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2004/07/25

国民の高揚

中国で反日感情を背景にした事件・出来事が以前に比べ多くなった。
今、行われているアジア杯でも同様に、これを利用して反日感情を煽ろうとする動きもあるようだ。
http://sports.nifty.com/headline/soccer/soccer_jiji_24F526KIJ.htm
実際に、中継での観衆の声援を聞くだけでもその雰囲気を感じとる事ができた。
背景にある反日感情が渦巻く中国の情勢を実感できない我々にとっては、歩いていて突然殴られたような気分になるかもしれない。
どうも、その動きは学生が主体となっているようで、インターネットはその感情の媒体として一役買っているようである。

西安市にある西北大学のわいせつ寸劇事件の例を見ると、内容が思慮に欠けた部分があったとはいえ、背景が無ければあそこまでの感情的な運動が起こる事は無かったと思う。
(私には)この事件では中国政府がこれら民衆(大学生)を、むしろ抑える側に回っていた印象がある。
実際に反日学生自身が中国政府の姿勢(報道規制等)に対し批判を加えたりする場面も見られた。

今回のアジア杯での中継中止にも同じような印象を受ける。
中国政府自身の手に余る状況だと見たほうがいいのかもしれない。
(今度は、この民衆の高揚を抑えるために中国政府が情報(中継)に規制を加える事で操作しようとする事で、またもや日本人には「生」の彼らの状況を知る事はなくなったとも言える。中国政府にとってはスポーツの場でこのような政治的に利用しようとする姿は世界に対し誤解を招きかねないし、後に控えるオリンピックにも影響が出かねないとでも思ったのであろうか?)
中国政府は市場経済参入に伴う情報流入が他の共産国に見られたように体制崩壊に繋がらぬように「反体制的な情報の規制」と「愛国心政策」をとり、求心力をそこに求めた。
この反体制的な物の蔓延を防ぐために布いた政策が、中国政府の思惑を超えて成長してきてしまっているように思える。
私は中国語を読めないので実際に中国のWebを見る事は無いので確かな事ではないが、中国の掲示板等では事実無根のデマももっともらしく流れているという事を日本のweb上で見かける事がある。
日本の掲示板でも同様の事が起こっている事を考えれば十分ありえる話だ。
国を代表する中国政府が「反日」的な発言をする事は「外交上の駆け引き」の要素もあり、即それが極端に走るという心配はしないのだが、その政府の思惑を超え根拠の無い情報により民衆が高揚する姿には不気味さを感じる。

権力者が意図的な思惑を統制できると思い違いをするのは日本も中国も同じ。

我々日本でも盛んに「愛国心」を盛り上げようと必死である。
好意をもって受け止めれば、「今の閉塞感、自信喪失感を払拭し、新しい日本を創ろう」という部分はあるのかもしれないが、民衆の思いは勝手に政治家などの思惑などはいとも簡単に超え、あらぬ方向に動いてしまうものだという事をしっかり肝に銘じる必要がある。

ところでこのような中国の民衆の「反日」に直面したときに、我々はどのような反応を示すのだろう。
やはり「なめられてたまるか」「誇りが許さない」「そっちがそうなら我々も」と中国民衆に対抗するような世論を創るべきだと思うのか。
それとも冷静に、しかしおもねることなく認めるべきは認め、主張すべき事は主張し、常に話し合いの用意がこちらにはあるというオープンな態度で臨むのか。
それは我々日本人自身の選択である。
私は前者の「対抗」は常々思うところの「恨みの連鎖」の入り口に過ぎないと思うのでそうなって欲しくない。

