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2004/06/29

主権移譲の前倒し

CPAからイラクへの主権移譲が前倒しで行なわれた。
この前倒しという措置は、主権移譲を注目の中で行うことを避けた点で賢明な策だったかもしれない。
さしあたっての大きな懸念は主権移譲と言う象徴的な日に「テロ」が政治的意味を持って行なわれることだった。
主権移譲の日に「同時多発テロ」が発生したならば、新しい暫定政権のイメージは発足と同時に貶められる事になってしまうところであった。
もし、この主権移譲がイラク国民の出口のない閉塞感に少しでも光を与え、不信感のなかに小さくとも「信頼」の種を植えることができれば幸いである。
恨みがその連鎖で広がるのと同じように、小さくとも「良い兆し」が次の新しい「希望」を生みその「希望」がさらに「大きな希望」を生んでいくのも事実てあろう。
連鎖は「恨み」だけのものではなく,「希望」にもあるはずだ。

世論調査で半数以上のイラク人が「これまでよりも良くなる。」と考えているという。
これまでの世論調査が必ずしも実情を現わしていなかったことを見ると鵜呑みにはできないが、それに近い数字である事を願うばかりだ。

とはいっても、実情が深刻である事には変わりはないだろう。
実際のところ、米国支配、悪い治安がこの日を境にコロっと変わるわけではない。
主権移譲後も「米軍」が前面出てこれまで同様、武力行使を続けることになれば、すぐに元に戻り、「希望」もすぐに萎んでしまうだろう。
米国人にはイラク統治の失敗は認める気運は高まりつつも,攻撃自体に対しては正しかったという者は今でも少なくない。
米国が「奢り」「欲」を捨て復興の「希望」を育てる事が唯一、アメリカが置かれている自らの窮地を救う事になるのではないか。

いずれにしても、ここ数週間の内にイラク国民が主権移譲をどう受け止めたか明らかになるだろう。
「恨みの連鎖」が「希望の連鎖」に変わっていく事を祈りながら、これからの推移を見守りたい。

ところで、日本政府はこの事を知らされていたのであろうか,もし知らされていたならば自衛隊の駐留の根拠の空白状況を作ったのは全く恥ずかしい限りで、知らされていなかったなら随分軽く扱われたものだ。

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2004/06/25

もう一度イラク

もうじき参院選が始まる。
イラクは政権移譲を前にして最悪の状態になっている。
選挙前に影が薄くなりがちなイラク問題にしばらく拘りたい。

サミット前に国連ではイラク復興に対して新決議を取りまとめた。
しかし、ドイツ,フランス,ロシアなどはアメリカのイラク政策に必ずしも手放しの後押しを約束したわけではない事は誰でも知っている。
言うなれば、アメリカとの関係を修復させる為に表面上の同意を示しながらも「火中のくりを拾う」ことは避けたというところだろう。
これは、アメリカのイラク政策ではいずれにしろ行き詰まるという予測がその理由の一つにあるのではないだろうか。

アメリカが「イラク政策の方針を変更する」、「イラク復興の主導権の独占を諦める」、などの変化が見られない限りはおいそれとは手を出せないと思う。
上記の国々は自国の利益,生命,財産を考慮したうえで、主権移行後のイラク、アメリカ大統領戦後のアメリカの戦略の方向性を見極めてからでも遅くないと思っているのではないだろうか?

(話はそれるが、優秀な土木技術士が職を失って困っている中で、彼らに仕事を任せれば数十分の一でできる仕事を独占しようというのだから呆れる。その資金は何処から出るの?日本などが出す復興資金?、それでまかなう事ができない時は債務をイラクが負い、その債務でイラクを抑え、石油で払わせつづけるの? 復興支援が聞いて呆れる。しかもこの思惑がイラク人にはバレバレ)

これらヨーロッパの国々に比較して日本政府がイラクの収束をどのように予測しているのか良く分からない。
日本国民の利益、生命、財産を預かる日本政府がどのような根拠と予測の上で今の米国一辺倒の政策を
続けようとしているのかが良く分からないのだ。
「イラクの安定化」だけでなく「テロとの戦い」の今後がどうなるかの予測は日本の将来に大きく関わってくる。
日本の経済、資源確保、自由貿易を左右する中東・テロ問題は下手をすると対中国、北朝鮮を想定した安全保障問題よりも差し迫った切実な問題に発展しかねない。
六ヶ国協議の枠組みができ対話の場が持たれている現在の状況では、極東での有事による国民の犠牲の発生確率とイラク問題から派生するテロによる国民の犠牲の確立とどちらが高いかといえばテロによる犠牲の発生確率のほうが高いのではないだろうか。

イラク戦争前に「パンドラの箱を開ける」事の危険性を指摘され国連での反対意見を押し切って進められた米政府のイラク攻撃が指摘通りのテロ拡散を招いている状況になっても、日本がアメリカの政策を支持するにはそれなりに現実的な現状打破の見通し、予測を持っていてしかるべきだろう。

しかし、政府からの説明は「テロに屈しない」の一言で終ってしまう。
無差別殺戮としてのテロを許す事はできないのは当然のことで誰も異論など持っていないだろう。
敢えて「テロはいけない」などといった説明の繰り返しは要らないのだ。
ブッシュ大統領の勝利宣言から今までと,これからは違う という根拠が何処にあるのか説明しないのはなぜなのか?

