アジアカップ決勝戦は、私も日本人なのでテレビの前でハラハラしながら見ていた。
相手に倒されてもファールをとらず、相手を倒すとあっさりファールをとられイライラする。
完全にアウェイなのだから、何処でやるときも同じだということは判っていても理性と感情は別物である。
これまでのブーイングを巡る経緯があるから尚更なのかもしれない。
1-1に追いつかれた後の2点目は正直言ってもっとすっきり取って欲しかった。
3点目の玉田のゴールはその思いを少しは取り去ってくれたが,できれば勝ち越し点が玉田のゴールだったら良かったのにと思う。
いずれにしても日本選手は皆素晴らしかった。
特に決勝までの戦いの中で、私自身が諦めた場面でも彼らはけっして諦めずに勝ちを自らの手で引き寄せた姿には頭が下がる思いであったのと同時に勇気をもらった。
サッカーに詳しい人は監督の采配などに不満もあるようですが、あまり詳しくない私にはよくわからない。
でも日本がアジア杯を手にした事は本当に嬉しい。
これが私がこの試合を見ていたときの素直な感想。
2日たって落ち着いたところで中国サポーターの反応などを見ながら振り返り少し横道にそれようと思う。
おそらく私が気になってイライラした審判の判定に中国人サポーターが気がついたとしても強い興味を持つ事はないだろう。
私が2点目のゴールをすっきりしないが審判の判定がゴールなのだからやはりゴールだと思って見ていた場面は中国人サポーターには無視できない誤審にしか見えなかったことだろう。
私のもやもやした気持和らげた玉田の3点目のゴールは中国人サポーターには何の意味もなく、2点目のゴールがなければあのような点の取られ方はしなかったと思うかもしれない。
でも、私は想像はできても感情までも同じ立場に立つことができる程人間はできていない。
競い合うスポーツを思い入れを捨て完全にフェアに見ようなどと思ったらこれほどつまらない物はない。
スポーツで思い入れのあるチームに肩入れして観戦するのに不都合があるとも思わない。
ただそこにあたりまえの事実がある事に注目したい。
同じゲーム,プレーを見ていても( つまりそこで一緒に同じ事実を見ていようと )立場によって見る視点も下す評価もあたりまえのように違ってくるということ。
日中戦特有の反日感情という要素を差し引いても(差し引かなくてもいいが)違いは容易に想像できるはず。
スポーツには「おおむねフェア」であるべき審判がいて,その権限が絶対であり,しかもホームアンドアウェイの有利不利に対するコンセンサスがあるから愉しむ事ができるのだが、そのようなスポーツでさえもこのような要素がある。
このようなことは日本と中国、日本と韓国の歴史問題や領土問題を考える上でも同じことが言えるような気がする。(もちろんこれがスポーツに政治を持ち込むという話とは全く関係ないことはいうまでもないと思うが)
肩入れするものがあり、その立場で物事を見る場合、たとえ同じ空間、時間軸で同じ出来事を見ていようとも見る視点も下す評価も違ってくるのがあたりまえで、絶対的な審判も共有するコンセンサスも無ければなおさら、という話である。
(もっと身近では事故処理等は良い例で互いの知人は大抵知人に有利だと判断しがちだ。)
誤解を解いて理解できるものもあれば、どんなに事実を付き合わせてみても、立場から来る「違い」を埋められないものもあると考えた方が良いのではないか。
仮に同じ事実を見る事ができても事実の見方自体に違いがあるのだから事実を見て話し合うだけでは解決は難しい。
まして、相手の認識を「こちらが思っている事実認識が正当だ」と言って論破しようとしても埒があかないのは当然で空虚な努力にしか思えない。
ちなみに
中国の戦後の戦時賠償放棄に関しては、日本人は「放棄したのにいまさら」と考え、中国人は「寛大な措置をとったのに謝罪が無いのは礼に欠く」と考えるかもしれない。
ODAに関しては、日本人は「これほど援助しているのになぜ謝罪を口にするのか」と言い、中国人は「日本は戦時賠償とは別だと自ら言ったではないか」と言うかもしれない。
実際にどう言うかは判らないが同じ出来事に自分に都合の良く異なった解釈をしている事は間違いないだろう。
しかし、だから「違いを埋める事は所詮できないのだ」などと切り捨ててはマイナスはあっても何のプラスも無いのも事実。
自分が正しいと思う言い分を引っ込める必要は無いと思うが、「お互い違う見方,評価があって当然」という認識を(互いに)共有することを目指すのがまず第一ではないかと思う。
その上で、恐れずにその違いを両者の目に見えるところにさらけ出し、両者が解決できる誤解は誤解として解決し、それでも納得できない物(必ずある)があっても、互いに合意できない違いが何であるかを明確にし共有する事で初めて妥協の可能性が見えてくるものなのではないだろうか。
場合によって違いを明確にした上で棚上げにするのも1つの手であろう。
そして、最後の妥協を実際に可能にするのは「妥協の中間点は常に相手にとって有利である」と言う認識であるような気がする。
「相手が有利であると感じる度合い」は「不信感の度合い」に比例すると言う事も付け加えたい。
政治的にはごく自然な流れだとおもうのだが、日本政府の主張すべきをしない(違いをさらけ出さない)姿勢や過去のODAのような曖昧な解決法を取りたがる姿勢は相手との間に「お互い違う見方,評価があって当然」という共通認識を確立または共有ができないからではないかと思ってしまう。
また、「お互い違う見方,評価があって当然」が無い中で、一方的に日本(あるいは中国)の主張を貫き通す姿勢も長い目で見て、けして両国にとってよい結果は得られないだろう。
ヨーロッパ諸国がアジアの国にくらべて政治的な対立をうまく妥協点を見つけ実質的な部分で解決(妥協)を可能にしている背景には個人主義に根ざした「違いを認め尊重する」発想を身につけているというのもその理由の一つとしてあるのではないだろうか。
政治に限らず、世間一般でも中国や韓国に関する議論では「違いを認めて他を尊重する」姿勢が軽視される事が多いように感じる。
政府間でこのような解決を可能にするためにも、我々国民が様々な対立に対して「違いを認めて他を尊重する」雰囲気を盛り上げていく事が肝心ではないだろうか。
私はこのような姿勢が無い限り不安定な極東情勢はいつまでたっても進展しないような気がして仕方が無い。
どの道、感情的対立を深めて溜飲を下げたところで得るものはお互いの不利益だけであろう。
それならば、難しい事だがうまくいっていない日中関係が良い方向に向う事で 日本の対米従属、経済圏の縮小、安全保障の確保 といった日本に漂う閉塞感や現実的な制約に対して次代の「好ましい現実」を手に入れる可能性があるなら、そちらを向く事には十分意義があるのではないだろうか。
もっとも、ほとんどの人には利益は無くとも、中には解決しないことが利益であるという立場もあるのでそのような人にとっては、全く意味の無い話だが、私や貴方はどういう立場なのだろう。
少なくとも私は対立が深まっても利益を得るような立場にはいないからそう思う。
ウッ長すぎる過ぎる。
サッカーの話からいつものように大きくそれたが頭をよぎった事を書き留めていったらこんなになってしまいました。
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