戦争へ導く主役
私は今、過去に起きた馬鹿げた戦争がいかに起こるのかを直に体験している気分だ。
義務教育の歴史の教科書は私の時代も、第一次大戦、第二次大戦についての記述は単純だった。
このような壮大な殺戮はどのような「間違い」で起こったのかシンプルに結論ずける。
ドイツならヒトラーの思想が狂気であり、日本なら軍部が無謀だった、つまりそこが間違っていたのだからそうならないようにすればいいのだと。
戦争中に行なわれた虐殺は非人道的な大きな過ちだった。
だから人道の重要性を学べばそのような間違えは起こさないと。
今も義務教育では同じなのだろうか?
最近の世界情勢や我々日本人の風潮の変化をじっと見ていると「これが大きな戦争への過程なのか」と実感する。
「必然」が今のところ私にもっともしっくり来る言葉だ。
戦争に特別な主人公などいない。
恐らく「ブッシュ大統領」も「オサマビンラディン」も「シャロン首相」も「プーチン大統領」も「フセイン元大統領」も「ネオコン」も脇役に過ぎない。
いずれもきっかけを創る代弁者に過ぎない。
主役は別にいるのではないだろうか。
今回のロシアの事件を頭においてちょっと私自身に問いかけてみる。
自分の国が繁栄して欲しいと思う気持は間違いだなどと思っているだろうか?
国というシステムが領土を保全しようとする事はあってはならない事だと思っているだろうか?
国民の平穏な暮らしを維持する為に安定を保とうとする事を悪い事だと思っているだろうか?
自分の住む町や文化を維持したいという気持は持ってはいけない事だと思っているだろうか?
家族や大事な人を守る為に戦うことを悪い事だと思っているだろうか?
やられっぱなしで何もしなければさらにつけ込まれると思うのは不思議な事だろうか?
攻めてくるかもしれないと思った相手に対し備える事が悪い事だと思うだろうか?
最愛の者を奪われた人々が恨みを持つ事はあってはならない事だと思っているだろうか?
人が自らのアイデンティティーに誇りを持つことはいけない事だと思っているだろうか?
「正当防衛」という考えを間違えだと思っているだろうか?
動かしがたい理不尽に対して絶望する事はそんなに不自然な事だろうか?
絶望と恨みが人間性を失わせる事は仕方ない部分があるとは思っていないだろうか?
困っている人の為に自分は犠牲になろうとも何か役に立ちたいと思うことを間違ったことだと思っているだろうか?
まだまだあるがキリがないのでここでやめる。
特に戦争を想定しなければ、上に書いたような事をそれほどおかしな事だと思って生活などしていない。
他の人は知らないが、少なくとも私はそうだ。
しかし、これらは全て今回起きたロシアの事件へ至るまでの双方の立場の人々行動の動機となりえたであろう物ばかりだ。
彼らは,何らかのきっかけで「おかしいとは思われないこと」を「必然」にしたがって繰り返して来たに過ぎない。
翻って私自身に関して言えば,「争いの連鎖」の「種」を普段の価値判断の中に常に抱えているという事になる。
もちろん物事には度合いというものがある。
繁栄を願っても他を犠牲にしてまで望むべきではない。
といった「制約」はある程度想定している。
そこに作用して判断を狂わせるのが「集団心理」や「社会風潮」そして「人の弱さ」なのだろう。
今回のロシアの事件も9・11やイラク戦争でのテロの効果や前例(テロ風潮)がなければ、その「制約」は作用したかもしれない。
イラク開戦前にムバラク大統領が「100人のビンラディンを生む」といった言葉や「パンドラの箱を開けることになる」といわれていた事が頭を掠める。
まさにビンラディン以上に風潮を変えるきっかけを作ってしまった。
普段、おかしくはない思っていることを「声の大きい人」がこれら制約(度合い)を超えて「原則的」に「断定的」に使い始めたら細心の注意を払わなくてはいけない。
戦争は何も「異常」で起こるのではなく、様々な「必然」の積み重ねで後戻りできなくなって起こりうるという一面を肝に銘じたほうが良い。
「間違い」と判るのは後世の事、今を生きる我々には決まった判別法は用意されていない。
「必然」が本当に「必然」なのか,その先に何が待つのか、時には無謀に思えてもそれに反抗しなければならないのではないか。
現実的であるということは「必然」に沿う事ではなく、不幸に繋がるもっともらしい「必然」には抵抗する「今できる小さな一歩」を踏み出すことではないだろうか?
