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2004/08/30

ご苦労様でした

アテネオリンピックは日本人の活躍もあり楽しく観戦させてもらいました。
選手の皆さん本当にご苦労様でした。
勝利を手にした選手の顔には喜びが満ち溢れ、残念にも負けた選手の顔には悔しさがにじんでいた。
どちらも目標に向け過酷な練習がそこにあるから作り物でない表情が出て、いずれも劣らず感動的だった。
一方、勝つ為の薬物使用も目立つ大会でもあった。
国の名誉をかけるという一面、個人の富みが関わってくるという一面
これらが、何をしても勝たなくてはいけないという要素を持ち込み、純粋にスポーツの祭典と言い切る事をできなくしているかもしれないが、むしろそれらは選手自身に問題があるというよりも周りが選手に押し付け,強要する性質の物で選手はむしろ被害者なのではないかという気がしてくる。

これまで,夏季オリンピックではよく日本人選手はプレッシャーに弱いといわれていたが、「世間」や「国の威信」が勝手に押しつけてくるプレッシャーに対しモチベーションの持ち方が変わってきたのだろうか、日本人選手が自らの持つ力を大事な場面で出し切ることができるようになってきたような気がする。
日本の「世間」には失敗者を出さないという利点はあるが逆に「異質」や「失敗」を必要以上に許さないところがある。
しかし、最近のスポーツ選手、特に海外で力を出せる選手は、あまり「世間」に惑わされず、しっかり個人のモチベーションを持ち結果を出し始めている。
「世間」に反発するだけというのは「世間」に惑わされる事と何ら変わりがないが,そうではなく「独自」のモチベーションを拠り所に目的に向かう姿は「個人主義」の本来の在るべき姿のような気がする。

私を含め「世間」やマスコミはオリンピックの結果に一喜一憂し、論評し、肴にして勝手に騒ぐが、間違いなく言えることはメダルを取った選手はもちろん、メダルを取れなかった選手、決勝に出る事すらできなかった選手も含め全ての選手は日本で最高の選手であり「世間」の誰よりも優れているのだ。
だからもともと「世間」など気にする必要はないし、結果を出せなかった選手も「申し訳ない」などと言わずに自らの内にある悔しさだけを胸に堂々と胸を張って帰国して欲しい。

追加:オリンピックの最後を飾るマラソンで選手への妨害があったことは本当に残念に思います。(※1)

追加の追加:(ブラジル・サンパウロから世界へ、そして渋谷)さんから
「オリンピック最終日。 ブラジル有終の美を飾る。」
というトラックバックをいただきました。
ブラジルの選手が笑顔でゴールし、観客が選手を心から祝福。
オリンピックの最後を飾るマラソンは「妨害があったことは本当に残念に思います。(※1)」で終るのではなく、まさにオリンピックの本来の姿で「有終の美を飾った」で終るのがふさわしいと思い直しました。
トラックバック有り難うございました。(8/30 11:25AM)

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2004/08/14

日本的である事

戦後の価値観を覆す動きが活発化してきた。
憲法を筆頭に敗戦を機に取り入れられた価値観が否定され始めている。

軍隊を持たないこと
戦争に反対すること
基本的人権
自由
戦後教育
対外姿勢
歴史観
ジェンダーフリー
等々

冷戦構造が崩壊し、世界が変わったことで価値観も一変したのは事実だろう。
アメリカブッシュ政権がイラク戦争に突入したことにより、世界はきな臭くなり、不安と不信感であふれているのも事実だろう。
円高,バブル、バブル崩壊を経る中で行政の老朽化が表面化し、それを変革できない閉塞感があるのも事実だろう。
モラルが低下し、凶悪犯罪が目に付き、犯罪の低年齢化が社会問題化し安心して社会生活をお送りにくくなってきているのも事実だろう。
家庭の崩壊が謳われ、出生率が低下し、DVが横行しそれが将来に対する不安に繋がっているのも事実であろう。

このような現状に対して政府や国民は言い始めた。

軍隊を持たなければ平和は築けない。
戦争に反対するのは空想であって危険だ。
基本的人権が過保護の原因だ。
自由が利己主義を生みモラルを低下させる元凶だ。
戦後教育は左翼思想であり洗脳されている。
対外姿勢は軟弱だ強硬手段が必要だ。
戦後の歴史観は自虐史観であり、日本人が自信を持てない原因だ。
ジェンダーフリーは行き過ぎであり家庭崩壊の元である。

今の価値観に疑問を呈し、その矛盾を突きその対極を唱えることが今の潮流である。
不平,不満,閉塞感を作り出した犯人を何とかして既成のものから見つけ出し,既成の物をぶち壊すのは爽快な気分だ。
しかし、出てくる対案はどれも懐古主義にしか思えない。
本当にそんなところに原因があるのだろうか?