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2004/07/23

分離フェンス撤去

もう少し前になってしまったが、20日国連総会にてイスラエルによる「分離フェンス」撤去に関する国連決議が
賛成150 反対6 棄権10
の圧倒的多数で採択された。

この分離フェンスはイスラエルの入植地を囲い込むような形で西岸内部に大きく食い込むような形で建設されている。
イスラエルが一方的に建設するフェンスにもかかわらずイスラエル側ではなく自治区側(グリーンラインの内側)に建設しているのだ。(地図参考リンクhttp://plaza17.mbn.or.jp/%7ECCP/wall/map/map.html
イスラエルが主張する分離フェンスの建設理由はハマス要人を国家が堂々と暗殺したのと同様「テロ対策」。
しかし、そのような理由は口実でしかないだろう。
イスラエルは以前から西岸に無法に「入植地」という既成事実を作り上げてきた、そのあげく入植地の保護を名目にこのようなフェンスをパレスチナ側を取り込む形で建設し、この既成事実をより確かな事実に仕上げようとしている。
実情はこれにとどまらない。
入植地を取り囲むように建設された事により、分離フェンスは西岸地区に住むパレスチナ住民の生活をも分断している。
これまでまっすぐ行けた病院,商店、職場などに行く為に、はるか遠くにある検問まで迂回しなければたどり着く事もできないと言う代物なのだ。
さらに、パレスチナ人の農地を勝手に分断し、取り上げ、まともな農業をする権利さえ奪っている。
「入植地」により歪になった地区に住むパレスチナ人はその生活を脅かされ続ける事になる。
予定の分離フェンスが完成した暁にはパレスチナ自治区は一部を残し完全にフェンスに囲まれる事となる。
そこから、次のステップを予想するのは簡単な事だ。
「パレスチナ人をそこから追い出す。」
仮にそうでなくとも,パレスチナ人がそう受け止める事に何の不自然さも感じない。
日本の暴力団によるバブル期の「地上げ」の手口を想像させるが、さらにその上を行く。

今回の国連決議は、このような非人道的な「地上げ」行為に対し、その行為を止めるように求めた物。
結果は圧倒的多数で可決したわけだが、そんな中でイスラエルのほかにも反対する国がある。
その反対の先頭に立つのがイラク戦争当時、イスラエル一辺倒の政策に対する批判をかわすためにパレスチナ新和平案(ロードマップ)を掲げ仲介を行なったアメリカ(ブッシュ政権)だ。

パレスチナ新和平案(ロードマップ)を提案しておきながら、イスラエルの入植地をアメリカ大統領としてはじめて容認し、一方の当事者の要人殺害を「テロ対策の一環」としてこれも容認、さらにイスラエルの一方的なガザ地区からの撤退(これはロードマップの趣旨に反する)を支持、と仲介者である事を放棄しイスラエルに肩入れした一連の経緯を見れば「やはり、批判をかわすだけのただのポーズだった」と見られても仕方が無いだろう。

すでに、アメリカは「正義」を装う事すらかなぐり捨ててしまったのだろうか。
イラク統治の行き詰まりで国際社会に配慮を示しはじめたかに思われたが、この件を見る限り国際社会を無視した単独主義は何も変わっていない。
この姿勢は米国政府の「決議案の内容は一方的」というコメントを見れば明らかなように、圧倒的多数に対し尊重する意思が全く見えないところに良く現れている。
イラクでの反米感情はもちろん、イスラム諸国の反米感情にもパレスチナ問題は大きな影響力を持っている。
ユダヤ資本、マスメディア支配、キリスト教原理主義との共通性・・・様々な理由があるにせよ、このような誰が見ても分かる事をアメリカ政府がわからないはずは無い。
「平和を好む大統領」をアメリカ国内に向け振りまいているようだが、中東に於ける力による支配への欲望は減退することなく増大しつづけているようだ。
「テロとの戦い」は中東支配の為の口実、中東支配に必要な「中東への楔」としてのイスラエル擁護、と見ても何ら差し支えないように思われる。
今,アメリカはイラクにおこなったことと同じように、根拠の曖昧な難題をイランに向けぶつけている。
アメリカ政府はイラクでの失敗程度で止まるつもりは無いのである。

国際貢献のためにイラクに自衛隊を送っているなどと言う『幻想』からいい加減目を覚まさないと、今後起こりうる後戻りのできない「連鎖」に引きずり込まれる可能性は否定できない。
鼻先に「常任理事国入り」をぶら下げられ、食いつくようなカモにならぬ事だ。

パレスチナ問題は「武力を持たない事は理想である」と語る以上に「武力による平和構築などは妄想である」ということを目に見える現実として我々に提供している。(イラク統治にも云えるが)

我々にとってパレスチナ問題は地球の裏側で起こっていることとしか受け止められないようであるが日本および極東地域の将来を考えるうえで、「何が本当の現実か」を学ぶ教材が凝縮されているのではないか。

