トップページ | 2004年6月 »

2004/05/29

イラク戦争を直視せよ

実は、このblogを始める前、イラク開戦前からLycos(途中からInfoseek)の掲示板でイラク戦争への反対、自衛隊派遣の反対の立場で投稿してきた。
閉鎖されるまで投稿は続けたが掲示板の限界を感じずにはいられなかった。
そんな関係でこのblogでは敢えてイラク戦争や自衛隊派遣そのものについてはあまり直接的には書かなかった。

しかし、橋田信介さん,小川功太郎が襲撃されるというニュースが流れ、しかもほぼ絶望的な状況となった今、もう一度イラク戦争を振り返えらずにはいられない。

私は、今のイラク戦争に対する日本外交の流れは9.11後、アフガン攻撃前に小泉首相が得意のパフォーマンスから「アメリカのテロとの戦いを全面支持する」とこれまでに無く「鮮明に立場を表明した」時点ですべてが決まってしまったと思っている。
それ以降は小泉首相が自らの頑固さの為、この言葉に引きずられ続け,それに自民党のタカ派の思惑が乗っかって、引くこともできず惰性で現在に至っただけのことだと考えている。
そこには未来への予測も、思惑も無く常に現実への対応に右往左往する姿しか見えてこない。
思惑があったとしても国民をコントロールするシステム作りにいかに利用するかだけであろう。
1つの間違った決断が次の困難な現実を生み、その現実を前提に次の決断が行なわれまた新たな困難な現実に直面するという繰り返しで気がついたら岸には戻れない沖に流されてしまったにすぎない。

「過去のことをとやかく言っても仕方が無い、直面する現実に対応するしかない。」
というもっともらしい修正不能の論法はもううんざりである。

現実的な国益重視の政策をとったはずであるがどんな国益があったというのだ。
石油の確保? 北朝鮮政策の米国のバックアップ? 国際貢献? テロの一掃? 国民の安全?
何ひとつ得たものなど無い。
一体どこが現実論だというのか?
中東が不安定に陥り、イスラエルにパレスチナ難民迫害の口実を与え、テロが世界に拡散し、石油は高騰、国連の権威を貶め、国際貢献はイラク人の目に見えず、友好的なイラク国民の感情を逆なでし,北朝鮮ではアメリカが拉致家族の帰国の障害となっている、自衛隊は引くに引けずイラク人を殺すか自衛隊員に被害が出るのをただ恐れそうならぬように無策にじっと祈るだけ、一体砂の中で汗を流し命を削っている自衛隊員を何だと思っているのか?
もう1つある アメリカの世論ですら方向を変えようとしている。
いまや日本はピエロになろうとしているのだ。

これが本当の現実だ。

それだけではない、日本が全面支持するイラク戦争は その過程で多くのイラク人を死に追いやり、アメリカ兵を犠牲にし,アメリカ兵を狂わせイラク人を虐待させ、その挙句に日本人を標的にした襲撃で大事な同朋の命を犠牲にした。

イラク人の心を捉えたのは政府が厄介だと思っている高遠さんの一言と今回の橋田さん小川さんのイラク少年を助けようとした姿だけでは無いのか?。
なぜ、あれほど苦労している自衛隊員がイラク国民から期待はずれの目で見られなければいけないのだ。

まさか、アメリカの政策の失敗など予想できなかったなどというわけではあるまい。
今の事態は各国の要人も、素人の掲示板ですら多くの人が指摘していたことだ。
目の前の「一見現実のように見える偽物(国益)」に目がくらんだのだ。
現実に見えた物が実はありもしない理想で、理想に見えた物こそ目指すことが可能な現実だったのではないのか?
もういい加減にごまかすのは辞め、本当の現実を直視しても良いのではないか?
日本がしなければいけないのは世界が血を流さない為に自衛隊の撤退覚悟で他国と一致協力し、本気で米国を正気に戻す役割を果たすことだ。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