現在にウンザリするあまり、過去に失敗した物を懐かしがり、美化し、本来の日本人の姿と言いながらわずかな歴史しか持たない明治以降に作り上げられた日本の姿にしか目を向けていないような気がする。
江戸の市民の自由も奔放も、自然と共生する自然観も、世の流れに対する無常観も、謙虚さも、弱きを守り強きをくじく美徳も、全て置き去りにしてほんの短い特定の時代の日本の姿,しかも国家始まって以来の存亡の危機をもたらした時期の国家観に回帰している。

政府(与党)は「日本を愛する」「日本の文化伝統を大事にする」ことで「日本人が誇りを持つ」という。

もし、そこまで日本的な考えを重要視するならば「質素」「倹約」欲に惑わされない姿が基本となってもおかしくなかろう。
それなのにそういう立場を取る者が、なぜ欲を原動力とするアメリカ式資本主義には疑問の目を向けないのか。
日本的であるならば利己主義やモラルの問題は民主主義的要素(自由、基本的人権、国民主権)にあると言うよりもアメリカ式資本主義にその本質があると真っ先に疑問を持ち、まずこれに批判を加えても良さそうなものだ。
見方を変えれば、昔から日本で行なわれていた相互扶助社会、相互監視社会は、限りなく社民的(左翼的)ではないか?
グローバリゼーションが自然との共生と相容れない事に疑問を投げかけてもよさそうなものである。
日本らしさと言うのなら、なぜ「現実」で世の中を固定して絶対視し、それが「無常」であることを忘れるのか。
なぜその政策は強きを守り弱きをくじくのか?
なぜ謙虚さを忘れ近隣諸国に対し西欧的な傲慢な力の誇示により優位を築こうとするのか?
なぜ農耕民族である日本人が狩猟民族を目指すのか?
金とか益とかではない小さな宇宙観に幸福を見出すのがその文化ではないのか?
イラク戦争での日本政府の政策のように大儀も正しさもない「勝ち組み,負け組み」のような発想を根拠に勝ち馬に乗る行動を日本人は潔しとしてきたとでもいうのか?
アメリカ政府のイラクへの侵攻を見て仏教を文化に持つ日本人は「因果応報」を重ねあわすことはしないのか?
神道ではない仏教的な思想が本来的でないと言うならば多くの日本の文化遺産は意味を持たず消滅してしまう。

もちろん日本の文化・思想と言っても各時代によって様々であるから必ずしもそうあるべきだ等というつもりは無いが、このような物もまた日本の文化・思想である事に間違いは無い。

政府(与党)が持ち出す「日本の文化」や「日本を愛する」をその政策と比べたとき、いかにご都合主義であるかを問うのは実に自然であろう。
私には今の「日本を愛する」路線で出てくる政策は「日本を愛する」事とは全く関係がなく、ただ実利主義者が国民を誘導したいがためにこれを利用しているとしか映らない。
実利主義の国際社会で優位を保つために、それと相容れない日本文化をもって国内の求心力を高め正当化しようなどは実に矛盾に満ちた発想だと思うのだ。

(「国内の求心力を強く望むあまり国際社会がもっとも重要視する「自由」「基本的人権」を制限しようというところがまた別の意味で矛盾に満ちたご都合主義。
今の政府はこれらをイラクにもたらそうとするアメリカが正しいから支援していると言うのが建前でしょ。)

そもそも,もっとも日本人らしくない性癖を持つ与党の面々が推し進めているところが信用できない。
実利主義を前提とした現実主義者ならば現実主義者らしく、このようなものを持ち出して詭弁を弄したりせず論理的に利をもって説いていればいい。

国民が、問題を抱える「今」に不満を持ち、疑問を持ち、再考することは重要だと思う。
だからと言ってそれがすなわち「過去の短い期間にあった対極の物」を是とするのはあまりに短絡的ではないか?
それは目の前の「現実」に右往左往して「大事なもの」を失う事になりはしないか?
日本的な私は