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2004/07/20

曽我さん家族来日で思う事

曽我ひとみさんのご家族が来日しました。

拉致され忘れ去られた期間に元米国軍人のジェンキンス氏と結婚され、そのことが平穏な生活の回復の障害になろうとは改めて過ぎ去った「時間」の意味を考えさせられます。

北朝鮮にはまだ多くの拉致された日本人がいる。
今、北朝鮮に残された人たちはこの「時間」をどのように生き抜き、この「時間」によりどのような事情を抱えることになったのだろう。
中には北朝鮮の政権の維持に協力する立場や、対日本政策に寄与する立場に身を置かざるを得なかった人がいるかもしれない。
それができず、今もつらい目に遭っている人もいるかもしれない。
拉致され、独裁政権下、祖国に忘れ去られた中で日本人が生きていく為にさまざまな選択をせざるを得ない状況に置かれていたのかもしれない事を充分想定しなければいけない。

我々は拉致された国の国民として、全ての拉致された日本人の帰国を望んでいる。
これは同時に、これら失われた「時間」に彼らに起こった全ての事を引き受ける事になる。
もちろん上記のことが無ければそれに越した事は無いが、我々はどんな事が出てこようともこれらを引き受ける(受け入れる)だけの覚悟をしておく必要があるのではないか。

我々日本人の多くが必ずしも米国のイラク戦争を正しいなどとは思わなくとも今もっている「豊かさ」を失いたくない、「安全」を確保したいばかりに大儀の無い政策を支持しているのと同じように、拉致された人々が独裁政権下で目の前にある現実に従わざるを得なくともそれをどうこう言えるほどのものでもない。
まして、彼らが直面したであろう現実は我々が直面する柔な現実とは比べ物にならないほど過酷な物であり、その一切が彼らの責任により生じた物ではないのだ。

曽我さんの報道を見ているとマスコミが被害者である彼らを食い物にしているように見えて心配になる。
日朝の間に入った善意の他国で、傍若無人なあのような過熱報道は異常である。
北朝鮮の随行員であろうと、それだけの理由であれだけ執拗で失礼な接触をし、間の抜けた質問をぶつけるに至っては日本の品性に関わる。
(このような報道をしているから、本来大事な「報道の自由」を失いかねないない事態を引き起こすような気がする。移譲後のイラクの検証、イスラエルの壁、スーダンの情勢等々世界が注視し,報道しなければいけない事は山ほどあるはず。)
これらを目のあたりにすると、さらに複雑な事情を持つかもしれない残された拉致被害者が明らかになったときのマスコミの興味本位の馬鹿騒ぎは想像に難くない。
イラク人質事件、被害者家族会へのバッシングに走る社会がどのような反応を示すかにも懸念を持つ。

被害者を取戻す事はもちろん重要だが、それを受け入れる日本も受入側として様々な問題に責任を持つ立場になる事を忘れてはいけないだろう。


最後に、曽我さんのご家族に1日でも早く静かで平穏な生活が戻るように願っています。

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2004/07/18

党の存在意義

今回の参院選で矛盾を持たずに投票できた人はどれくらいいたのだろう。
つまり、自らの思いと投票行動を一致させる事ができた人という意味である。

私には,立候補者個人を選ぶにしても所属する政党の方針でその人の主張がしっかり生きて来ると信じる事ができない。
また、政党を選ぶにしてもその政党には今やありとあらゆる立場の人が混在し、政治的理念が見えてこない。

以前首相が「わが党にはさまざまな人材が揃っている。」といって自慢していたが、これは評価すべきことなのだろうか?
人材が揃っている事自体はいいのだが、理念の違う人たちが雑然と存在しているような現状では困ってしまう。
善意に受け取れば、さまざまな立場の自民党議員が民主的な話し合いで最善の策を検討していると主張したいのだろうが,それは国会でのあるべき姿なのであって、実際に党内で民主的に決めるなどはありえないのではないか?

国会でこれを行うことと政党内でこれを行うことと何が違うか。
それは党内で行われることは必ずしも国民の目に触れるものばかりではないということ、さらに国民が評価し、選択することすらできないということ。
つまりそこには本来の民主的な手続きなどは存在しない。
いわゆる談合以外の何物でもないということ。
議論の正当性を誰も評価できず,議論の正当性で結論が出たかどうかさえ確認できないのだ。

議員クラス(党幹部以外)が出演するテレビの討論番組などを見ればそれは顕著に表れる。
党を代表して番組に出演しながら「私は(党の決定に)賛成ではないが...」とか「私は党内でこのように発言をしている」などと言った言葉が出てくることが少なくない。
ここでは個人の理屈が出せるので多少は議論になっても実際に党が出演者の意見の立場で方針を決めるわけではないので議論しても国政に反映されることは少ない。