流れや風潮を考える時、重要なのは(ベクトルで言うなら)大きさではなく方向だと思う。
いずれにしても、それができなければ自らが、そして大切な人が不幸になるのを待つことになるだけの話であろう。
私は戦争へ導く主役は我々自身の中にいるような気がする。
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コメント
FAIRNESSさん、はじめまして。
次の一文が、非常に強く心に残りました。
>戦争は何も「異常」で起こるのではなく、様々な「必然」の積み重ねで後戻りできなくなって起こりうるという一面を肝に銘じたほうが良い。
このご指摘は、僕がこれまで見聞してきた評論の中で、最も適切かつ痛烈な戦後の「平和教育」に対する批判だと思います。
戦争を「異常」や「悪」としてとらえる発想そのものの中に、戦争に対する思考停止があるのでしょう。
>現実的であるということは「必然」に沿う事ではなく、不幸に繋がるもっともらしい「必然」には抵抗する「今できる小さな一歩」を踏み出すことではないだろうか?
これは、いわゆる「現実主義者」に対するご批判でしょうか。
しかし、一体なにが不幸に繋がるもっともらしい「必然」なのか。それを判断するのは、なかな難しそうですね。
古山高麗雄という戦争文学作家について書評を書いたので、トラックバックさせていただきました。
これkららもFAIRNESSさんの記事を楽しみにしています。
よろしくお願いいたします。
投稿: priestk | 2004/09/26 14:14
priestkさん こんにちは
コメントありがとうございます。
戦争を考えるときに、それに引き寄せられる力の大きさを感じずにはいられないので、このエントリーのような表現になりました。
実はpriestkさんにはがっかりされるかもしれませんが、私は戦争そのものはやはり「悪」であり「異常」だと思っています。
ただ、その戦争に巻き込まれないためには、それだけで戦争をかたずけるわけにはいかないと思っています。
戦争への過程には必ずしも「悪」や「異常」といった警告のようなものがあると錯覚してしまってはいけない、現実を前にして「必然」に思えるもの(それはもしかしたら善意や、思いやり、信念、誇りかもしれない)の中にこそ、それに繋がるものがあると感じているのです。
priestkさんのいわれる通り、判断は難しいでしょうね。
でも、様々なヒントやサンプルは世界中にも歴史にも転がっているような気がします。
それを冷静にピックアップする事ができるかどうかなのでしょうね。
本当は見つけるのはそれほど難しい事ではないのだと思います。
それを認める事で色々な意味で失う物があるだけに、それを受け入れる勇気を持つ事が難しいのだと思います。
また、意見を聞かせてください。
投稿: FAIRNESS | 2004/09/26 22:14
FAIRNESSさん
すいません、かなり時間があいてしまいました。
僕は、たしかに戦争を「悪」や「異常」と捉えてはいけない、と申し上げました。ですが、FAIRNESSさんのご意見を伺って、僕の戦争観とほとんど相違はないと理解しました。
僕はなにも、クラウゼヴィッツのように「戦争は別の手段を用いた政治の継続である」と考えているわけではないのです。戦争(暴力の発動)は、いわば生命体としての人類社会に発生する、「病気」であると思います。
病気の原因は様々です。日ごろの不摂生、外出先での感染、遺伝など…。これらの原因を見定め、病気にかからないように予防すること。それが政治の役割ではないでしょうか。
僕個人のイメージなのですが、「悪」や「異常」という表現は、「自分とは根本的に相容れない」「理解不能」という感想に結びつきがちです。このような戦争理解の下では、「必然と思えること」を疑う認識力は育たないのではないかと思われます。戦争を悪と断罪することで、「必然と思えること」と対峙するジレンマを無意識のうちに回避しているのが、戦後の平和教育だとはいえないでしょうか。
>それを認める事で色々な意味で失う物があるだけに、それを受け入れる勇気を持つ事が難しいのだと思います。
おっしゃるとおりです。本当の「平和教育」は、FAIRNESSさんのおっしゃる「勇気」を与えるものでなければいけないはずです。
長文失礼いたしました。
投稿: priestk | 2004/10/07 02:31
priestkさん こんにちは
「戦争」とか「平和主義」「愛国心」等もそうですが、いつのまにかその言葉にイメージが染み付いて色々な意味を持たせてしまうのでしょうね。
ある事象を示すのに、思考の簡便さのためにある言葉をその代名詞として使う事によって本来の事象を見失ってしまうというような...あまりうまくいえませんが。
実は次の次の「学問」というエントリーで書いたのですが、これも教育の「技術的な手法」の弊害なのかも知れないな等と考えていました。(考えながら書いています)
つまり、根本を考える習慣があればそれをどんな言葉で表してもいいのだけども、効率的な教育の習慣で、そこから先を切り捨ててしまう事で言葉が一人歩きして固定的な一般イメージ化され、世間に影響を与えてしまうのかもしれないと。
すいません、かなり横道にすっ飛んでしまいました。
prestkさん のコメントを読めば、同じ事象について同じ事を言っていることが良くわかります。
病気の例えなどは非常に判り易いと思いました。
特に最後の部分は私の代わりに判り易くストレートに代弁していただいたような心地です。
prestkさんのような踏み込んだコメントをいただけると、何かを気づかせてくれて、やはりblogは面白いなと改めて実感します。
ありがとうございます。
また、色々な意見を聞かせてください。
投稿: FAIRNESS | 2004/10/07 12:20