「無常」の世の中では「目前の現実」などは仮の姿、すぐに変わってしまう。
大儀のないイラク戦争およびその統治手法は「因果応報」,必ず報いを受ける。

などと考えるが、それが「日本を愛する」人たちから「日本を愛していない」者にされてしまうのは悲しいことだ。

私は私自身の事を現実主義者だと思っているが、今の世界で起きている事を見ていると「無常」や「因果応報」がやけに現実的説得力をもって迫ってくる。
実際に目をあければそこ(9.11、パレスチナ、イラク、旧ユーゴ等)に見える「無常」「因果応報」を、現実主義者に「妄想」として簡単にかたずけられるのもまた悲しい事だ。

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2004/08/09

違ってあたりまえ

アジアカップ決勝戦は、私も日本人なのでテレビの前でハラハラしながら見ていた。
相手に倒されてもファールをとらず、相手を倒すとあっさりファールをとられイライラする。
完全にアウェイなのだから、何処でやるときも同じだということは判っていても理性と感情は別物である。
これまでのブーイングを巡る経緯があるから尚更なのかもしれない。
1-1に追いつかれた後の2点目は正直言ってもっとすっきり取って欲しかった。
3点目の玉田のゴールはその思いを少しは取り去ってくれたが,できれば勝ち越し点が玉田のゴールだったら良かったのにと思う。
いずれにしても日本選手は皆素晴らしかった。
特に決勝までの戦いの中で、私自身が諦めた場面でも彼らはけっして諦めずに勝ちを自らの手で引き寄せた姿には頭が下がる思いであったのと同時に勇気をもらった。
サッカーに詳しい人は監督の采配などに不満もあるようですが、あまり詳しくない私にはよくわからない。
でも日本がアジア杯を手にした事は本当に嬉しい。
これが私がこの試合を見ていたときの素直な感想。


2日たって落ち着いたところで中国サポーターの反応などを見ながら振り返り少し横道にそれようと思う。

おそらく私が気になってイライラした審判の判定に中国人サポーターが気がついたとしても強い興味を持つ事はないだろう。
私が2点目のゴールをすっきりしないが審判の判定がゴールなのだからやはりゴールだと思って見ていた場面は中国人サポーターには無視できない誤審にしか見えなかったことだろう。
私のもやもやした気持和らげた玉田の3点目のゴールは中国人サポーターには何の意味もなく、2点目のゴールがなければあのような点の取られ方はしなかったと思うかもしれない。

でも、私は想像はできても感情までも同じ立場に立つことができる程人間はできていない。
競い合うスポーツを思い入れを捨て完全にフェアに見ようなどと思ったらこれほどつまらない物はない。
スポーツで思い入れのあるチームに肩入れして観戦するのに不都合があるとも思わない。

ただそこにあたりまえの事実がある事に注目したい。
同じゲーム,プレーを見ていても( つまりそこで一緒に同じ事実を見ていようと )立場によって見る視点も下す評価もあたりまえのように違ってくるということ。
日中戦特有の反日感情という要素を差し引いても(差し引かなくてもいいが)違いは容易に想像できるはず。

スポーツには「おおむねフェア」であるべき審判がいて,その権限が絶対であり,しかもホームアンドアウェイの有利不利に対するコンセンサスがあるから愉しむ事ができるのだが、そのようなスポーツでさえもこのような要素がある。

このようなことは日本と中国、日本と韓国の歴史問題や領土問題を考える上でも同じことが言えるような気がする。(もちろんこれがスポーツに政治を持ち込むという話とは全く関係ないことはいうまでもないと思うが)

肩入れするものがあり、その立場で物事を見る場合、たとえ同じ空間、時間軸で同じ出来事を見ていようとも見る視点も下す評価も違ってくるのがあたりまえで、絶対的な審判も共有するコンセンサスも無ければなおさら、という話である。
(もっと身近では事故処理等は良い例で互いの知人は大抵知人に有利だと判断しがちだ。)

誤解を解いて理解できるものもあれば、どんなに事実を付き合わせてみても、立場から来る「違い」を埋められないものもあると考えた方が良いのではないか。

仮に同じ事実を見る事ができても事実の見方自体に違いがあるのだから事実を見て話し合うだけでは解決は難しい。
まして、相手の認識を「こちらが思っている事実認識が正当だ」と言って論破しようとしても埒があかないのは当然で空虚な努力にしか思えない。

ちなみに 中国の戦後の戦時賠償放棄に関しては、日本人は「放棄したのにいまさら」と考え、中国人は「寛大な措置をとったのに謝罪が無いのは礼に欠く」と考えるかもしれない。 ODAに関しては、日本人は「これほど援助しているのになぜ謝罪を口にするのか」と言い、中国人は「日本は戦時賠償とは別だと自ら言ったではないか」と言うかもしれない。 実際にどう言うかは判らないが同じ出来事に自分に都合の良く異なった解釈をしている事は間違いないだろう。