国会でも個々の議員の意思が党内で議論した時の立場を維持できればまだ救いはあるのだが、「党議拘束」がこれを阻むのである。
これが首相の言葉を借りれば「自民党は色々な意見があっても最終的には一つにまとまる」というもっともらしい言葉に置き換えられる物の実態。
これは自民党に限ったことではなく民主党にもいえる。
つまり今向かっている二大政党制のそれぞれの当事者が同じ問題を抱えているということ。

現行憲法下での自衛隊の派遣に反対の議員は自民党内でもかなりいたはず,逆に民主党の中には自衛隊の派遣に賛成の議員もいたはず。
公明党に至っては殆どの議員は反対を主張していた議員ばかりではなかったか。
このような国家の将来に関わる重大事が国民の代表である議員個々の良識で決められずに、「党議拘束」というもので「与党」と言う「政権」維持の為に歪められてしまう実態は憂うべき事態ではないのか。

理念の元に終結していたはずの政党は、今や単なる議員生産組織となり、政策は議員生産組織の内部で「国民の目の届かぬ」ところで「何が良いか」ではない理由で決められる。
立候補者はどの議員生産組織に所属することが議員になる早道かで党を決めていくような時代がきてしまうのではないか?

特に冷戦後はある価値観(イデオロギー)が圧倒的支持を得ることがなくなった、そして直面する政治課題も多岐にわたる。
理念の元に結集すること事態が難しくなってきている。
政治の上で現在の「党」と言うものの存在意義自体がもはや失われてきているのではないだろうか?

良識ある議員であればあるほど議員自体もそのことにフラストレーションを感じているはず。
むしろ、それぞれの政治課題毎に議員が自らの信条で党を組み議論していく方が議員にとっても国民にとっても良いのではないかと思えてしまうのだ。
少なくとも国会において「党議拘束」を撤廃し「超党派」を推進する手立ては無い物か?
個人主義が成熟しない「村社会」日本で今のような政治形態を採っていてはこのような激変の世界情勢のなかでは危険極まりない。
状況の変化とともに政治形態もそれに対応する必要があるのではないだろうか?

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2004/07/17

大切な物の再考

先のエントリーでも触れたけど、先般の参院選の投票率に見られるように我々の「民主主義」への認識には甚だ頼りなさを感じざるを得ない。
同じように、実は我々は「自由」や「基本的人権」と言ったものも我々自身が思っているほど理解していないものなのかもしれない。
私自身がそれほど深くは考えなかっただけだと思っていたが、最近の風潮や自民党の憲法草案などを見ると、そうでもないような気がしてきた。

我々は自分の「自由」を侵されることには敏感に反応するが他人の「自由」侵すことには鈍感、自分を尊重して欲しいとは思うものの他人を尊重することには無頓着。

保障されるべきは「全ての国民の権利」であることを忘れがちなのではないか。
(世界人権宣言を尊重するならば「国民」に限定する必要はなく単に「人」でもいいと思うが)

自らの「自由」を行使することで他人の「自由」を侵すことは必ずしも保障されてはいない。
同じように「自由」を行使することで他人の「基本的人権」を侵すことは必ずしも保障されてはいない。
「自由」「基本的人権」「個人の尊厳」と云った物は「全ての人」に摘要される時点ですでに「公」がそこに必然的に存在してくるわけであり利己主義とは全くかけ離れたものである。
「権利」と「義務」で「公」が成り立つと言うよりも「権利」そのものに「公」が既に含まれている。
国家が全ての国民にこの権利を保障する立場を「厳粛に」守ることで「公」が成り立つのではないだろうか。

なぜこんな事を今回書いているかと言うと
あたかも「基本的人権」が公共性を破壊しているような風潮が出始めているような気がしてならないからだ。
さらに、個人主義を利己主義と勘違いして振舞う社会になりつつある原因を「基本的人権」に押し付け、憲法に「基本的人権」への制約を義務として明記しようとする動きもある。(自民党の憲法草案)

