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2004/09/29

姪の一言

夏休みに遊びに来た小学生の姪がたまたまテレビでニュースを見ていたので「お前、興味があるの?」と聞いたら「どうせ政治家なんか皆悪い事しかしないんだから」というので驚いた。
体を動かす方が得意な(つまり勉強など好きではない)姪の口から出てきたから尚更だった。
それを聞いて、ついいたずら心が働き
「一生懸命やっている政治家も居るんじゃないのかなぁ?」
と振ってみた。
姪は
「ふーんそうなんだ。」
それで私は
「うん、悪い事をする人も居るかもしれないけど一生懸命勉強して日本を良くしたいって人もいるよ。」
と言うと姪は
「へー」
と言いながらもすでに別の事に姪の興味は移っていた。

たったこれだけの会話だったのだが、後になってもどこか引っかかってまだ覚えている。
考察の結論ではなく「政治家」ときたら「悪い」という条件反射のようなやり取りだったので、そこがどうも引っかかったのだと思う。
小学生ぐらいでは子どもは目や耳に入るものをそのまま受け取って覚えていくのだろうから不思議だなどと思ったわけではないのだが、その覚えた内容が面食らう。
いつ、どんな風にして姪は「政治家」=「皆悪い事をしている」というルーチンが頭の中に作り上げられたのか?
学校での会話に出てくるのか。
政治家のニュースを繰り返し見てそう思ったのか。
バラエティーなどのネタで覚えたのか。
両親がいつも言っているのか?(そんな話をする親ではないと思うのだが)

このような条件反射を見ていると、「学校の先生」とか「警察官」なども同じなんだろうなと思ってしまう。
小さいうちから「どうせ政治家なんて」とか「どうせ警察官なんて」と言ったルーチンが頭の中に刷り込まれているのかも知れない。
今の小学生は私の頃よりも「賢い」ので本気かどうかは別にして、時々このようフレーズを口にする。(姪が口にするとは思わなかったが)

私達大人の会話ではこんな事はいつも飛び交っている。
マスコミでも、特に「先生」と言われてきた人たちが何か間違いを犯せばニュースだけでは終らず、トコトンこき下ろし、話のネタにして一切の容赦はない。
番組でも「まじめな物」は、それを落とす事で笑いを取るのに実に都合がいい。
「笑い」は「まじめ」より陽気であり(本当は陰湿な部分も多分にあるのだが)、人気があるから、子供同士では「学校の先生」や「警察」を擁護する「まじめ」よりも笑ったり、馬鹿にしたりする方に傾いていっても不自然ではない。

それが理由かどうかはわからないが「先生」と言われる人は尊敬される象徴的な存在であった訳だが、軒並みこれらが力を失って来ているようだ。
私が子供(小学校)の頃の「先生」が特別立派だったかと言えば、勉強は嫌いではなかったが宿題をしない私は良くビンタをされたのだからそのときの担任は今で言う「暴力教師」だ、いつも二日酔いで髪の毛がぼさぼさで不精なくせに掃除にうるさい担任もいたし、露骨に女子が好きな学年主任もいたわけだから品行方正な方々ばかりだったとも言えない。
今のマスコミが当時あったら皆不良教師に違いない。(笑)
でも、どの先生もおおむね好きだった。(中学以上になればそうも行かないが)
もちろんビンタをされたことで、「それだけ私の事を思ってくれたのだろう」などと感じて好きになった覚えもないので、愛の鞭が良かった訳ではないだろう。
恐らく、ただ単に理由もなく「信頼」していたのだと思う。
教師を悪く見る環境が私の周りにはなかっただけなのだろう。
「信頼」をあたまの回路に刷り込まれていたのだとも言えるのかもしれない。
つまりはそういう風潮だったのだ。
そのおかげで、ある程度の許容度を持って受け止める事ができ、先生に対する不信感も持たず、学校が嫌いになる事もなかったのだから私は幸せだったのだろう。
ただ鈍かっただけなのか?
その可能性もある。
でも、「信頼」とか「不信」とか言う物は、必ずしも「実態」によってのみ生じるわけでもないようだ。

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2004/09/23

常任理事国

国連総会では小泉首相が常任理事国入りを訴えている。
国際的発言力を持つとはどういうことなのか?
国際化とはどういうことなのか?
国際貢献とは?