2004/05/27

ムーア監督

イラク開戦当時「ブッシュ恥を知れ」と行って以来何かと話題のムーア監督がカンヌ映画祭で最高賞を受賞した。
その場で
 「今では多くの米国人がフランスはよき友人で、米国に(イラク戦争は)誤った道だと言おうとしたのだ、と分かるようになった」
と述べていた。
一般の米国人が監督と同じように思っているとも思わないし、仏独露が反対したから混迷したと考える者もいるかもしれない。
しかし、1つの見方として考える意味は十分ある。
今、米国ではブッシュ大統領の支持率が最低を更新し続けている。もし、アルカイーダが言っているアメリカ国内での大規模テロが無ければさらに順調に支持率は下がっていくだろう。
(アルカイーダのテロはもはやブッシュ大統領の支持率を上げるほうに作用するというのは何とも皮肉だ。テロという物にはいつもこのような皮肉が付きまとう)
イラク戦争が間違えであったという意見もかなり世論に巾を利かせてきている。
アメリカは悪く言えば身代わりも早い、よく言えば自浄作用が機能している。
簡単に過去のことは棚に上げにして新しい世論に移行する部分がある。
あながち監督の言うことはこれから先多くのアメリカ人が感じることなのかもしれない。
一方翻ってそうなった時の日本の立場はどうなるか?
アメリカも日本を直接非難することは無いとは思うが、信頼関係が進展したかどうかは全く疑問である。
ただ,日本はアメリカに「たてつくことは無い国」というありがたい(?)称号を頂いて終わりだろう。
そして私たちはアメリカ人に
「私たちはアメリカの為に、憲法を曲げてまで自衛隊を派遣をしたのにどうして反対したフランスを信頼するのか?」
と思うのである。
実はこれこそ自己責任。
自らの信念からではなく、安直な現実に左右される者に「信頼」「友情」などという物は与えられない。
国連に多額の寄与をしている日本がなぜいまだに常任理事国入りできないかにそろそろ気がついてもいい頃なのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/26

日本の政治の目指すところ

今の日本の政治の動きを見ていると、「国民」を今まで以上に規制することにより国を一定の規律の上でコントロールできるように変え、国としてのまとまりを強化していく方向に向かっているようだ。
古い言葉でいえば「挙国一致」そのものとなるが、イメージの悪い言葉なのでこのような言葉は使わない。
しかし、色々な法案を見ればその下地造りが着々と進んでいる事が良くわかる。

住基ネットの導入
教育現場での国旗,国家の教養
有事関連法案の通過
憲法改正

さらに、これを具現化するために
「国際協調」を掲げ自衛隊を派遣することにより憲法改正気運の演出
「北朝鮮問題」を取り上げ危機意識を盛り上る
「テロには屈しない」を合言葉に国内の強制権力を強化
年金問題ですら,それを利用し「住基ネット」の必然性を訴える
自民党憲法調査会が自民党憲法改正草案を発表する。
等々。
一つ一つは必然性を伴っているように見えるが並べて見ると実に一貫した流れを持っている。

特に憲法調査会の草案は憲法に義務を盛り込むところまではっきりとその姿勢を示すところまで踏みこんでいる。
このプロジェクトチームの会長は憲法改正の手続きに関して
(1)総議員の「3分の2」を「2分の1」に引き下げる
(2)総議員の3分の2以上の賛成があれば国民投票を省略
(共同通信)
[4月1日20時15分更新]
とまで記者会見で言っているそうだ。

「今の日本人は「自由」「権利」をいいことに何でもありの世相になってしまっている、このままでは混沌とした世界の中で、国家として存続していくのは難しい。」
と考えていることはほぼ間違いない。

確かに、
我々は情緒に流され本質を見失いがち。
マスコミもそれを助長。
国内でも犯罪が多発し、モラルも低下。
我々国民の政治への関心も低く投票率も最悪。
個人主義の変わりに利己主義がはびこる。
このような風潮では混乱した世界情勢で要求されるすばやい意思決定ができないと思うのも無理からぬ事なのかも知れない。

つまり個人を尊重した「民主主義」も「自由」も「国民主権」も我々日本人が十分我が物とせず、憲法にあるように「不断の努力」で守るべきものということすら忘れていることが背景にある様に思う。

