姪の一言
夏休みに遊びに来た小学生の姪がたまたまテレビでニュースを見ていたので「お前、興味があるの?」と聞いたら「どうせ政治家なんか皆悪い事しかしないんだから」というので驚いた。
体を動かす方が得意な(つまり勉強など好きではない)姪の口から出てきたから尚更だった。
それを聞いて、ついいたずら心が働き
「一生懸命やっている政治家も居るんじゃないのかなぁ?」
と振ってみた。
姪は
「ふーんそうなんだ。」
それで私は
「うん、悪い事をする人も居るかもしれないけど一生懸命勉強して日本を良くしたいって人もいるよ。」
と言うと姪は
「へー」
と言いながらもすでに別の事に姪の興味は移っていた。
たったこれだけの会話だったのだが、後になってもどこか引っかかってまだ覚えている。
考察の結論ではなく「政治家」ときたら「悪い」という条件反射のようなやり取りだったので、そこがどうも引っかかったのだと思う。
小学生ぐらいでは子どもは目や耳に入るものをそのまま受け取って覚えていくのだろうから不思議だなどと思ったわけではないのだが、その覚えた内容が面食らう。
いつ、どんな風にして姪は「政治家」=「皆悪い事をしている」というルーチンが頭の中に作り上げられたのか?
学校での会話に出てくるのか。
政治家のニュースを繰り返し見てそう思ったのか。
バラエティーなどのネタで覚えたのか。
両親がいつも言っているのか?(そんな話をする親ではないと思うのだが)
このような条件反射を見ていると、「学校の先生」とか「警察官」なども同じなんだろうなと思ってしまう。
小さいうちから「どうせ政治家なんて」とか「どうせ警察官なんて」と言ったルーチンが頭の中に刷り込まれているのかも知れない。
今の小学生は私の頃よりも「賢い」ので本気かどうかは別にして、時々このようフレーズを口にする。(姪が口にするとは思わなかったが)
私達大人の会話ではこんな事はいつも飛び交っている。
マスコミでも、特に「先生」と言われてきた人たちが何か間違いを犯せばニュースだけでは終らず、トコトンこき下ろし、話のネタにして一切の容赦はない。
番組でも「まじめな物」は、それを落とす事で笑いを取るのに実に都合がいい。
「笑い」は「まじめ」より陽気であり(本当は陰湿な部分も多分にあるのだが)、人気があるから、子供同士では「学校の先生」や「警察」を擁護する「まじめ」よりも笑ったり、馬鹿にしたりする方に傾いていっても不自然ではない。
それが理由かどうかはわからないが「先生」と言われる人は尊敬される象徴的な存在であった訳だが、軒並みこれらが力を失って来ているようだ。
私が子供(小学校)の頃の「先生」が特別立派だったかと言えば、勉強は嫌いではなかったが宿題をしない私は良くビンタをされたのだからそのときの担任は今で言う「暴力教師」だ、いつも二日酔いで髪の毛がぼさぼさで不精なくせに掃除にうるさい担任もいたし、露骨に女子が好きな学年主任もいたわけだから品行方正な方々ばかりだったとも言えない。
今のマスコミが当時あったら皆不良教師に違いない。(笑)
でも、どの先生もおおむね好きだった。(中学以上になればそうも行かないが)
もちろんビンタをされたことで、「それだけ私の事を思ってくれたのだろう」などと感じて好きになった覚えもないので、愛の鞭が良かった訳ではないだろう。
恐らく、ただ単に理由もなく「信頼」していたのだと思う。
教師を悪く見る環境が私の周りにはなかっただけなのだろう。
「信頼」をあたまの回路に刷り込まれていたのだとも言えるのかもしれない。
つまりはそういう風潮だったのだ。
そのおかげで、ある程度の許容度を持って受け止める事ができ、先生に対する不信感も持たず、学校が嫌いになる事もなかったのだから私は幸せだったのだろう。
ただ鈍かっただけなのか?
その可能性もある。
でも、「信頼」とか「不信」とか言う物は、必ずしも「実態」によってのみ生じるわけでもないようだ。
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