そこにいる「人々」
久々にBaghdadBurningの記事(英語版)が更新された。
内容はイラクの暑さから始まり、冷蔵庫の有りがたさと活用法(?)、それに関連して電気事情、身内の葬儀での葬儀事情、埋葬に際して直面した埋葬場所の不足、それが意味するもの、そして人質事件に対する彼女の視点、海外の悪意の無い人々が拉致される状況の裏側(混乱やイラク人自身に起こっている事)、暫定政権の進む方向に対する不安定要素(政権に参加できないものの反発)
そんな中で情報が検閲される事への不安を示し、アメリカの「Patriot Act」への皮肉で結んでいる。
日常の生活に起きる出来事からイラクの状況をリアルに伝えてくれる。
イラクにも様々な人々がいてその立場によっても見方は違うだろうが「出来事」の裏には「人」がそこにいて、その人々の様々な思いが「出来事」に大きな影響を及ぼしている事を教えてくれる。
大国の軍事力、経済力、政治的影響力を物理的に吟味しようとも、そこにいる「人」を無視していれば期待した結果など得る事はできないだろう。
実際イラク、ベトナム、パレスチナを筆頭に軍事介入により期待した通りにならないケースは少なくない。(軍事品を消費する意味では全て成功だが・・・)
日本政府の米国政策支持の姿勢は「経済」「安全保障」を基準に決定され、それを納得させるために「人道支援」の名称を用いていると言う事は、余程「呑気」な人でなければ既に判っているだろう。
しかし、その中に「人」の要素がどれだけ加味されているのだろうか。
「憎悪」「不安」「自暴自棄」「閉塞感」「自尊心」といった社会や世界の動きに大きく影響を与える「人」の要素をしっかり加味しているのだろうか。
我々日本人は、これほど「国内のモラル」にも「国際的な国の将来」にも影響を及ぼしかねない「人」の要素を「現実」に組み入れて議論しているのであろうか?
甚だ疑問である。
我々が「しかたがない」として選択した根拠はそこにいる「人」にとっては全く「しかたがない」では済ます事などできない問題である。
我々が「しかたがない」で済ませていられるのは、イラクが隣に無いからであり、影響を受けても時間差で間接的に形を変えて到達するするため、「直接」感じる事ができないだけでは無いか?
(そもそも、日本人ほど「しかたがない」と言って諦める人々は世界でもそれほど多くはないような気がする。
本来の日本的な伝統では物事(欲)にとらわれないという理想像があったからだと思うが、それを捨て去って物理的な繁栄を捨てきれない現状に甘んじている以上矛盾でしかなく、元来の高尚なスタンスとは別物ではないかと思う。)
これまで日本はアメリカに付いていけば、おおむね間違いの無い選択ができた。
だから、議論のスタートは常に「対米重視(追随)」から始まり、なぜそうなのかは「経済」と「安全保障」と言う単語で済んでしまっていた。
アメリカの政策を支持するのも「対米関係」を最重点に考えているからなのだが、果たして今、これまで私たちが持っていた「アメリカ像」を再考する必要は無いのであろうか?
「人」の軽視を露にしはじめ変質するアメリカが、極東、その他のアジア・中東、EU、ロシアなどとどのような関係を描いていくのか、その中で「アメリカではない日本」がそのアメリカとほぼ同じ選択をする事により、これらの関係の中でどのような位置に置かれる事になるのか。
そして、その位置の「あり方」が我々「人」としての日本人各々にとって望ましいものなのか。
「現実」ばかりに目を向け「理想」を過小評価する事により後戻りのできない窮地に置かれる可能性をもう少し考慮したほうが良い。
今日のニュースで、時事英語を英字新聞で勉強するため"suicide bomb"というメモを持っていた日本人がアメリカ当局により一時拘束されたという。
アメリカではテロ情報により様々なターゲットとなり得る場所でテロ防止のために"厳重な警戒"が行われている。
インタビューに答えたアメリカ人女性が「これは9.11以降続いている事で、もう慣れた」と語っていた。
私が尊敬した「自由」と「民主主義」を謳ったアメリカの姿はそこにない。
(失いつつあるものの筆頭は「公正さ」かもしれないと個人的には感じるが...)
「イラク戦争以前より平和になった」はずのアメリカ市民「人」の生活にはこのような影が忍び寄っている。
アメリカにとって「人」そのものを捉えてみたとき、それがアメリカ人の価値観に照らし合わせて「良い方向」に向っているのだろうか?
超大国アメリカの今後はどうなるのだろう。
そして、アメリカ一辺倒の政策を「現実論」で肯定する日本の政策は「妥当」なのだろうか?
これまでとは違い、国際社会とアメリカを混同せず、しっかり分けて議論する必要性があるのではないか?
話はそれるが、先日NHKの「道路公団}の番組を見た。 選挙民の要望という「現実」で政治家がそれを受け入れ、圧力という「現実」を官僚にかけ、その官僚が組織維持という「現実」で行った道路政策がどんな結末を迎えたのか? 既にできてしまった莫大な借金を「現実」を目の前に「根本改革」できない姿を目にしながら、まだ「現実」を「仕方が無い」などと言ってそのまま受け入れていて良いのだろうか? 当事者は皆「現実的に止めることは不可能であった」と言うだろう。 同様に「現実的」である国民も「非難」はしても、少数ではない人が「現実的には変えることはできない」と決め付けるところは投票率を見れば判る。 システムである政府やそれに付随する官庁、そして国民自身も身近な「現実」は見ていても、本来見るべき「人」を見ていないような気がしてくる。
外交も内政も、もう少し「人」を評価し、同じ妥協があったとしても「理想の方向に沿った」「現実的過程」を模索する必要がありはしないか?
「理想」を「現実」で排除しようとする憲法9条問題も、排除する前に国民自身が「どのような将来を望むのか」、今は成し得なくとも「理想に沿った現実的な過程」をとる事すら不可能な物なのか等、国民自身が熟慮した上で結論を出すほうがいいと思う。
これまでの色々な政策が「現実」の前に「なし崩し」で進められてきた事を考えると、無関心でいたら「声の大きい者(物)」「経済的影響力のある者(物)」の思惑で事は進み、その他は「何が良いか」では無く「しかたがない」で追随し決定しかねない。
果たして、そこに私や貴方といった「人」が考慮されているかどうかは判らない。
BaghdadBurningの記事で「そこにいる人」の視点の大切を思い、つい、こんな方向に思いをめぐらせてしまいました。
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