政府は今の不安定な状況は将来の安定の為に避けて通れない予測された過程であり何も心配など要らないとでも言うのだろうか?
アメリカ式の「テロに屈しない」政策が今のところテロを拡大しているという認識がそもそも無いのであろうか?
説明が無いから全く判らない。

アメリカでは既にこれまでの「見通しの甘さ」や「捕虜扱いの不正」は議会でもマスコミでも調査、認識し、その現実に基づいてどう対処していくかの議論も出始めている。
大統領選挙でもこの点は争点になるであろう。
ある意味で多少正常化し,権力に対する監視機能が動き始めている。
日本ではこのような現状認識や監視機能が政治の場において確認された形跡は無い。
むしろそこから目を背け、争点をぼかす事に躍起になっている。

政府与党の皆さん、国の大事をごまかして煙に巻くのはもうよそう。
前提が間違っていた事や予測が外れた事を誤魔化すのと、国が現実を無視した前提で間違いを犯さない事とどちらが大事なの?
「自らを守る」事のほうが「愛する日本を守る」事よりも大事なの?
皆さんも日本人でしょう。

日本は日本として現実を認識し、米国の「同盟国」ならば「同盟国」らしく米国にとっても日本にとっても不利益になる事には「強く換言」する選択肢があってもいいではないか?
そんな事で同盟関係が崩れるならさらに深刻な有事には役に立たないでしょう。
なぜアメリカが孤立する状況を黙視して何もしないの?
自衛隊の多国籍軍参加はブッシュ大統領を喜ばせてアメリカ国民を欺く手助けにはなっても国際社会との協調を遅らせるだけではないの?
アメリカに同調する立場をとるのなら日本はアメリカが孤立すればするほど困るんだよ。
アメリカが「非道」を繰り返せば繰り返すほど困るんだよ。
アメリカは多少孤立しても生きていけるが日本は違うんだよ。

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2004/06/23

連鎖の恐さ

イラクで人質となっていた韓国人 金鮮一氏が殺害されたという。
イラク戦争で日本と非常に似た立場にある韓国に起きた悲劇は人事ではない。

「イラクへの派兵はイラクの復興の為」
と言う韓国政府の声明は
「嘘をつくな、イラクのためでなくアメリカの為のものだ。」
との声明とともにあっけなく無視されてしまった。
おそらく日本がそうであるように派兵の本質は「米国の為になる事が韓国の国益になる」との判断であることに間違いはないだろう。
政治や外交の世界で通用する「言い訳」も国家に身を置かない「生身の抵抗者」には通用するはずもないことを見せ付けられる。
韓国政府も「米国の力によるテロとの戦い」を支持し「イラクのため」という「大儀」を掲げている以上、彼らがテロをエスカレートすればするほど、なおさら引くわけには行かない。
「抵抗者」はそれを見てさらに韓国に対する「敵視」を露にするだろう。
韓国政府は「抵抗者」の「敵意」が強くなればなるほど、身を守る為の必然としてこれまで以上に「抵抗者」に対して「強行」な対応をとらざるを得なくなる。
また、それが自衛の為やむなしと正当化されていく。
その力の行使が米軍同様それまでテロリストとは関係ないもの達の被害を呼び反感を助長し新たなテロリストを製造しつづける可能性は大きい。
一方で正当化が韓国人自身のテロリスト化した「抵抗者」に対する「恨み」を助長していく。
現実が要求する「必然性」を考えれば、政権担当者にとってもっとも困難な「断ち切る」勇断がない限りこのような流れを予想するのは必ずしも極論にはならないだろう。

既に連鎖は始まっている。

日本が「韓国と日本は違う」と言っても、「抵抗者」らにとっては区別する意味も必要性もない。
まず、同一視される事は間違いない。
実際に違いもしない。
我々がどう思おうと,受け取る側の意思を変えることなどできない。
そうなった時は日本がたどる道もおそらく似たような物だろう。

連鎖は深まれば深まるほど後戻りする為に必要なエネルギーは大きくなる。
小さいエネルギーで戻れる時に戻れなかったものが、より大きなエネルギーを必要とするような状況で戻る事ができるはずもない。
すでに、そうなってはコントロールの枠外となり、我々は次から次へと現れる「より過酷な現実」になす術なく翻弄されていく事だけは覚悟しておいたほうがいい。
そこには理性が入りこむ余地はない。