最近の潮流を見ると力で紛争を抑える事ができなければ何もできないかのようだ。
国連を分断し、国際社会の共通理念作りの妨げになっているのは力を持つ大国(現常任理事国)のエゴに他ならない。
新しい枠組み作りのための争い、軍事産業の市場獲得合戦、既得権の奪い合い、自国の利益優先の環境破壊、非核保有国への不公平で一方的な核拡散防止。
常任理事国が軍事力を背景に秩序をもたらす役割を果たすどころか、この軍事力を誇示し、エゴを押し付け合い、拒否権をちらつかせ国連を無力化し、その他の国の反発を買い秩序を乱しているだけである。
このような中での国連改革であり、その国連改革の一環として持ち上がっているのが常任理事国の拡大のはずだ。
ドイツの歩みはEUをフランスとともに纏め上げてきた実績、東西ドイツを様々な困難に遭いながらも形にしてきた実績、さらに経済的な発展の実績等この拡大に大きく貢献できる可能性を感じさせる。
日本も効率的だったかどうかは別にして後進国の発展を後押ししてきた実績、世界各国と友好関係を持つことに努力し、大国となりながらも核には手を出さず平和を貫いてきた実績は各国に可能性を感じさせたはずである。
以前の日本は、今の国連のあり方を変える可能性を秘めていたと思うのだが、湾岸戦争以降の日本はエゴイスト集団の仲間入りをして利を得るという考えに支配されつつあるようだ。

これでは何のための日本の常任理事国入りかわからない。
軍事力を誇示したい常任理事国は他にいくらでもあるのだからそれはもう充分であろう。
常任理事国入りしようとも国連自体が常任理事国のエゴによりさらに分裂してしまえば「常任理事国」などという「名」は何の意味も持たなくなる。
肩書きだけもらって喜ぶ姿は想像しただけで哀れである。
日本が日本の実績をいかに国連の場で生かして信頼を得るかが発言力を持つという事なのではないか?

国際貢献を意識したきっかけは湾岸戦争での「日本への非難」が一番大きいのだと思う。
その時ショックだったのが「日本は金を出しても血を流さない」という言葉なのだろう。
PKO法案、イラクへの自衛隊派遣いずれもその影響が無いとはとても思えない。
しかし、本質的な「日本は金をだしても・・・・」の体質をこれらで変えることができたか?
形の上で軍隊を出そうとも、何も変わりはしない。

イラク戦争に自衛隊を派遣したのは経済的な米国依存がその理由の一つ。
我が身を守る為の安全保障上の理由が二つ目である。

我々国民は自衛隊に全てを押し付け、同朋がボランティアで危険を冒したことを国益に傷をつけた偽善者だと中傷し、国内の経済活動の虜であることを理由に、それを守る事に必死で道義的なことなどは理想論という言葉で一蹴する。
「日本は金を出しても血を流さない」姿勢に何ら変わりはない。
それは、利己的な行為のすぐにそれとわかる「理由付け」に過ぎず、むしろそれが、その姿勢に拍車を掛けている我々日本人の姿を浮き彫りにしているように思える。


国連は紛れもなく第二次大戦の戦勝国のコミュニティーである。
戦後の国際社会そのものも同じだ。
第二次大戦は枢軸国が「悪」と結論は定まっている社会なのだ。
中韓朝にかぎらず、その「悪」を「善」に名誉挽回しようとする行為がその国際社会に受け入れられるとでも思っているのだろうか?
「悪にされるのは理不尽である」とかそういう問題ではないのだ。
もちろん、戦争だから夫々に戦争に至る「必然」も「背景」もなかったわけがないが、それが「理不尽な戦争」に突入してしまった日本が受け入れなければならない「理不尽な結果」なのだ。
戦争によりもっと理不尽な結果を負わされた国はいくらでもある。
もし、それでも(戦争に関して)名誉挽回を図りたいなら、戦後の経済発展を否定し、民主主義と自由を否定し、常任理事国など夢見ずに、国際社会から一歩はなれたところを歩くことになろう。
戦勝国の社会の価値観で手に入れた金満にしがみつきながら、「戦争の理不尽」も受け入れる事ができず、それに対して重箱の隅をつつくように弁解を繰り返し、勇ましく振舞おうとする姿はあまりに滑稽である。

「戦争の理不尽さ」に対する感情は、それを知る我々が戦争の必然に追い込まれる国の身になって考える事がができるという事においてのみ生かされるのだと思う。
特定の相手にではなく「戦争の持つ理不尽」そのものに向ける事に意味があるのではないのか?
小国が陥りやすい戦争への道から抜け出す手助けをする為にそれを生かし、追い込まれる者の「必然」を大国に理解させ、その「必然を取り除く」ことで最悪の結果に陥らないようにしむける役割があるのではないだろうか?
これは今の常任理事国には難しい事だ。
そんな国際貢献が日本には科せられているような気がしてならない。