しかし、だから「違いを埋める事は所詮できないのだ」などと切り捨ててはマイナスはあっても何のプラスも無いのも事実。
自分が正しいと思う言い分を引っ込める必要は無いと思うが、「お互い違う見方,評価があって当然」という認識を(互いに)共有することを目指すのがまず第一ではないかと思う。
その上で、恐れずにその違いを両者の目に見えるところにさらけ出し、両者が解決できる誤解は誤解として解決し、それでも納得できない物(必ずある)があっても、互いに合意できない違いが何であるかを明確にし共有する事で初めて妥協の可能性が見えてくるものなのではないだろうか。
場合によって違いを明確にした上で棚上げにするのも1つの手であろう。
そして、最後の妥協を実際に可能にするのは「妥協の中間点は常に相手にとって有利である」と言う認識であるような気がする。
「相手が有利であると感じる度合い」は「不信感の度合い」に比例すると言う事も付け加えたい。

政治的にはごく自然な流れだとおもうのだが、日本政府の主張すべきをしない(違いをさらけ出さない)姿勢や過去のODAのような曖昧な解決法を取りたがる姿勢は相手との間に「お互い違う見方,評価があって当然」という共通認識を確立または共有ができないからではないかと思ってしまう。
また、「お互い違う見方,評価があって当然」が無い中で、一方的に日本(あるいは中国)の主張を貫き通す姿勢も長い目で見て、けして両国にとってよい結果は得られないだろう。
ヨーロッパ諸国がアジアの国にくらべて政治的な対立をうまく妥協点を見つけ実質的な部分で解決(妥協)を可能にしている背景には個人主義に根ざした「違いを認め尊重する」発想を身につけているというのもその理由の一つとしてあるのではないだろうか。

政治に限らず、世間一般でも中国や韓国に関する議論では「違いを認めて他を尊重する」姿勢が軽視される事が多いように感じる。
政府間でこのような解決を可能にするためにも、我々国民が様々な対立に対して「違いを認めて他を尊重する」雰囲気を盛り上げていく事が肝心ではないだろうか。
私はこのような姿勢が無い限り不安定な極東情勢はいつまでたっても進展しないような気がして仕方が無い。
どの道、感情的対立を深めて溜飲を下げたところで得るものはお互いの不利益だけであろう。
それならば、難しい事だがうまくいっていない日中関係が良い方向に向う事で 日本の対米従属、経済圏の縮小、安全保障の確保 といった日本に漂う閉塞感や現実的な制約に対して次代の「好ましい現実」を手に入れる可能性があるなら、そちらを向く事には十分意義があるのではないだろうか。

もっとも、ほとんどの人には利益は無くとも、中には解決しないことが利益であるという立場もあるのでそのような人にとっては、全く意味の無い話だが、私や貴方はどういう立場なのだろう。
少なくとも私は対立が深まっても利益を得るような立場にはいないからそう思う。

ウッ長すぎる過ぎる。
サッカーの話からいつものように大きくそれたが頭をよぎった事を書き留めていったらこんなになってしまいました。

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2004/08/06

8月6日 原爆忌

今日という日は「原爆」という非人道的な兵器を憎む日なのだと思う。
その「原爆」を落とす事になった「戦争」を憎む日なのだと思う。
その「戦争」がもたらす「痛み」を想像する日だと思う。
その「痛み」を忘れてしまう「人の性」を見つめる日だと思う。

原爆でなくなった人は人を殺した事など一度も無い人がほとんどだろう。
原爆を落とすためにエノラゲイを操縦していた人も投下のボタンを押した人も家族や仲間を大事にし、守るべきものがあった責任感の強い愛すべき個人であったろう。
核兵器の原理を発見した科学者は純粋に自然の真理を追求する優れた個人であったろう。
戦争で人を殺した人もそのほとんどは家族の元に帰れば善良な父であり息子であり兄弟であるに違いない。

しかし、こうした普通の人々が営んでいた世界で「戦争」や「原爆の悲劇」が現実として起こってしまうことを忘れてはいけない。

戦争が起こるのに「特別」なものなどは何も無かったのではないか?
目の前に見える「必然」の積み重ねが普通に起こっただけなのではないか?