「連鎖」の恐さはここにある。

好むと好まざるとに関わらず今の時代と将来に我々は責任を負っている。
「無関心」も「勇ましい」も「欲深い」も選ぶのは我々次第だが、もし不幸にもそうなった時は少なくとも後世の人々に「世界の流れに逆らう事ができなかった」などと見苦しい言い訳をするような醜態だけは見せたくないものだ。
我々は自らの意思で「流れを止めようとはしていない」のだから。

アメリカ政府が「大儀」で交渉可能である国家を破壊し、大儀の通用しない「生身の抵抗者」を世界中にばら撒いたツケは反応するエネルギーを使い果たすまで続くことになるのであろうか?

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2004/06/21

サラエボの冬を見て

昨夜、NHKスペシャルでイラク戦争前夜のバチカン外交、BSのアーカイブス サラエボの冬 を続けて見た。
ローマ教皇が開戦前にフセイン元大統領、ブッシュ大統領にメッセージを送っていた事はリアルタイムのニュースで知ってはいたが、実際にどのようなやり取りが行なわれていたかについては初めて知った。恥ずかしながら、教皇が過去の十字軍の間違えをあのような形で認めたことは知らなかった。

しかし、教皇の送った使者に対してブッシュ大統領が「この戦争が簡単に片がつく」と言うような事を側近に言わせたというところは忘れられない。
世界でもっとも力を持つ国家のリーダーがこれほどまで甘い見通しで戦争という挙に出てしまうことの恐ろしさを感じてしまう。
むしろ、深謀があったほうがどれほど気が楽か。
これについてはまたいつか書いてみたい。

「サラエボの冬」は冷戦崩壊後の民族戦争の難しさ,複雑さ、そして愚かさを考えさせられる。
それまで隣人として平和に暮らしていた人々が民族というアイデンティティーを「権力を握りたい政治家」達に利用され対立を深めていく構図、マスコミにより昂揚された民族意識が忘れていた歴史の怨念をよみがえらせ、隣人を殺し、家族を分断し,次から次に襲い掛かってくる「目の前の現実」の波に無抵抗に突き動かされていく姿を映し出している。
そこでは、権力を握ろうとした政治家ではなく踊らされた弱者から死んでいく。
誰しも戦いを辞めたい、でも辞めるわけにはいかない。
こちらが辞めても,相手が辞めるとは「互いに」思わないから辞められない。
何をしているか分からぬ中で「人の心」を失い、想像できない残虐行為が行なわれる。
すでに当初幻想していた民族の理想の姿などなく、大事な国土は荒廃し、多くの大事な物を失い,全てを消耗していくだけの世界。
以前「連鎖は続くよどこまでも」で同様の事をパレスチナについて書いたことがある。
一度、宗教,民族の憎しみの連鎖に足を突っ込めば、互いにぼろぼろになるまで止まらない。
おそらく、テロとの戦いもそうなのであろう。

我々日本人も同様の事が今起こりかねない崖淵にたっているのではないだろうか。
我々はそんな事は起こりえないなどと考えている。
サラエボに住むこの番組の主人公達もちょっと前までこんな事になるとは夢にも思っていなかった。
一体どんな根拠で「日本には」起こりえないと安心できるのだろう。
いつのまにか「平和」という言葉が陳腐に聞こえ始めていないか?
「平和」のような理想主義が戦争を引き起こすという意見に惹かれながら、軍隊を持つ国が軍隊を持つがゆえに戦争に突入するケースのことをすっかり忘れていないか?
今、醸成しつつある政府の「押し付けの愛国心」政策は、つい最近、彼の地で行なわれた「アイデンティティーの昂揚」とは違うとなぜ言える?
すでに、この「似非愛国心」が対北朝鮮、対韓国、対中国に利用され始め、私たちや周りの人たちの中に何かを芽生えさせ始めていないか?
両者が冷静に協力して共有できる歴史観を持とうと努力をする前に、近隣諸国の歴史観に対する反発感情が先行して来てはいないか?
特に発展目覚しい中国に対して「不安」や「不信」を募らせ始めていないか?
同様に経済的に力をつけ始め自信を持ち始めた中国でも同じように「反日」感情の昂揚傾向が見られないか?
それを見て日本人は「相手がそう出るなら我々も」などと思い始めていないか。
「中国や韓国や北朝鮮などになめられてたまるか」などと思い始めていないか?
相手も「相手がそう来るなら我々も」と思う事を想像できなくなっていないか?
勇ましくなければいけないと思い始めてはいないか?
我々の心の中にこのような感情が芽生え始めてきていたら、我々は「憎しみの連鎖」に既に足を踏み入れているのかもしれない。
現政府は法律を捻じ曲げる事にいささかも躊躇がなく,既に「目先の現実」で国の行方を決められるという前例を作ってしまっているのです。
政治家が安直に政権維持や国威昂揚の為に行った事でも、それが引き金となって渦に巻き込まれれば彼らでさえ止める事はできず、何もしなくとも勝手に「我々自身」がそれに拍車をかけて行くだろう。