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2004/09/17

恐怖心の囚われ人

先日、アメリカでは銃規制が延長されることなく失効した。
今回規制が失効した襲撃銃のカテゴリーに入っていたウージ(イスラエル製?)をアメリカの射撃場で撃たせてらった事がある。
私は銃の知識は殆どなかったのではっきり言ってシンプルな軽機関銃にしか見えなかった。
室内の射撃場だったので連続発射は許してくれなかったが・・・
あんな銃が規制されなくなるのかと思うとぞっとする。

同じ射撃場では他に38口径 45口径 44マグナムも一緒に撃たせて貰った。
私は素人なので45口径の方が44マグナムよりも口径が大きいのに44マグナムの方が衝撃が大きいのはなぜかと不思議だったのだが、口径はさほど違わなくても弾の長さも重さも全く違っていた。(他にも違いがあるのだろうが)

その程度の知識しかない私が初めて銃を手にしたときのなんともいえない不気味さは忘れる事ができない。
今、手にしている銃を人に向け引き金を引くだけで人一人の生命を奪ってしまうのだと考えただけで、自分の手が勝手にそのような事をしてしまうような気がして、銃そのものよりも自分の気持の不確かさに恐怖心を持ってしまったのだ。

それとは別にもう1つ印象に残ったのはその射撃場にいた人たちがあまりにも普通の人たちだったことだ。
ちょうど買い物帰りのようなおばさんが22口径の銃を真剣な顔をして撃ちつづけている。
そのとなりではそこいら辺の町を普通に歩いているようなジーンズをはいた若い女性が完璧な射撃スタイルで(本当に完璧かどうかはわからないが)38口径を撃っている。
そのとなりにはネクタイをしたビジネスマンが、そのとなりには日曜大工をしていてもおかしくないおじさんが...
といった感じで特別な雰囲気を持つ人ではなく全く普通の人なのだ。
話には聞いていたが銃が身近にあるということはこういう事なんだなとそのとき初めて認識した。

実際,その時泊まっていた安宿に住んでいた(そこに住み着いていた)住人が銃を自分の部屋に持っていてそれを見せてくれたが、普段から暗い人だったのでなおさら不気味だったのを覚えている。
当時のLAは今より治安が悪く、大体安宿というのは治安の悪いところにあり、入り口は格子扉になっており、夜は警察のヘリコプターがサーチライトを付けて飛び回り、パトカーがサイレンを鳴らして走り回るようなところだった。
そのような場所で銃が身近にあるというのは、日本人の私には到底理解不能だったのだが、そこではそれが現実なのであり、それを前提とした話のみが現実的なのだ。

アメリカの歴史の上で銃は欠かせなかった。
その歴史の中で銃が市民権を得て、絶対的な資本主義の中では当然それを作る企業も力を持つ。
銃がない社会のほうが住み易いと思う人が多くとも、政治に影響力を及ぼすのは力をもった企業であり、現実を無視できず恐怖心から身を守る必然を植え付けられた一般市民である。
そう簡単には銃のない安全な社会の実現を許してはくれない。
銃に市民権を与えた事実が銃は欠かせないという「現実」を築き挙げてしまっている。

日本ではまだ銃は規制されている。
しかし、どうだろう、アメリカを無条件に世界とみなす日本だけあって最近はもっぱら「凶悪な強盗が押し入ったら戦わないのか」「自分の身を自分で守らなくてはいけない」といった論議が盛んになっている。
その議論は防衛問題に限らず、国内の治安に関してもその傾向があるのではないか?
その上マスコミでもセンセーショナルに「凶悪犯罪増加」を書きたて盛んに不安を煽っている。

上記のような発想は銃やそれに準ずる武器の「必然性」を生み出す事に他ならない。
しかし、その「必然性」によりそれらに「市民権」を与える事で期待した「現実」をもたらす事はないだろう。
そこに生まれる「現実」とは「武器を持つ権利を有する犯罪者から、武器を持つ権利を有する自分を守る社会」であり、その社会ではどう間違ってもそれ以前の社会に比べ犠牲者は増加する。
さらに、それが「現実」となってしまえば「現実」に従順な日本のような社会では、たとえそれが間違いと気づこうとも既に出来上がった構造を元に戻す力などない。
恐らくそこに至ってもまだ「現実的には...」などと言いつづけ「不安」をごまかす為に「虚勢」を貼りつづける事になるのだろう。
この「見通し」に対して「根拠」を与えてくれるのが今回の銃規制失効から見える「アメリカの現状」だと言ったら、どこか不都合があるだろうか?