実は憲法の12条,13条あたりには、このように必然的に発生する「公」とは別に念には念を入れて「公共の福祉」という制約まですでにつけられている。
私には、これほどまでに「公」を意識した「最高法規」に、新たに「義務」として付け加えようとする必要性が何処にあるのかが全く理解できないのだ。
最高法規に従う「法律」や「運用」で十分対応できるはず。
この「基本的人権への制約」は不必要であるばかりでなく人類が築き上げ、世界が共有しようと努力している理念
(ある意味ではアメリカの暴走も大儀の上ではこれを早急に普及しようとした物)
への逆行ではないだろうか。
さらに、国家に対する義務がシステム(政府)に対する義務に変質する懸念も充分にある。

このように国際社会に逆行する発想が臆面も無く表に現れる背景には、これらの理念に対する国民や政治家の認識不足があるような気がしてならない。

「自由」も「基本的人権」も私が生まれたときから存在し、普通にそこにあった。
戦後生まれの殆どの人にとってもそうだろう。
憲法論議が盛んな昨今、「民主主義」に対する認識同様、これらに対する認識についても専門家に任せるだけではなく私たち国民自身が自ら検証したほうがいいのではないだろうか。

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2004/07/12

参院選を終えて

参院選が終った。
投票率は前回並みの56%そこそこ。
民主党の躍進ということだが、前回なみの投票数で与党と野党の獲得議員数にそれほど差がないということは野党内でのパイの争いが主流だったということになるのだろうか?
公明党自身、そして自民党への公明党の選挙協力を考えると与党を支える公明党の組織票はまだまだ簡単には崩れそうもない。
投票率という母数が高くならない限りなかなか変わらないということか。
このような状況を見ると今後も公明党が二大政党化(あまりうれしくはないが)の流れの中で常にキャスティングボードを握っていくことになりそうだ。
いつもそうだが公明党の統制の取れた選挙態勢、投票行動は目を見張るものがある。
候補者に対する当選候補の歩留まりにしても他を圧倒する。
私の親族にも熱心な学会員がいて,しかも皆仕事にも人生にも非常にまじめで他人が困っていると見ていられないと言う愛すべき人たちなのだが、私の住んでいる周りにいる学会員は人の弱みに付け込む人もいてどうしてもこの組織は好きになれない。
しかし、信教の自由が保証された日本で、国民に与えられた選挙権を有効に活用していることに対して文句を言う筋合いのものではない。
国民平等に与えられた選挙権を行使しているかしていないかの違いだけで、気に入らなければ気に入らない人たちが選挙権を行使すればいいだけのことである。
(話はそれるが、公明党の掲げる理想と自民党の掲げる理想とはどう考えても乖離しているような気がしてならないのだが...
自民党の暴走を食い止める役目を果たしてくれることを多少期待したこともあったが与党となってしまうと旧社会党同様守りに入ってしまうようだ。)

公明党はさておき、投票率56%
どうしても投票できない人がいるとしても選挙に興味を持っていない人が4割近くはいるということになるのだろうか。
争点がないわけではない,多少興味があれば与党支持者にとっても野党支持にとっても、これまで以上に国の行方を決める大事な意思表明の選挙であったと言えるのではないか。
4割近くの人は殆どが反民主主義者なのだろうか?
民主主義とて万能ではないのだからそういう人がいても不思議ではない。
しかし、目にする事ができる「選挙に行かない人の意見」を見る限りではそうも思えない。
我々日本人の民主主義に対する「認識」がこの程度であると考えた方がよさそうだ。
確かに興味のない人に無理やり選挙に行けと言っても、投票の元になる問題意識自体に興味がなければ下手に風潮に左右されて投票されるのもナチスの例にたとえるまでもなく恐い話だ。

主権者が問題意識に無関心(変な言い回しだが)であったり、政治家に責任を転化したりするようでは「国民主権」は宝の持ち腐れ、「自由」や「基本的人権」など守れはしないだろうという思いは残る。
憲法において、なぜわざわざ第12条で
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
と謳っているかをもう一度噛み締めたほうがいい。
自由や権利はただそこにあるのではなく,絶え間ない努力で保持しようとしなければ失う性質のものだということを自由と権利を獲得した者が良く知っていたからではないだろうか?