「憎しみの連鎖」は「どちらが本当に正しいか」などとは全く関係ないところで、両者がそれぞれ「違う事を妥協ができぬほど強く思い込」んでいさえすれば,それだけでそこに陥る為の必要十分条件になる。

「互いに冷静に理解しようとする努力」を忘れた「こちらが正しく」「相手が間違っている」という認識の先には両者の莫大な損失が待つだけではないだろうか?
仮に紛争まで発展しなくとも、「両者にとって」不利益が待ち構えているだけだと考えたほうが良い。
目を開いて歴史や今の世界を見渡せばそんな例を見つけるのに苦労する事はない。

「サラエボの冬」は私にそんな事を訴えているように思えてならない。

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2004/06/19

「誇り」を失わせるのは「政府」?

自衛隊の多国籍軍派遣が閣議決定した。
憲法上のこれまでの見解を超えての決定ということになる。

どのような法律も「事象」を事細かに全て網羅する事は到底できない。
この隙間を、最も関連のある法律、社会通念、過去の判例などといったもので埋めていく。
どうしても埋めきれない場合は新しい法律を手続きに従って決めていく。

法律の理念に問いかけ、どの法律に関連付け、解釈し、社会通念にどのように照らし合わせ、その隙間をどのように埋めるかが法治国家としての信頼性が決まるといってもいいと思う。
どの法律に関連付けるかは法の解釈によって違う事もあるであろうし、社会通念も人間社会である以上、それが何か決まっているわけでもない。
この隙間の埋め方に多くの人が疑問を持つようであれば「法治国家」の信頼性は下がり、多くの人が納得すれば信頼性はあがるといった類のものではないだろうか?
社会は法律を遵守するのはもちろんだが、人が全ての法律を遵守したからといって「安全」や「安心」が保たれるわけではなく、法律と法律の隙間を社会がどう扱うかで「安心」や「安全」が大きく左右されるのではないだろうか?(私は法律家ではないので一応?を付けておきます。)

政府の自衛隊派遣に関する一連の手続きはどんなものであったろうか?
憲法の理念に沿っているのか、憲法9条に抵触していないのか、国民の一般認識に沿う物なのか、過去の解釈に合ったものなのか、そして、もし現状に合わないのならば手続きに沿って見直しが行なわれたのであろうか。
殆どこれらを立法府で議論される事はなかった。

現行の日本国憲法が「現実」に合致しないと考え、その矛盾に折り合いをつけるために政府の解釈を致し方ないと思う国民もいる、同様に「現実」に充分則していると考え政府の解釈に反対する国民もいる。
しかし、少なくとも殆どの国民は自衛隊派遣も多国籍軍参加も「現行憲法の理念、文言」に合致していない事は知っている。
現政府のもっとも大きな罪は
現実に直面し手続きを省略して「憲法の社会通念」に反する「政府の憲法解釈」によってイラク政策を押し通した事。
ではないだろうか?

社会通念を無視すれば技術的にはどこまででも解釈を捻じ曲げる事はできる。たとえ捻じ曲げた物であろうと国会で過半数を持つ与党が「法律に沿っている」と言い張ればそれを即座に阻止できる物はない。
しかし、国民が「法治国家」としての日本を信頼する事はできないだろう。
既成事実で物事を変えていこうなどは法治国家として愚の愚である。
意識的、無意識的に「法治」を軽視し、そのような風潮に麻痺していくに違いない。

どんなに私たち自身がこの矛盾を納得させようと、法治国家として国際社会に向かって堂々と主張できるような法解釈でもなければ、法手続きでもない。
はっきり言って私は恥ずかしい。
法治国家に住む日本人として、この政府の政策決定過程に「誇り」など持てない。
国民に「日本人の誇り」を失わせるようにしているのは政府自身なのではないか?
国際社会に「誇り」を持てるまともな政治をやって欲しい。

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2004/06/16

悪意のない愚者

昨日と今日の違いはわかる。
あの時からずっと「昨日と今日の違い」は分かっていた。
違和感などは感じない。
それなのになぜあの時と今はこんなに違うのか。
考えるのは辞めておこう。
あの時を思い返すには遠すぎる。
明日を想像するにはつらすぎる。
とりあえず今は忘れよう。
そしてまた「昨日と今日の違い」だけを気にしながら「本当は知っていたはず」の「来るべきその時」をじっと待つ。

有事関連法案成立
「昨日と今日の違い」がまた1つ積み重ねられた。

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2004/06/12

「教育基本法の改○」

戦後日本は「人権」「自由」「民主主義」を教えてきた。
その結果、奔放になりすぎ社会の中で「公」を省みる事がなくなった(?)と考える人がいる。
この事態に対する危機感から「愛国心」を養おうと言う気運が以前より高まってきている。

ところで本当に「人権」「自由」「民主主義」がこの事態を招いたのか?