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2004/09/15

先人の知恵

小さい共同体、例えば3人程度の仲間で1人が自分の利益の為に他の2人にとって嫌がる事をすれば、その場でその反応は現れるだろうし、もしかすると嫌な事を返されるかもしれない。
少なくとも3人は快適に過ごしにくくなる事がすぐわかる。
恐らく人の嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事を自然に自覚するだろう。
もちろんこの共同体から逃げる事ができない状況を想定しての事だが。

中ぐらいの共同体、例えば100人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても、その相手以外の人達の陰に隠れる事は可能になるかも知れない。
この1人は利益を得ながらも嫌な思いをしなかったわけだからその行為をやめる必要はないと思うだろう。
もしかすると利益を得た自分に優越感すら感じるかもしれない。
そんな彼を見て俺もやってみようと思う者も出てくると考えるのが自然だろう。
恐らく皆,自分だけが損はしたくないから彼を見習う事になるかもしれない。
しかし、100人程度の共同体ならば自分のした不快な事が自らに戻ってくるのも時間の問題だろう。
やがて,始めの1人もそれを見習った他の者も、この状態を快適だとは思わなくなるに違いない。
こうなれば、小さな共同体同様、「嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事」を自然に自覚するかもしれないし、そうでない場合には皆でそのような者にあえて制裁を与えるような知恵を働かせるかもしれない。

大きな共同体、例えば数万人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても,10万人の影に隠れる事は至極容易になることだろう。
そんな彼を見て真似しない者が出ないと思うほうが不自然。
数万人もいれば自分の利益の為に人の嫌がる事をする者は最初から複数かもしれない。
いずれにしても彼らの近くにいる者には彼らのまねをする者が現れるに違いない。
しかし、これだけ大きな共同体になるとまねをする者が行き渡るまでには時間が掛かる事だろう。
自分にそれが戻るまでは「嫌がる事をすれば自らが快適に過ごす事ができない」と自覚する事などない、その間は「人より得」でありつづける。
さらに、利益の為にする行為の種類にも「新種」が現れるに違いない。
自分のした行為と違う事(新種の行為)をされ、実はそれによって不利益を被っているのだが,それが自分のした行為と同質の単なる「新種」である事など知る由もない。
自らが起源となっている不利益を受けながらも、それとは知らず自らは利益になると思っている行為を「得」だと思い込みながらその行為を続ける事だろう。
いずれこの共同体の人々は皆「快適ではない」事に気づく。
しかし殆どの人は何が快適ではない原因なのかわからないまま、自らが「得」だと思っていることをやめることはできない。
辞めることは「損」以外の何物でもないから。
きっと不快さが絶え難いほどの極に達するまで・・・。


共同体が大きくなればなるほど「原因」と「結果」を結びつける事は難しくなるだろう。
本質は同じでも「原因」の姿も、「結果」の姿も多種多様になり絡み合ってそれがわかりにくくなる。
しかし、規模が小さかろうと大きかろうと本質は変わらない。
感知ができなくなり想像ができなくなり錯覚してしまうだけだろう。
恐らく、こんな事は宗教や哲学を持ち出すまでもなく、人が共同生活を始めた頃にはみな知っていたに違いない。

先人はこの結末も何千年も前から知っていたのだろう。
言葉や生活習慣などにも残して充分警告している。
「してはいけないこと」を「現実にそった賢い選択」と思い込み、してしまう事をずっと以前に見透かしていて、それを「浅はかな事である」と伝えようとしている。

見透かしているが為に「疑うことなく信じる事」でこれを伝えようとした試みもなされたが、こちらは伝える中身ではなく「伝える形式を疑いなく信じる」事に変質し、同じ「伝える中身」を持つ違う「形式」を排除し、先人が本当に伝えたかった「中身」に反する事を互いに繰り返すことになってしまっているようだ・・・
また,その「伝えたい中身」ではなく「伝える形式」が「科学」と対立し矛盾を生んでしまったようでもある。