普段と同じように「不信」の蓄積がなされ
抗し難い「現実」を目の前にして、それを阻むものを当然のごとく「普通」に一蹴し
諦めの状況の中で普通に「閉塞感」が蔓延し
その「閉塞感」のなかで光を放つ「まがい物」に「普通」にすがり
世界情勢の中で「普通」にその「必然性」という名で軍事力が増強され
その対立の中で普通に相互の「憎悪」が一人歩きし
もっともな「理由」で先端が開かれ
相手に被害を与え、勝つことが「普通」である戦争で「原爆」が落とされる。

個々の出来事において「これは異常だ」と当時の人が疑うべき特別な「必然」があるであろうか?

先人達は記録を残し、言葉に残し、宗教を確立し、子孫に同じ事を繰り返さぬように伝えようと知恵を絞ったにもかかわらず、予定通り、型どおり「人の性」に従って普通に繰り返しただけに思える。

今を生きる我々にとって忘れてはいけないことは、どんな「必然」で戦争が起きたかに関わらず戦争に関わり生き残った多くの人が、戦争が終わった時点で「戦争は繰り返してはいけない」と心底思ったという事実ではないだろうか。(生き残れなかった人はそれを言う事もできない)

今、この瞬間の状況も何ら当時の「普通」と変わらない。
ありとあらゆる「現実」の前に「もっともらしい必然」があふれている。
「もっともらしい必然」を「現実」を駆使して詳細に説明する情報には事欠かない、不況、不安の中でその「戦争に繋がるもっともらしい必然」は強い光を放ち、人をひきつける。
そこに繋がる道だと判っているくせに、あたかも途中で止まる事ができるかのような、それこそ「現実的ではない言い訳」を片手に「必然」を人に押し付ける。
これはけして我々の目には「特別」なものなどには見えず、ごく「普通」に映る。
そして、あたりまえのように「現実的」なのだ。
何しろ一番「現実的」なものは「人は忘れ、過ちを繰り返す」事なのだから。

「原爆」がこれまでの繰り返しと違うのは「人類」「生物」の生態系をも狂わせその存在自体を悲惨な形で消滅させる力を持ってしまった事。
次の繰り返しの後には「戦争は繰り返してはいけない」と思う事すら誰もできなくなるかもしれない状況になってしまっている事。

今日と言う日が、最後のチャンスに「人の知恵」が「人が過ちを繰り返す」事を乗り越えるための決意をする日であって欲しい。

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2004/08/03

そこにいる「人々」

久々にBaghdadBurningの記事(英語版)が更新された。

内容はイラクの暑さから始まり、冷蔵庫の有りがたさと活用法(?)、それに関連して電気事情、身内の葬儀での葬儀事情、埋葬に際して直面した埋葬場所の不足、それが意味するもの、そして人質事件に対する彼女の視点、海外の悪意の無い人々が拉致される状況の裏側(混乱やイラク人自身に起こっている事)、暫定政権の進む方向に対する不安定要素(政権に参加できないものの反発)
そんな中で情報が検閲される事への不安を示し、アメリカの「Patriot Act」への皮肉で結んでいる。

日常の生活に起きる出来事からイラクの状況をリアルに伝えてくれる。
イラクにも様々な人々がいてその立場によっても見方は違うだろうが「出来事」の裏には「人」がそこにいて、その人々の様々な思いが「出来事」に大きな影響を及ぼしている事を教えてくれる。


大国の軍事力、経済力、政治的影響力を物理的に吟味しようとも、そこにいる「人」を無視していれば期待した結果など得る事はできないだろう。
実際イラク、ベトナム、パレスチナを筆頭に軍事介入により期待した通りにならないケースは少なくない。(軍事品を消費する意味では全て成功だが・・・)

日本政府の米国政策支持の姿勢は「経済」「安全保障」を基準に決定され、それを納得させるために「人道支援」の名称を用いていると言う事は、余程「呑気」な人でなければ既に判っているだろう。
しかし、その中に「人」の要素がどれだけ加味されているのだろうか。
「憎悪」「不安」「自暴自棄」「閉塞感」「自尊心」といった社会や世界の動きに大きく影響を与える「人」の要素をしっかり加味しているのだろうか。
我々日本人は、これほど「国内のモラル」にも「国際的な国の将来」にも影響を及ぼしかねない「人」の要素を「現実」に組み入れて議論しているのであろうか?
甚だ疑問である。

