3人程度の仲間で1人が自分の利益の為に他の2人にとって嫌がる事をすれば、その場でその反応は現れるだろうし、もしかすると嫌な事を返されるかもしれない。
少なくとも3人は快適に過ごしにくくなる事がすぐわかる。
恐らく人の嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事を自然に自覚するだろう。
もちろんこの共同体から逃げる事ができない状況を想定しての事だが。

中ぐらいの共同体、例えば100人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても、その相手以外の人達の陰に隠れる事は可能になるかも知れない。
この1人は利益を得ながらも嫌な思いをしなかったわけだからその行為をやめる必要はないと思うだろう。
もしかすると利益を得た自分に優越感すら感じるかもしれない。
そんな彼を見て俺もやってみようと思う者も出てくると考えるのが自然だろう。
恐らく皆,自分だけが損はしたくないから彼を見習う事になるかもしれない。
しかし、100人程度の共同体ならば自分のした不快な事が自らに戻ってくるのも時間の問題だろう。
やがて,始めの1人もそれを見習った他の者も、この状態を快適だとは思わなくなるに違いない。
こうなれば、小さな共同体同様、「嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事」を自然に自覚するかもしれないし、そうでない場合には皆でそのような者にあえて制裁を与えるような知恵を働かせるかもしれない。

大きな共同体、例えば数万人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても,10万人の影に隠れる事は至極容易になることだろう。
そんな彼を見て真似しない者が出ないと思うほうが不自然。
数万人もいれば自分の利益の為に人の嫌がる事をする者は最初から複数かもしれない。
いずれにしても彼らの近くにいる者には彼らのまねをする者が現れるに違いない。
しかし、これだけ大きな共同体になるとまねをする者が行き渡るまでには時間が掛かる事だろう。
自分にそれが戻るまでは「嫌がる事をすれば自らが快適に過ごす事ができない」と自覚する事などない、その間は「人より得」でありつづける。
さらに、利益の為にする行為の種類にも「新種」が現れるに違いない。
自分のした行為と違う事(新種の行為)をされ、実はそれによって不利益を被っているのだが,それが自分のした行為と同質の単なる「新種」である事など知る由もない。
自らが起源となっている不利益を受けながらも、それとは知らず自らは利益になると思っている行為を「得」だと思い込みながらその行為を続ける事だろう。
いずれこの共同体の人々は皆「快適ではない」事に気づく。
しかし殆どの人は何が快適ではない原因なのかわからないまま、自らが「得」だと思っていることをやめることはできない。
辞めることは「損」以外の何物でもないから。
きっと不快さが絶え難いほどの極に達するまで・・・。


共同体が大きくなればなるほど「原因」と「結果」を結びつける事は難しくなるだろう。
本質は同じでも「原因」の姿も、「結果」の姿も多種多様になり絡み合ってそれがわかりにくくなる。
しかし、規模が小さかろうと大きかろうと本質は変わらない。
感知ができなくなり想像ができなくなり錯覚してしまうだけだろう。
恐らく、こんな事は宗教や哲学を持ち出すまでもなく、人が共同生活を始めた頃にはみな知っていたに違いない。

先人はこの結末も何千年も前から知っていたのだろう。
言葉や生活習慣などにも残して充分警告している。
「してはいけないこと」を「現実にそった賢い選択」と思い込み、してしまう事をずっと以前に見透かしていて、それを「浅はかな事である」と伝えようとしている。

見透かしているが為に「疑うことなく信じる事」でこれを伝えようとした試みもなされたが、こちらは伝える中身ではなく「伝える形式を疑いなく信じる」事に変質し、同じ「伝える中身」を持つ違う「形式」を排除し、先人が本当に伝えたかった「中身」に反する事を互いに繰り返すことになってしまっているようだ・・・
また,その「伝えたい中身」ではなく「伝える形式」が「科学」と対立し矛盾を生んでしまったようでもある。

おそらく我々自身も「してはいけないこと」を先人から受け継ぎ、知っている。
「してはいけないこと」に従って「しない」ことで、たった今、「損」をするのが恐いのだ。
ついでに言うならば多くの人は「結果」も知っている。
知っていながら「得」をして今をやり過ごす為にそこに目を向けずに済む「言い訳」や「解釈」を探すことにきっと夢中なのだ。


heteさんの「情けは人の為ならず 巡り巡りて己が身の為」を読んで
瀬戸さんの「哀しみが憎しみに変わることを知っている」の
「ならば、
やってはいけないのです!!!」
という言葉を見て、お二人のエントリーとは直接関係はないのですが私がそこから連想した事を書かせていただきました。

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コメント

おはようございます。
トラックバックどうもありがとうございました。

『知っていながら「得」をして今をやり過ごす為にそこに目を向けずに済む「言い訳」や「解釈」を探すことにきっと夢中なのだ。』

激しく頷きながら読ませて頂きました。

投稿: heteheete | 2004/09/16 09:26

heteさん こんばんは
来ていただいて有り難うございます。
この文章読みにくかったでしょうね。
(いつものことですが)
書けば書くほどイメージからから遠ざかって安っぽくなってしまいます。
でも、一度は書きたかったことなので思い切って「送信」のボタンを押してしまいました。
書き続けていけばいつか同じ題材をもう少しまともに表現できると思いますのでそのときはまた見に来てください。

投稿: FAIRNESS | 2004/09/17 00:51

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受信: 2004/09/16 09:14

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