おそらく我々自身も「してはいけないこと」を先人から受け継ぎ、知っている。
「してはいけないこと」に従って「しない」ことで、たった今、「損」をするのが恐いのだ。
ついでに言うならば多くの人は「結果」も知っている。
知っていながら「得」をして今をやり過ごす為にそこに目を向けずに済む「言い訳」や「解釈」を探すことにきっと夢中なのだ。


heteさんの「情けは人の為ならず 巡り巡りて己が身の為」を読んで
瀬戸さんの「哀しみが憎しみに変わることを知っている」の
「ならば、
やってはいけないのです!!!」
という言葉を見て、お二人のエントリーとは直接関係はないのですが私がそこから連想した事を書かせていただきました。

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2004/09/14

つぶやき

今日は取りとめもない話なので久しぶりに「つぶやき」

私は海外旅行が好きだ。
自然が好きなのであまり都会には長くとどまらない。
といっても色々な事情があって、ここ4年ほど外には出ていない。
うずうずしているが、しばらく行けそうにない。

旅行するときは個人で大まかなコースを決めユースホステルやBBを使って旅行していた。
最初の頃はバイクで回り,それ以降はレンタカーや、バス、鉄道等。
こんな無計画で旅行をするとやはり思いがけないトラブルにもでくわす。
もう秋だというのに、バイクでアメリカを横断したときは見渡す限り何もない一本道で突然の大雪に道を閉ざされ立ち往生して工事のトラックの運転手に拾われたり、駐車場に置いたバイクが壊されたり、ものをぬすまれたり、目の前でホールドアップの逮捕劇があったり(これは都会)、熊にぶつかりそうになったり。
幸いな事に命に関わる事には出会わずに済んだ。
しかし、偶然に出くわす状況を楽しんだり,見る風景に見とれ、時間を忘れる事があったりするから止められない。

そんな旅行をすると同じように旅行をする人たちと出会い、いっしょに行動したり,車をシェアしたりなかなか楽しい事がある。
耳の不自由な若者と筆談で会話(?)をしながら食事をしたり、そこで知り合ったアメリカの学校の先生といっしょにトレールを歩きながら道に転がっている糞の話で盛り上がったり、日本人が嫌いだという海の大好きな女の子と鯨の話を夜通ししたり、その人の国の事情を知らずたしなめられたり,アメリカ人のいないところでアメリカ人の悪口で盛り上がったり、スキューバーダイビングのスクールで会ったイスラエルの女性と経営者ににいっしょに食って掛かったり、オーストラリアのご夫婦と3日連続で同じYHにとまることになり雪が降る中暖炉の前で夜遅くまで語り明かしたり、スカイダイビングで知り合った韓国の女の子と再会してNZのダニーデンの観光を一日いっしょにしたり・・・
若いときも中年といわれる歳になっても、意外に隔てなく接してくれる。
夫々お国柄は当然あるのだけれど、やはり人同士なんだと実感できるのだ。

もちろんカナダに住んでいたころも仕入れや、スタッフ管理をしていたのでアルバイトに来るカナダ人やイギリス人や中国人や日本人、ドイツ人等がいてなかなかインターナショナルな中、いろんな場面でお国柄の違いは出て面白かったし、困ったりもした。
でも基本的な部分では同じ人間、いっしょに喜び,いっしょに悲しみ,いっしょに悩み,喧嘩もした。
ハイソサイエティーの人種(ご子息はいたが)とはあまり縁がなかったが・・・

これらの経験は、私の価値観の中にも、ニュースを見るときのイメージにも大きく影響を与えている。
権力とは関係ない普通のアメリカ人のどういう部分がブッシュ大統領を支持するのか、どういう部分が反対すのか、なぜ国際世論を気にせずにいられるのか、アメリカをカナダやヨーロッパの人がどう見ているのか、アメリカはなぜ嫌われるのか、日本でのバッシングがどう映るのか、なぜアメリカ人は自分の事を棚に上げるのか,日本の民主主義や自由と欧米のそれと何が違うのかといった事を考えるときは記憶の中の「場面」がイメージされ、その会話が思い出され、相手の表情が浮かんでくる。
そして、国際問題が論じられるときに感じる違和感にはなかなか無頓着ではいられない。
実際これらをエントリーに書くとなると専門的に勉強した人のように的確な言葉を使い、論理的に説明できないので、感覚的な回りくどい表現が多くなってしまうのが辛いといえば辛い。
恐らく見る人が見れば突込みどころ満載なのだろうがこればかりは勉強するしかない。