これは、たぶん違う。
個と公がこのシステムの中で対立するものではないことは先進国では常識的な認識ではないだろうか。

偏った教育が「人権」「自由」「民主主義」を、単語、システムといった「知識」としてしか教えず、集積された「知恵」としてこれを理解する教育が行なわれてこなかっただけではないのか?
これらを守るのがどんなに大事で、難しいかを教えていないだけではないのか?
何がこの大事な思想を機能不全に陥れるかに気づく知恵を授けていないだけではないか?

どれだけの子供たちが本当に「人権」「自由」「民主主義」を理解しているのだろう。
これらの教育を受けて育ったはずなのに
「民主主義は多数決だ」と言う認識しかない大人や
「選挙で選んだ以上は国の政策に批判などするな」と言い出す大人や
「私一人が選挙に行っても何も変らない」などとあたりまえの理由で選挙にも行かない大人がこれだけいることを見ても、とてもこれらの教育が正しく行なわれてきたとは思えない。
さらに、実務者である政治家ですらこれよりもひどい発言をしている現状を見ればなおさらだ。

「人権」「自由」「民主主義」の中に「個」と「公」の最適化を実現する知恵があることを理解しようとする前に、「公を省みなくなった」事態を「公を省みろ」と即効性のある法の力で強制しようとして持ち出したのが与党の「教育基本法の改正」なのではないだろうか?

しかし、これは副作用の大きい薬のような物だと思う。
現れた症状を一時的には抑えても、あちこちに副作用を引き起こし、生命にも危険を及ぼす麻薬のような物なのではないか?


「東京裁判」は裁判としてはこれほど公正に欠いた裁判は無いとは思うけれど,その中で明らかにされた事実には考えさせる物がある。

「愛国心」を徹底的に叩き込まれた多くのエリート軍人(将校)が,迫り来る本当の現実を知りながらそれから目をそらし、優秀な頭脳を生かせず,発言もできず、システムを維持するために「勇ましい誤った判断」を繰り返したことで、どれだけ多くの兵士や国民そして日本に損害を与えたかの記録だと思う。
いざとなった時にシステム(国家)に対する「愛国心」は役に立たなかったばかりか「強制」の弊害が前面に出てしまった感がある。
上層部とは違い多くの一般兵士は愛国心ゆえに各地で最後まで頑強だったと聞く,果たして彼らは教えられたシステムを対象とした「愛国心」を胸に亡くなっていったのか? 
「両親」「恋人」の住む「故国」の「風情」「大切な思い出な思い出」などといった自然発生的な「愛国心」を胸に死に向かって突撃したのではないかと思うのは戦後教育を受けた私だからだろうか。
東京大空襲の中を逃げ惑った両親から聞いた戦中の話、特攻隊員の手紙などを見ると、こう考えてもおかしくないと思うのだが。

すぐ極端な「戦争の話」に結びつけるとお叱りを受けそうだが、人工的な愛国心は後戻りができない分、冷静な判断を誤らせ、それこそ国益に反する結果を呼び寄せてしまいそうな気がしてならない。
9.11以降、イラク戦争前のアメリカ国民の「愛国心」は燃え上がり使命感に震え「愛政府心」と一体化してアフガニスタンを経てイラク戦争に突入した。
実際にさまざまな「目に見える思わしくない結果」が出始めた今,我々はアメリカ人がその時(今も)冷静な判断をしたと評価しているだろうか?
私はアメリカは冷静さを欠き、できもしない、やらなくてもいい手段を選んでしまったと思っている。
しかし、これは人事ではない。
この極東においても「日本から見ると」挑発的な周辺諸国の動きがいくつもある,この中でこの手の「愛国心」に火がついた時に冷静な判断ができるだろうか、抑える自信があるのだろうか?
こんな中でたとえ中国国内で反日感情を煽る動きがあろうとも動ぜず、冷静に石油採掘問題に苦情を申し入れ、理性的な話し合いで両国の利益を見出す自信があるだろうか?
より優位にたって問題にあたりたいという「政治的な駆け引き」が「昂揚した感情」で予期せぬ方向にいかぬ自信があるのだろうか?
多勢になびく国民性を考えればまず自制はできず無益な感情の対立を深めていくだけのような気がする。