いずれにしても選挙は終った、今回56%の国民が選んだ与野党議員の良識にすがるとしよう。

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2004/07/10

明日は参院選

私一人の一票が即、国政に反映するわけではない。
一人の意見で国の行方が決まってしまうのは独裁国家,専制国家
日本は民主主義国家だから一人の意見では動かない。
あたりまえのことである。

一人・一人の票が無ければ物事は変わりはしない。
我々は民主主義国家に住んでいるのだ。
あたりまえのことである。

政治家が最も恐れるのは一票の行方に他ならない。
政治家にとっては一票が自分に入る事はもちろんだが、他に入ることも無視できない最大の関心事である。
自分にも入らず,他に入る事もなければ関心など示さない。
既得権者はなおさらのことで、むしろ現状のままどちらにも入らなければそれに越したことはなく悠々と現状を維持できるのだ。
政治家を批判するのは簡単である。
実務を行なえば全てに100点をとることなど不可能なのだから批判をするところを探すのに苦労はいらない。
その中で60点と50点の選択をすることもあれば20点と30点の選択をする事もあるだろう。
しかし20点であることを批判するだけでは何も変わらない。
20点と30点の選択意思を示すことで変わっていく。
一見すると20点と30点の選択には無意味さを感じてしまう。
しかし、この選択をしっかりしなければ次は10点と5点の選択を強いられることにもなりかねない。
関心を示すことは政治家に緊張感を与え政治のクオリティーをあげることになる。
現代の政治は多岐にわたるうえ、政党の掲げる政策すべてに賛同することができるなどと言うことは不可能に近い。
どれも似たような物かもしれないし,どれも自分の意見には合わないかもしれない。
しかし、政治家に「私は影響力を行使する」という事を投票で表明するだけで、政治家は緊張せざろう得ないのである。

せっかくの選挙権である。
今の10点と20点の選択を次には30点と40点の選択にするために、少しは政治家に緊張を与えてみようではないか。

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2004/07/06

首相の演説

構造改革(道路公団の民営化や郵政民営化)についての演説を聞いて。

「民営化をする事に対しさまざまな反対意見がある中,それに屈する事なく民営化を実現した。 いろいろなことを言われたが結局は民営化により建設コストを半減する事ができた。」
といっていた。その象徴的な例として
「高速道路に設置する電話機の設置コストの大幅削減(250万→40万)」
を挙げていた。

道路族と言われる利権と関わる議員がいる自民党の中で民営化をしたのだから首相はそれはさぞかし大変な事だったろう。
しかし、よく考えて見れば自民党だから苦労しただけのことで、「国民の利益」に自民党自らが負の政策を続けてあけた大きな穴を少しばかり埋めただけのはなではないのか?
さらに、不要な道路建設を無くすと言う議論がいつのまにかその成果を語るときには建設コストの話に置き換わっている。
殆どの高速道路については結局建設続行ということになる。
根となる特殊法人も中途半端ならば、天下りの問題も抜け道だらけでは本来の目的とは程遠いのが現実。
高速道路ができれば無いよりあったほうが便利なのはあたりまえである。
ただ、今やろうとしている道路建設と、国家の赤字やその財源を使ってなし得る他の政策と比較して説明して戴かなくては困るのである。
借家に住む「莫大な借金を抱える者」が生活費も省みず、返済の見通しもつかぬのに、多少建築費を値切る事ができたからといって「生活にはマイホームのほうが何かと便利だから」と購入する者を見れば普通の人は呆れるだろう。
自民党で構造改革をしようとするから「妥協の産物」になったしまったのである。
「自民党は反対があっても協力する時はする素晴らしい党なんです。」といった言葉が何処から出てくるのか不思議でならない。
ここで出てくる「協力」は単なる「安易な妥協」であり、「実」の部分は道路族議員が取ったのではないのかな?
最近の反対勢力といわれた人々の顔色がよさそうに思えるのは私だけだろうか?
「協力がなければぶっ壊すといったが協力があったから壊す必要はない。」
という首相の言葉を聞いて、「屈しない」「党内の協力」「大人の党」とはこの程度の事だったのかと思うだけである。

参議院選挙の演説では「自民党」のよさをアピールする場だと思うのだが、「首相が抵抗のある自民党の中でいかにがんばったか」などというのはどうにもピントがずれ過ぎている。