我々が「しかたがない」として選択した根拠はそこにいる「人」にとっては全く「しかたがない」では済ます事などできない問題である。
我々が「しかたがない」で済ませていられるのは、イラクが隣に無いからであり、影響を受けても時間差で間接的に形を変えて到達するするため、「直接」感じる事ができないだけでは無いか?
(そもそも、日本人ほど「しかたがない」と言って諦める人々は世界でもそれほど多くはないような気がする。
本来の日本的な伝統では物事(欲)にとらわれないという理想像があったからだと思うが、それを捨て去って物理的な繁栄を捨てきれない現状に甘んじている以上矛盾でしかなく、元来の高尚なスタンスとは別物ではないかと思う。)

これまで日本はアメリカに付いていけば、おおむね間違いの無い選択ができた。
だから、議論のスタートは常に「対米重視(追随)」から始まり、なぜそうなのかは「経済」と「安全保障」と言う単語で済んでしまっていた。
アメリカの政策を支持するのも「対米関係」を最重点に考えているからなのだが、果たして今、これまで私たちが持っていた「アメリカ像」を再考する必要は無いのであろうか?
「人」の軽視を露にしはじめ変質するアメリカが、極東、その他のアジア・中東、EU、ロシアなどとどのような関係を描いていくのか、その中で「アメリカではない日本」がそのアメリカとほぼ同じ選択をする事により、これらの関係の中でどのような位置に置かれる事になるのか。
そして、その位置の「あり方」が我々「人」としての日本人各々にとって望ましいものなのか。
「現実」ばかりに目を向け「理想」を過小評価する事により後戻りのできない窮地に置かれる可能性をもう少し考慮したほうが良い。


今日のニュースで、時事英語を英字新聞で勉強するため"suicide bomb"というメモを持っていた日本人がアメリカ当局により一時拘束されたという。
アメリカではテロ情報により様々なターゲットとなり得る場所でテロ防止のために"厳重な警戒"が行われている。
インタビューに答えたアメリカ人女性が「これは9.11以降続いている事で、もう慣れた」と語っていた。
私が尊敬した「自由」と「民主主義」を謳ったアメリカの姿はそこにない。
(失いつつあるものの筆頭は「公正さ」かもしれないと個人的には感じるが...)
「イラク戦争以前より平和になった」はずのアメリカ市民「人」の生活にはこのような影が忍び寄っている。
アメリカにとって「人」そのものを捉えてみたとき、それがアメリカ人の価値観に照らし合わせて「良い方向」に向っているのだろうか?
超大国アメリカの今後はどうなるのだろう。
そして、アメリカ一辺倒の政策を「現実論」で肯定する日本の政策は「妥当」なのだろうか?
これまでとは違い、国際社会とアメリカを混同せず、しっかり分けて議論する必要性があるのではないか?

話はそれるが、先日NHKの「道路公団}の番組を見た。 選挙民の要望という「現実」で政治家がそれを受け入れ、圧力という「現実」を官僚にかけ、その官僚が組織維持という「現実」で行った道路政策がどんな結末を迎えたのか? 既にできてしまった莫大な借金を「現実」を目の前に「根本改革」できない姿を目にしながら、まだ「現実」を「仕方が無い」などと言ってそのまま受け入れていて良いのだろうか? 当事者は皆「現実的に止めることは不可能であった」と言うだろう。 同様に「現実的」である国民も「非難」はしても、少数ではない人が「現実的には変えることはできない」と決め付けるところは投票率を見れば判る。 システムである政府やそれに付随する官庁、そして国民自身も身近な「現実」は見ていても、本来見るべき「人」を見ていないような気がしてくる。

外交も内政も、もう少し「人」を評価し、同じ妥協があったとしても「理想の方向に沿った」「現実的過程」を模索する必要がありはしないか?
「理想」を「現実」で排除しようとする憲法9条問題も、排除する前に国民自身が「どのような将来を望むのか」、今は成し得なくとも「理想に沿った現実的な過程」をとる事すら不可能な物なのか等、国民自身が熟慮した上で結論を出すほうがいいと思う。
これまでの色々な政策が「現実」の前に「なし崩し」で進められてきた事を考えると、無関心でいたら「声の大きい者(物)」「経済的影響力のある者(物)」の思惑で事は進み、その他は「何が良いか」では無く「しかたがない」で追随し決定しかねない。
果たして、そこに私や貴方といった「人」が考慮されているかどうかは判らない。

BaghdadBurningの記事で「そこにいる人」の視点の大切を思い、つい、こんな方向に思いをめぐらせてしまいました。

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