私が会った色々な国の人が不安な世界の中で今も彼らの自国の政府の元で生きているはずだ。
そのいろいろな国は色々な立場で今の世界に対している。
どの国に所属していても、戦争は嫌いだし、人が死ねば悲しむし、幸せを望んでいる。
その事を思うとなかなか世界の出来事を国益という無機質な言葉で簡単にかたずける事ができない。
彼らは今の世界をどのように感じながら生きているのだろう。
最近良くそんな事を考える。

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2004/09/11

プロ野球の「現実」と「希望の連鎖」

私は子供の頃からスポーツでは野球が一番好きだった。
例に漏れず、巨人ファン。
しかし、最近では殆ど巨人戦を見ることはない。
巨人と日本シリーズで対戦する西武の清原が好きだった。
巨人に痛い目にあわせる憎き広島の江藤が好きだった。
敵にいい選手がいるから楽しいのだが皆巨人に来てしまってはつまらない。
清水、ニ岡、西、ヨシノブ、阿部などが活躍するのは今でも内心嬉しいのだが・・・
今は、北海道のファン獲得に一生懸命な日ハムの方が面白い。(中継があるとつい見てしまう)
FAが双方向的だったらこんなにもつまらない物にはならなかっただろうがチーム間格差が選手に選択肢を与えない。

読売がJリーグでベルディーの件で強引さを見せ川渕チェアマンにあしらわれた後、今度は得意の野球で強引に読売というロゴをユニフォームに入れてからはそのユニフォームを見るのも嫌になった。
企業エゴ丸出し。
勝つ為にはなんでもする。
野球界は巨人で持っているのだから何でもできる、それが野球界の現実だ。
などと公然と見せ付けられてはさすがにしらけてしまう。

現実ならいやというほど日頃目にしているのでスポーツエンタテーメントにまでそんな物を見て気を重くしなければいけない義務はない。

以前の野球ファンがどうして離れていったかは人によって色々だろうが、今のプロ野球界の体質が野球離れを加速している事は間違いないだろう。

今の野球界は目先の現実に左右され、大きな現実を見失う典型のような気がする。
目先の現実とは、力関係であり、経営状況であり、パイの配分、選手個人の生活だ。
大きな現実とは、ファン離れであり野球界そのものの衰退である。

外から見れば危機的なのだが当事者はここに至るまで目先の現実に縛られ、当然のように衰退の道を選んで来た(今もまだ抜け出したわけではない)。
彼らにとって日常に影響する「目先の現実」は無視できない、経営担当者も選手も自ら変革していこうなどと言ったら目をつけられ、仕事を失う事にもなりかねないのでそれを呼びかける事などは「非現実的」な「理想論」だったに違いない。

そんな中で合併話が持ち上がりそれに対し思いがけず(真意はともかく)「ライブドア」が球団買収を宣言した事で流れが変わってきた。
閉塞状態で変える事などできないと思われた「現実」が1つの出来事で流れを変えてしまった。
流れが少し変わると、普段思っても発言しなかった関係者もその問題点を口にし、ファンも自らの声を出し始め、それが選手に勇気を与え「生活という現実」にリスクを負って結束したことで、選手自身にも,野球関係者にも、そしてファンにもプロ野球界の再建に対する「希望の連鎖」を生み出した。
今後どうなるかはまだわからないが、少なくとも以前の「理想論」はほんのわずかな期間に「現実的」な話になってきた。

今日のニュースでストは回避されたらしく、多少拍子抜けするところはあるが、以前のように経営側の独断で全て事を運ぶ状態とはかなり変わってきた。
全く相手にされなかった新規参入にも少しは光があたり始めた。
ゆっくりではあるが,動き始めたのではないか?
私は別に「野球」を嫌いになったわけではない。
だから大リーグも見るし、高校野球も見る。
この娯楽を大人も子供も一緒になって楽しめ,人に幸福をもたらす本当のエンタテーメントに是非改革していって欲しい。
そのためにも、選手も、経営陣も意識を変え、新しい風を入れながら根気強く取り組んで欲しい。
がんばれプロ野球。

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2004/09/07

戦争へ導く主役

私は今、過去に起きた馬鹿げた戦争がいかに起こるのかを直に体験している気分だ。
義務教育の歴史の教科書は私の時代も、第一次大戦、第二次大戦についての記述は単純だった。
このような壮大な殺戮はどのような「間違い」で起こったのかシンプルに結論ずける。
ドイツならヒトラーの思想が狂気であり、日本なら軍部が無謀だった、つまりそこが間違っていたのだからそうならないようにすればいいのだと。
戦争中に行なわれた虐殺は非人道的な大きな過ちだった。
だから人道の重要性を学べばそのような間違えは起こさないと。
今も義務教育では同じなのだろうか?