ついでにイラク問題についても語ってました。

「多国籍軍に参加することはこれまでの活動と何ら変わりが無い。」
とのこと
多国籍軍に参加することは、日本がどう思おうと周りに対してメッセージを持っている。
日本という国はこういう国だと(イラク国民へはもちろん)世界に対してアピールすることになり、参加前と後では確実に変わるものがある。
それを、「良し」としない国民も少なからずいるから問題視している。
さらに、
「反対国の立場をとった国も含め安保理が全会一致で国連決議がなされた時に、国に自衛隊を返して意見を調整してなどといった事はできないでしょ」
「イラクの人々も日本の支援を期待しているのだから、それを無視する事はできないでしょ」
との論法
本人は嫌がっているようだが、これを「追認」といわずになんと言うのか?
難しかろうと、持ち帰らなければいけない。
このような難しい問題に直面する事が見えているから、自衛隊派遣を安直に決めるなということなのだ。
先を見据える事ができなかったのならば、はっきり言えば失政。
日本が戻るに戻れない状況になりつつある事を表わしているだけだ。
首相の言う「イラクの人々の意向」はアメリカ政府によって打ち立てられた「暫定政府の意向」であり、まだ選挙も何も行なわれていない政府高官の言動はイラクの人々を代表する言葉でも何でもない。
しいて言うならば「アメリカ政府の意向」である。
それを「イラクの人々の意向」に置き換えてしまうところは首相らしい。
確かにイラクは日本の援助は必要としているだろうが、アメリカ政府の元での自衛隊という形を望んでいるわけでもない事は再三言われている。
「イラク人の意向」に挿げ替えるのは辞めた方がいい。
彼らが自衛隊の滞在をある程度認めるのは、それ自体ではなく経済大国としての平和的な援助をこの日本に求めているからではないのか?

そのまま、多国籍軍に移行するほうが滞在根拠を必要とする手続きとしてシンプルなのは判るが、一国の理念に関わる事なのだから、煩雑であろうとも多国籍軍とは別に「暫定政府」と「日本政府」の政府間合意を取り付けるくらいの慎重さがあっていいだろう。
あまりに国家の将来に対して乱暴で,無責任すぎる。

もう1つ
「日本はあくまで日本の指揮下」
と盛んに訴えていた。
指揮下に入ろうが入るまいが首相自身がブッシュ大統領の指揮下に入っているようなものなのだから同じ事。
言葉は悪いが、このように認識している日本人は少なくは無いだろう。
何の保障にも担保にもならない。
首相にはこんな事は簡単に拡大解釈で無視するという「実績」があるのだから。


何かを為し遂げる為に「屈しない」のは結構なことだが、よい政策に対して「屈しない」事が重要な事なのであって、「良い政策」の抜けた「屈しない」だけには何の意味も無い。

とにもかくにも首相の演説はすり替えが多すぎる。
これだけのことを考えるのもさぞかし大変な事でしょう。
「グレーを白にするその努力、ごくろうさま」と言いたい。

最後に,楽しみにしていた年金について聞き逃してしまったのは残念です。

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2004/07/04

蓄積する思い

しばらく、仕事に追われ「心を亡くす」状態で投稿をサボってしまいました。
少しの間でも目を離すと色々な事が既に過ぎ去っている事に気付き、現代のせわしなさを実感します。
今日は思いついたまま書こうと思います。(いつもそうなんですが...)
一応イラク戦争に関連した事ですが、話があちこちに飛びそうな予感...


我々は同時にさまざまな共同体に属している。
(人が人であり、同じ時間軸の限られた空間で生きている以上、他者を無視する事が可能と考えるのは現実的ではない。必然的に何らかの共同体に属する事になる。)
家族、出身校、町内会,地方自治体、会社組織、趣味仲間、遊び仲間、国、民族etc
一口に社会といってもそれぞれに社会が存在しているといっても言い。
地域の運動会があれば自分の所属している「町」を意識して競い合いを楽しみ、仕事をしていれば自分が所属している会社の利益の為に他社と競い合う。
世界の問題を考える時は日本に属していることを強く意識し、文化を守ろうというときには強く民族を意識する。
同じように普段の生活をしていながらも、何に対して意識しているかによって、またそのとき何を重要視しているかによって「社会」の中身は変わってくる。
さらに「どの社会」に最も影響を受けていると認知しているかによっても「社会」の中身は変わってくる。
「社会」は人に少なからずの影響を与える物で、人の価値観などはこれらさまざまな社会の基盤となる価値観によって影響を受け、突然変異的にその個人が全く固有の価値観を持つなどという事はほぼありえない事だろう。
(この共同体は「社会」であったり「アイデンティティー」であったりして厳密には違うのだろうがここではあまり区別はしないで話を進めます。)