「愛国心」を意図的に植え付けることにはやはり反対だ。

そんなことよりも、本当の「人権」「自由」「民主主義」をしっかりと「理解」させる教育をして欲しい。
宗教的善悪感の薄い我国にあっては、先人の知恵である「モラル」(道徳)を理を尽くして教えて欲しい。
その中から学校という小さな模擬社会で「公」の必要性を自ら気づく知恵を与えて欲しい。
「愛国心」など前面に出さずに、今ある科目の中で外国人も一目置く「日本の文化」のよさを伝えて欲しい。

「愛国心」を押し付ける事でよい社会を目指すよりも、この方が余程リアリティーがあると思うのだが。

最後に、国民の風潮がどうこう言う前に 政治家が自らその規範を示す事が先決であると戒めて欲しい。

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2004/06/10

我々はイチコロ

まだ野茂が近鉄にいた頃、ロサンゼルスで後半戦の地区優勝をかけて戦うドジャースを見て以来大リーグをTV観戦するようになった。(カナダに住むようになってからは当然ブルージェーズ)
あの自由な雰囲気、まばゆいばかりの芝、デイゲームの明るさ、ホットドック そして7回の"Take me out to the ball game"  アメリカンだなと思いながら観戦したことが目に浮かぶ。

時は流れて今もTVで大リーグを見ている。
しかし、以前好きだった7回が今ではすっかり重くなってしまった。
国歌斉唱は以前からゲーム前にあったけれども,それに加え”ゴット ブレス アメリカ”が歌われるようになり、これでもかこれでもかと愛国心を煽るアメリカ政府の姿がつい重なってしまう。
アメリカ国民の大好きなアメリカのベースボールで、毎回毎回歌われる効果は大きいだろうなと思いながら眺めている。

今日、私は日本ーインド戦をTVで一所懸命応援していた。
試合の前に歌われる国歌、ゴールが決まるたびに振られる日の丸、実は私はこれらに全く違和感を持っていない。
特にシンプルでデザイン性に優れた日の丸は昔から好きだった。
純粋に私が住む日本のチームが活躍し、日本チームが勝つことを願い、そのために応援する。
そんな中でTVコマーシャルが流れる。
スポーツメーカーのコマーシャルと一緒に、フレーズは忘れたけど小泉首相が出てくる自民党の「日本を考える」とか何とかいう画像が流れた。
その瞬間 自民党→憲法草案→義務化 国歌・日の丸強制 といったものが頭をよぎる。
サッカーを通じて持つ私の中の自然な「愛国心」が見る見る沈む。

「とうとう、こんなところにも現れた」

普段「愛国心」など持たぬ国民(特に若者)が唯一「愛国心」をくすぐられるスポーツの国際試合に目をつけ、さりげなく人気のある(?)小泉さんが「愛国心」をやさしく語る。
さすがに自民党は「ツボ」を心得ている。
このようなメディア戦略をこれからも続けられたら,我々はイチコロだ。
サポーターがフーリガンになる日がこなければ良いが。

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2004/06/07

古い自民党と社会党の集まり?

「古い自民党と社会党の集まり」

街頭での首相の演説にあった民主党を指したフレーズだ。

良く考えれば大して意味のない言葉であるが、単語の持つイメージをついた非常に首相らしい台詞だ。
「古い自民党」と言う言葉には「金権」とか「癒着」「利権構造」などといったイメージがあり、国民には大きな拒否反応を抱かせる。
首相は単語のもつ意味を田中真紀子議員と一緒に散々使い、その効果を熟知している。
「社会党」と言うフレーズは「崩壊した社会主義体制を引きずる理想主義の既に役に立たない古い遺物」の同義語である。

何気なく聞いていれば「うまいことを言う」と、またもや脳みそにイメージを植え付けられそうだ。

実際のところは「古い自民党」は、自民党内に厳然と存在し,改革という言葉の裏で益々「本当の改革」を骨抜きにし続けている。
それだけではなく「古い自民党」の思想をさらに踏み込み、今まで以上にさまざまな方面で「保守化」しているのが実態である。

一方「社会党」であるが、いまさら持ち出す言葉でもない。
党もなければ55年体制のイデオロギーも既にない。
実際は、今ある左派的な要素はヨーロッパの(以前の)自由主義諸国ならばどこの国でも普通に持っている「左派」程度の物だ。
草の根的なもの、平和的なもの、庶民的な受け皿、社会保障、自然保護などといった、あっても何ら不思議のない物ばかり。

日本の庶民の不幸はいまだに55年体制下の「共産主義イメージ」 を 「左派的なもの」と混同し、アメリカ以外のヨーロッパの政治の舞台で大きな存在感を保っている「左派的なもの」が死滅していると勘違いさせられ、的外れの「拒否反応」をもっていることだ。
我々日本人はどうやら多くが自分のいる場所を「庶民」ではない思っているらしい。
年金問題では「庶民」であることを嫌と言うほど味わっているにもかかわらず。
まったくもって、一部の利権に預かる者の思う壺である。

このような首相の「イメージ」フレーズにこれからも惑わされていくのであろうか?