最近の世界情勢や我々日本人の風潮の変化をじっと見ていると「これが大きな戦争への過程なのか」と実感する。
「必然」が今のところ私にもっともしっくり来る言葉だ。
戦争に特別な主人公などいない。
恐らく「ブッシュ大統領」も「オサマビンラディン」も「シャロン首相」も「プーチン大統領」も「フセイン元大統領」も「ネオコン」も脇役に過ぎない。
いずれもきっかけを創る代弁者に過ぎない。
主役は別にいるのではないだろうか。


今回のロシアの事件を頭においてちょっと私自身に問いかけてみる。

自分の国が繁栄して欲しいと思う気持は間違いだなどと思っているだろうか?
国というシステムが領土を保全しようとする事はあってはならない事だと思っているだろうか?
国民の平穏な暮らしを維持する為に安定を保とうとする事を悪い事だと思っているだろうか?
自分の住む町や文化を維持したいという気持は持ってはいけない事だと思っているだろうか?
家族や大事な人を守る為に戦うことを悪い事だと思っているだろうか?
やられっぱなしで何もしなければさらにつけ込まれると思うのは不思議な事だろうか?
攻めてくるかもしれないと思った相手に対し備える事が悪い事だと思うだろうか?
最愛の者を奪われた人々が恨みを持つ事はあってはならない事だと思っているだろうか?
人が自らのアイデンティティーに誇りを持つことはいけない事だと思っているだろうか?
「正当防衛」という考えを間違えだと思っているだろうか?
動かしがたい理不尽に対して絶望する事はそんなに不自然な事だろうか?
絶望と恨みが人間性を失わせる事は仕方ない部分があるとは思っていないだろうか?
困っている人の為に自分は犠牲になろうとも何か役に立ちたいと思うことを間違ったことだと思っているだろうか?
まだまだあるがキリがないのでここでやめる。

特に戦争を想定しなければ、上に書いたような事をそれほどおかしな事だと思って生活などしていない。
他の人は知らないが、少なくとも私はそうだ。
しかし、これらは全て今回起きたロシアの事件へ至るまでの双方の立場の人々行動の動機となりえたであろう物ばかりだ。
彼らは,何らかのきっかけで「おかしいとは思われないこと」を「必然」にしたがって繰り返して来たに過ぎない。
翻って私自身に関して言えば,「争いの連鎖」の「種」を普段の価値判断の中に常に抱えているという事になる。

もちろん物事には度合いというものがある。
繁栄を願っても他を犠牲にしてまで望むべきではない。
といった「制約」はある程度想定している。
そこに作用して判断を狂わせるのが「集団心理」や「社会風潮」そして「人の弱さ」なのだろう。

今回のロシアの事件も9・11やイラク戦争でのテロの効果や前例(テロ風潮)がなければ、その「制約」は作用したかもしれない。
イラク開戦前にムバラク大統領が「100人のビンラディンを生む」といった言葉や「パンドラの箱を開けることになる」といわれていた事が頭を掠める。
まさにビンラディン以上に風潮を変えるきっかけを作ってしまった。

普段、おかしくはない思っていることを「声の大きい人」がこれら制約(度合い)を超えて「原則的」に「断定的」に使い始めたら細心の注意を払わなくてはいけない。

戦争は何も「異常」で起こるのではなく、様々な「必然」の積み重ねで後戻りできなくなって起こりうるという一面を肝に銘じたほうが良い。
「間違い」と判るのは後世の事、今を生きる我々には決まった判別法は用意されていない。
「必然」が本当に「必然」なのか,その先に何が待つのか、時には無謀に思えてもそれに反抗しなければならないのではないか。

現実的であるということは「必然」に沿う事ではなく、不幸に繋がるもっともらしい「必然」には抵抗する「今できる小さな一歩」を踏み出すことではないだろうか?
流れや風潮を考える時、重要なのは(ベクトルで言うなら)大きさではなく方向だと思う。

いずれにしても、それができなければ自らが、そして大切な人が不幸になるのを待つことになるだけの話であろう。

私は戦争へ導く主役は我々自身の中にいるような気がする。


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2004/09/05

ロシアも危険

ロシア北オセチヤで起きた事件は憎むべきテロ行為だ。
何の罪もない子供を盾にし,虐待し、死に至らしめたこのような行為にいかなる正当性も与えてはならない。
このようなテロは本当に無くしていかなくてはいけないのは言うまでもない。