恨みを持つ場合もこれらと何らかの関係がありそうな気がする。

(個人に関してはここではとりあえず横においておくとして)
自分が属する「ある共同体」が屈辱を受ければ、その共同体に影響されている人ほど恨みは強く、共同体の存在が自分にとって大きければ大きいほど恨みは大きくなるだろう。
もともと、それほどその共同体に意識のなかった人も何かのきっかけで共同体を意識しだすと打って変わって同じような感情を持ち始めたりする。
感謝や恩といったものもそういう性質があるような気がする。

例えば会社という共同体に属し、この会社が他社に不当な屈辱を受けた場合、会社の一員であるという認識の強い人ほど屈辱を与えた他社に恨みを強く持つだろう、一方あまり会社という共同体に重点を置いていない人にとってはそれほど大きな影響は受けないと思う。
もともと、共同体に重点を置いていない人もそのために会社が倒産に危機に追い込まれ、自分の生活に大きな影響を与える事を認識し、この共同体に関心を持ち始めたら同じような感情を抱くようになる事もあるが別段不自然ではなく重点を置く位置が変わっただけで同じ事である。

旧ユーゴスラビアのように多民族を束ねていた共同体が大きな力を以って影響を与えていたならば、その中にある民族意識よりユーゴスラビア人としての意識が優先されていただろう。
そのときにはユーゴスラビアという共同体が屈辱を与えられればそれに対して怒りや恨みを持ち、違う民族という共同体の対立を超え連帯したりする。反対にユーゴスラビアという共同体が崩壊し民族を意識しだした途端、これまでの連帯は忘れ去られ、それまで陰に隠れていた対立(民族に起因した恨み)が亡霊のように頭をもたげてくる。

おそらく、日本でも愛国主義が進み国家を強く意識するようになれば、これまで棚上げになっている領土問題や一方的な歴史観なども今まで以上に無視できない物になるのだろう、さらに愛国心が強くなれば、これまでそれほど表面には出てこなかった第二次大戦で受けた米国からの屈辱(開戦に至るいきさつ、原爆投下、戦後の占領政策、さまざまな押し付け)やそれ以前、明治初期の列強から受けた屈辱ですら亡霊のように無視できないものとして大きな力を持ってクローズアップされてくるのではないかと思う。
特に日本人はこの共同体への帰属意識は非常に強い国民性(会社人間もそのひとつだし、イラクの人質事件への反応もその現れだと思う)を有しているように思われるのでいったんそのような傾向になったら非常に極端に走りそうな気配がある。
(若年層はさすがにそうでもないだろうと思っていたのだが、最近の出来事に関する意見などを見る限りあまり変わらないようで、そう簡単に国民性などは変わらないのだなと思い始めている。)

いずれにしても、一度にさまざまな共同体に属している事で、同じ「人」でも、その人の意識により現れる感情は極端に変化しそうである。

今、イラクでは米国の占領政策に一応見かけの上では終止符が打たれ暫定政権のもと、復興を目指している。
今のイラクの人たちにとって一番意識している共同体(アイデンティティー)は何だろう?
イスラム教徒である事だろうか
イラクという国家であろうか
シーア派、スンニ派やクルドといった宗派や民族だろうか

イラク戦争で受けた屈辱をどの共同体(アイデンティティー)で受け止めたのだろう。

イラク国民だけではなく中東諸国の人々の中には中東という共同体(アイデンティティー)に対する「屈辱」と受け取る人も少なくないだろう。
また、世界中に散らばるイスラム教徒にとってはパレスチナ問題と絡めイスラム教という共同体(アイデンティティー)に対する「屈辱」と受けとる人もいるだろう。

その恨みは今後いつ、どのような場面で顔を出すのだろうか。

ブッシュ大統領は、そんな事はお構いなしに自らの政策を自画自賛しイラン・シリアに目を向けているようである。
この自画自賛が彼らにとってどういう感情をもたらし、蓄積されていくかには全く興味がないようだ。
力で押さえ込むことができれば、その後には何も残らないと思っているように思われる。
おそらくこのような鈍感さが「9.11」を引き起こす要因ではないかと思ったりするのです。
(日本にも自画自賛し、利権や保身と国益を混同した鈍感な人が一名いるような気もするが...)
どのような社会も結局は人の集まり、このような部分にも、もう少し目を向けてもいいのではないか。

案の定、取り留めのない短絡的なものになってしまいました。
今日は徹夜でここまでが限界...少し寝ます。

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