ついでに思い出すといい。
なぜ総理が日本の首相になりえたか?
利権にまみれた自民党のままでは国を変えることはできない、かといって民主党では頼りない。
そんなときに「古い自民党をぶっ壊しても改革する」という言葉を多くの国民が信じたからである。
そのときに言っていた「改革」とは「社会党と古い自民党の集まり」である民主党の改革案の焼き直しにすぎなかった。

たまには原点に戻って、今回の首相のフレーズを味いながら、あの頃と今の姿をじっくり比べてみるのも悪くない。

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2004/06/05

できてもしない事

誰しも人を憎む事がある、人を傷つけたり殺めたいと思う事もある。
しかし
爆弾を持っていればできるが、しない。
銃を持っていればできるが、しない。
刃物を持っていればできるが、しない。
金槌を持っていればできるが、しない。
少し大きめの石があればできるが、しない。

人が見ていなければ、誰もとがめる事はできない。
しかし
欲しいものがあれば盗む事はできるが、しない。
家に火をつけることもできるが、しない。
ごみを捨てる事はできるが、しない。
信号無視もできるが、しない。
レイプもできるが、しない。
囚人を虐待できるが、しない。

相手が自分よりも弱ければ、相手をどうにでもできる。
しかし
子供を殴る事もできるが、しない
いじめる事もできるが、しない。
絞る取る事はできても、しない。
無理強いする事はできるが、しない。


人は できる側、される側のいずれの立場にも立っているからしない。
できる事はたくさんあっても、しないから安心して暮らせる。
自由とか自己責任とは別の、その基盤になる「モラル」の問題である。
しかし「直面するものは違っても、人は必ずいずれの側にも立つことになる」
という非常にシンプルな物理にも似た法則すら認識する事ができなくなった。
「しないことができなくなった」社会で不安の中に暮らしている。


国会で過半数を占めればどんなに国民が反対しようと法案を通す事ができるが、しない。
これも同じく政治家の「モラル」ではないか?
「できる事だがしてはいけないこと」 をされる気持ちはたまらない。
される側に立ついい機会ではあるが、国の最高機関でのモラルの低さはいかんともしがたい。
この社会的な影響は計り知れない。

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2004/06/03

なめられる国民

最近の与党の政治家の姿勢には本当に驚かされる。
国民に選挙での選択肢が無いことをいいことに...

なぜ彼らは自らの「理想」や「現実」や「妥協」を口にして国民を納得させる努力を怠るのか?
なぜ問題をすり替え口先の言葉で国民をごまかそうとするのか?
なぜ7割もの国民が反対しているような法案を無理やり通そうとするのか?
なぜ自らが正しいと思うのなら言葉を尽くして7割の国民を説得しようとしないのか?
なぜ目に見えない姑息な手段で世論を操作しようとするのか?
マスコミが正しく伝えないというなら、権力で押さえ込むようなマネなどせず、積極的にマスコミと自らの論を持って自らの言葉で対決すればいいのだ。
マスコミがそのような場を提供するのを拒んでいるとでも言うのか?
マスコミの批判に耐えることができない政策だと自ら認めているのか?
マスコミがおかしいと思ったら我々国民がマスコミを非難するからマスコミに圧力をかけるような余計なことはしないでもらいたい。
信念の無い政治家など要らないが、説明もできず、納得も得られないような信念は信念ではなくただの思い込みではないのか。
反対意見があるのはあたりまえ。
抑える必要など無い。
国全体が同じ意見なら民主主義など必要ない。
より多くの賛成を得る努力を放棄することが問題なのだ。
未成熟な世論が政策の邪魔をするのではない、納得できる政策、説明、説得が無いから世論が成熟しないのだ。
世論やマスコミとの対決や批判を恐れ国民を説得できぬような政治家は日本の為にならない。
今の風潮の先端にいる政治家に「愛国心」云々言われるのは片腹痛い。
政治家にあきれ、あきらめ、直視に耐えない態だと思っていることを理解したほうが良い。
強制されずとも我々にも国を大切に思う気持ぐらいはある。
政治家だけが国を大事に思っていると思われてはかなわない。

彼らは「国民を導くのは我々だ」と考えている。
彼らにとっては我々国民は「自由」と「身勝手」の区別もつかぬ未熟者でしかない。
国民などは信用していない。
つまり、民主主義を信用していない。
民主主義の自己責任を理解していない。
日本の将来を決めるのは政治家ではない。
どのような将来になろうとも日本の将来を決めるのは国民だ。
民主主義は国民の自己責任の産物である。
政治家の思い込みで決めた国の将来に政治家が責任など取れるわけが無い。
国の将来に責任をとる事ができるのは国民自身以外には無い。