しかし、今のロシア、アメリカやその他の大国の力による手法ではできないだろう。
行為に正当性を与える事はできないが、人は何も理由がなくこのような卑劣な行為に走る事はないという事実から目をそらす事はできない。
イラク戦争前にも掲示板で書いてそう思っていたし,今もまだその考えは変わらない。
むしろいっそう強く思うようになった。
間違いなくアメリカは以前より危険になった。
世界も同じく危険になった。
安全になったというブッシュ政権はあまりにも白々しい。
安全になったといわざるを得ないだけであろう。

危険になったのはアメリカだけではなかった。
今回のロシアでの事件、相次ぐテロでロシアもアメリカ同様危険になった事が明らかとなった。
つながりがないわけではない。
冷戦でふたをされ大国による理不尽を受けてきた「根」を共有している。
さらに圧倒的な軍事力で制圧しようとするところも共通する。
文明が発達し世界がつながり便利になった事で持てない者が持てる者に対抗する術を与えてしまった。
武器もそうだろう。
一昔前は個人が国家に「これほどまで」の打撃を与える事はできなかったし、その動機も共感も影響も小さかったが今は違う。
普通の人の中に紛れた敵意をどう見分けるというのか?
何処に敵がいるか、相手が何者かわからぬまま相手から身を守らねばならないのだ。
よく「テロ対策の不備」と言って反省する姿勢を示すが「テロ対策の完備」など本当に在るのか甚だ疑問だ。
今後の安全保障は国を相手に想定している「軍事力」などで保てるのか?
世界に比類なき軍事国家が日々おびえ、それを偽り、彼らにとっても不合理な戦闘を繰り返しているのである。
その国民を不自由を強制せざろう得ない状況に陥れ、その国民の半数は作り話に身を任せ自らを納得させている。
戦わざるを得ない状況に自らを追い込みながら国民の財産と生命をそれにつぎ込んでいる。
さらに,肝心の国内の自由と民主主義も後退を余儀なくされるという矛盾にも直面している。

しかし、できもしない間違ったテロ撲滅と気づいていようが今さら辞められない。
ひるむ姿を見せればば付けいれられるという恐怖心と虚栄心がそれを許さない。
ブッシュ大統領も本音をチラッと吐いた。
しかし、大きな流れの中ですぐにかき消された。
軍需産業は笑いが止まらないだろう。
需要は果てしない。
一体いつまでこの不毛な戦いは続くのか。
できれば小型核が出回る前に非現実的な「夢物語」からさめて欲しい。

日本は関係ない?
太平洋戦争のエゴのツケはいまだに払い続けている。
本質はさして変わらない。
戦争の正当性をいくら見つけ出そうが、その正当性を論理的に説明しようが人は忘れてくれはしない。
謝罪しようが補償しようが許しても忘れてはくれはしない。
「いまだにそのような事を言っている」などと逆切れしようがこれっぽっちも役に立たないばかりか「思い出す」事を手助けするに等しい。
それはもはや理窟ではない。

日本は米国から受けた殺戮を忘れたではないか?
などとは思わないほうがいい。
今は良い関係が維持する努力をしているから表に出にくいだけで、一度関係が悪化すれば過去の惨劇を調べ上げ、並び立て、正当化に走り非難の材料にするだろう。
忘れているわけではない。
忘れていても誰かが思い出させてくれる。
(ブッシュ大統領がイラク戦争に際し十字軍を持ち出したのは示唆的だ。)
しかも、事実以上に膨らませるというおまけつきで。
そしてこのような状況で人はそれに飛びつく。
そのときは事実などもはや知る術もなく、「都合の良い」解釈と思い入れだけが事実にとって変わる。

新たな大国のエゴを行使する事もそれに荷担する事も辞めた方がいい。
将来にわたって払わされる代償も敵意も普通の人々が幸せに暮らす為の糧になどはならない。
人の報復心、恨みをどんなに無視しようと、合理的ではないと非難しようと、力で押さえ込もうと因果応報。
人はそれを割り切れるほど合理的ではない。
このような不確かな要素を想像し計算に入れる事が、いまのところもっとも現実的で合理的なアプローチなのかも知れない。

それにしても人と人,物と物などの物理的干渉が拡大した世界でアイデンティティーを国家、民族,宗教等の共同体単位に求めていこうとする矛盾がこれほど大きい物なのかと痛感する。

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