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2004/07/18

党の存在意義

今回の参院選で矛盾を持たずに投票できた人はどれくらいいたのだろう。
つまり、自らの思いと投票行動を一致させる事ができた人という意味である。

私には,立候補者個人を選ぶにしても所属する政党の方針でその人の主張がしっかり生きて来ると信じる事ができない。
また、政党を選ぶにしてもその政党には今やありとあらゆる立場の人が混在し、政治的理念が見えてこない。

以前首相が「わが党にはさまざまな人材が揃っている。」といって自慢していたが、これは評価すべきことなのだろうか?
人材が揃っている事自体はいいのだが、理念の違う人たちが雑然と存在しているような現状では困ってしまう。
善意に受け取れば、さまざまな立場の自民党議員が民主的な話し合いで最善の策を検討していると主張したいのだろうが,それは国会でのあるべき姿なのであって、実際に党内で民主的に決めるなどはありえないのではないか?

国会でこれを行うことと政党内でこれを行うことと何が違うか。
それは党内で行われることは必ずしも国民の目に触れるものばかりではないということ、さらに国民が評価し、選択することすらできないということ。
つまりそこには本来の民主的な手続きなどは存在しない。
いわゆる談合以外の何物でもないということ。
議論の正当性を誰も評価できず,議論の正当性で結論が出たかどうかさえ確認できないのだ。

議員クラス(党幹部以外)が出演するテレビの討論番組などを見ればそれは顕著に表れる。
党を代表して番組に出演しながら「私は(党の決定に)賛成ではないが...」とか「私は党内でこのように発言をしている」などと言った言葉が出てくることが少なくない。
ここでは個人の理屈が出せるので多少は議論になっても実際に党が出演者の意見の立場で方針を決めるわけではないので議論しても国政に反映されることは少ない。

国会でも個々の議員の意思が党内で議論した時の立場を維持できればまだ救いはあるのだが、「党議拘束」がこれを阻むのである。
これが首相の言葉を借りれば「自民党は色々な意見があっても最終的には一つにまとまる」というもっともらしい言葉に置き換えられる物の実態。
これは自民党に限ったことではなく民主党にもいえる。
つまり今向かっている二大政党制のそれぞれの当事者が同じ問題を抱えているということ。

現行憲法下での自衛隊の派遣に反対の議員は自民党内でもかなりいたはず,逆に民主党の中には自衛隊の派遣に賛成の議員もいたはず。
公明党に至っては殆どの議員は反対を主張していた議員ばかりではなかったか。
このような国家の将来に関わる重大事が国民の代表である議員個々の良識で決められずに、「党議拘束」というもので「与党」と言う「政権」維持の為に歪められてしまう実態は憂うべき事態ではないのか。

理念の元に終結していたはずの政党は、今や単なる議員生産組織となり、政策は議員生産組織の内部で「国民の目の届かぬ」ところで「何が良いか」ではない理由で決められる。
立候補者はどの議員生産組織に所属することが議員になる早道かで党を決めていくような時代がきてしまうのではないか?

特に冷戦後はある価値観(イデオロギー)が圧倒的支持を得ることがなくなった、そして直面する政治課題も多岐にわたる。
理念の元に結集すること事態が難しくなってきている。
政治の上で現在の「党」と言うものの存在意義自体がもはや失われてきているのではないだろうか?

良識ある議員であればあるほど議員自体もそのことにフラストレーションを感じているはず。
むしろ、それぞれの政治課題毎に議員が自らの信条で党を組み議論していく方が議員にとっても国民にとっても良いのではないかと思えてしまうのだ。
少なくとも国会において「党議拘束」を撤廃し「超党派」を推進する手立ては無い物か?
個人主義が成熟しない「村社会」日本で今のような政治形態を採っていてはこのような激変の世界情勢のなかでは危険極まりない。
状況の変化とともに政治形態もそれに対応する必要があるのではないだろうか?

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