結果的に、どんなに間違った将来になろうともである。
政治家が尊敬に値するのは、より良い方向に向かう為のビジョンを持ち、それを国民に訴え納得を得る能力があるからではないのか?
政治家は国民の指導や規制ではなく、理解を得るのが仕事のはず。
そうすることで国民も政治に関心を持つのであって指導も規制も必要ない。
さもなくばこの国の「民主主義」などという看板はさっさと下ろすことだ。

それにしても、我々国民も随分なめられたものである。

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2004/06/02

一般人の妄想

荒っぽい考えだけれども、イラク戦争はアメリカの国益を宗教的な正義の価値観にうまいこと載せて行使された戦争なんだろうなという印象で見ている。
アメリカ人はイラクに自由と民主主義をもたらす事が正義だから支持している。
「国益」だけで、「正義」という裏づけが無ければおそらく戦争に踏み切ることなどできなかったと思う。
(その正義が虐待事件、大量破壊兵器の嘘で揺らいでいることはアメリカにとって深刻なこと)

一方でアルカイーダもイラクの反米勢力も「ごう慢な物質主義の異教徒の暴力」という悪に立ち向かう事を「正義」だと信じてテロという手段であろうと正当化している。

フランス、ドイツ(ロシアは良く分からない)などもイラク利権という国益をうまいこと米国とは別の見地から宗教的な「正義」と整合性をつけてこの戦争に反対の立場をとっている。

どの立場を見ても宗教的な「正義」を無視して「国益」や「利」だけで動いているところは無い。
直接の当事者たちは一神教的「正義」を基盤に人々の支持を得ているというところを無視してはいけないと思う。
アメリカ,ドイツ,フランスといった国を日本の感覚で国益だけで論じることは全くナンセンスだと思う。

わが日本は恐らく国民も政府もアメリカのイラク戦争を「正義」などと思って見てはいない。
日本的なわずかに残った道徳心(もちろん仏教、神道の影響はある)からすれば、イラク戦争を正しいことだと思うはずがない、だからといって民主主義の恩恵にあずかっている以上間違いだとも言わない。
「こちらの言うことももっともだが、あちらの言うことも分かる。」と言うような独特の感覚があるから。
「正義」だなどと言い切る感覚にはどうしても違和感がある。
たとえ,言ったとしてもそこには無理がある。

しかし、白黒はっきりさせる一神教が世界の主流であり、それに同化しようとすることが国際化だと考える日本だから国益(利)だけを判断の材料にしようとするのかもしれない。
「金は出しても血は流さない」という批判の根はこんなところにあるのかとも思う。

もしかすると、明治以降の政府はこのような国際社会に対抗する為に天皇陛下を中心とする一神教に順ずる価値観(求心力)を確立しようと試みたのだろうか。(今の自民党も)

いずれにしても、このような中で珍しく日本はアメリカ政府の政策を全面支持し「正義」を掲げようとした。
曖昧さにウンザリしている国民はこの言葉に爽快さを感じる一方で一所懸命、納得できない「正義」をいろいろな言葉を使って納得させようとする。
その姿には実に涙ぐましいものがある。

しかし、所詮付け焼刃であり、国民の感覚と「アメリカの正義」とに整合性を付けることはできない。
将来、国内的に矛盾を生み社会にも教育にも大きな問題をもたらすだろう。
このような無理をしても出てくるのはイラクの人質事件に見られるようなバッシングなどといった世界からは奇異に映る現象だけだ。
自衛隊の派遣、撤退の判断も一致した整合性が無いから曖昧になり効果も出せない。

冷戦後の世界はこの「正しさ」のバックボーンにある宗教、民族の対立が原因となる紛争が増え深刻化している。
妥協の無い宗教の「正義」と「正義」のぶつかり合いは一方的な勝利か泥沼に陥り、怨嗟を広げるだけでその解決策は見えない。

国際貢献という立場にたった場合、ただ他の先進国に同化するだけが国際化では無いと思う。
日本が無理をせずとも日本としての特徴を生かして果たせる役割があるのではないか?
日本人が言う「世界の常識」、「普通の国家」など今や紛争の原因にはなっても解決策は見出していない、そればかりか自国民さえ犠牲にしている。
(そもそも日本以外に「世界の常識」「普通の国家」などを国造りの基準にする国など無いと思うが)
先進国でありながら「平和憲法を持ち」「核兵器を持たず」「こちらの言うことももっともだが、あちらの言うことも分かる。」「国際連合を積極的に支援している」という一見のんきに見える発想を持つ日本には、今、他の先進国にはできない、国際社会が必要としている「何か」を持っているような気がしてならない。
「敢えて捨てるなんてもったいない」と思うのはただの一般人の私が考える妄想であろうか?
専門家の現実論も所詮、ろくな結果を出せないのだから大差ないだろう。

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