皮肉なことに、このことはイラクの人質被害者、拉致被害者家族に対する国民の批判を見ても良くわかる。
個人を尊重した「民主主義」「自由」「国民主権」を基調とすれば、このような現象はよほどのことが無い限り起こり得ないと思う。
国民の中から「国の出した方針に従うのは国民として当然、政府を批判するのは間違っている。」として国内の反対意見を押さえつける意見が出るところなどは、どう考えても民主主義の持つ自浄効果を否定するものにしか見えない。
反対意見が存在しない民主主義など無いだろう。
守るべきは集約された最終結果である法律であり、この法律の範囲で反対を唱えるのは民主主義を守るためにはむしろそれは義務であるはずだ。
個々のさまざまな意見を集約することに意味があるのに、その意見を画一化してしまったり、放棄してしまってはまともな民主的な政府などできるはずが無い。
国民自身も「民主主義」「自由」「国民主権」にはウンザリしているのだろうか。
意識しているかどうかは別にして我々日本人は「社会が個人に規制をかけてもらうことで安心感をえる」のかもしれない。

円高の頃、他の先進国から「日本は世界で唯一成功した社会主義国家」という意見が出たことを思い出す。言い当て妙である。
「民主主義」「自由」「国民主権」という言葉は当然のように使っているが、我々が意識してはいないだけで実態はこのようなものなのかもしれない。

いずれにしても、このような国を目指すなら、自民党はまず最初に、「自由民主党」と言う名前を変えることからはじめたらいい。
そして堂々と
「日本人にあった政治は民主主義でも自由でも国民主権でもない、現実を良く知っている我々に全権を与えてくれ,けして悪いようにはしない」
と主張して行けば言い。
この世相からして、国民から少なからず賛同を得られるのではないか?
但し,個人主義を基盤にする先進国からはますます離れ、国際感覚とやらは今以上に鈍っていくとは思うけれど。


| | コメント (3) | トラックバック (1)

2004/05/23

連鎖は続くよどこまでも

フランスでユダヤ人の墓地が荒らされる事件があった。フランスには以前から反ユダヤ的な傾向があったと言うがアメリカのイラク戦争、パレスチナでのイスラエルの殺戮の影響かと思われる。この傾向はイラク、パレスチナでの混迷が深まれば深まるほど強くなりそうな気配がある。ドイツにもいまだにネオナチが存在し今後これらに触発されないとも限らない。どこまで恨みの連鎖が続いていくのか?

軍隊の復活を願う人々の意見に「平和主義者が戦争を招く」というものがある。
緊張感があれば互いに牽制し合いバランスが保たれているので戦争は起きないが緊張感の欠如が隙を生み、其れがこのバランスを崩すというものだ。
実際に戦争の発端になった事も確かにある。

しかし、それだけが戦争の引き金ではないであろう。
そのようなきっかけで先端が開きそれが拡大したことが少なからずあったというだけではないのか? 
それ以前に互いの不信感があり、緊張感を維持しよううとする事により薪が積み上げられ、最後に薪の見張りを怠って火を付けられただけの話ではないのだろうか?

冷戦が強大国ソ連と米国の軍事バランスのうえに成り立ち平和が維持されてきたことも間違いない。
しかし、キューバ危機に見られるように一歩間違えば簡単に崩れてしまう性質のものだった。
キューバ危機を回避できたのは結局のとこと「お互いが破滅を望んでいない」という真に単純な事をぎりぎりのところでやっと理解できたからである。
それまでは「相手は滅亡しても攻撃しかねない」と本気で互いに思っていたのである。
(今、我々が北朝鮮に持っている感覚も同じかもしれない。)
回避できたのは、ただの幸運だったのではないのか。

ベトナム戦争でも同じだ。何年か前に当時の米軍の指導者とベトナムの指導者がそれぞれ相手をどのように見て戦っていたかを検証したNHKの番組があった。
実にばかげた誤解があれだけの死者を出したのである。
(ベトナム戦争当時はベトコンは自由主義諸国民から見れば危険極まりない存在、つまり今風に言えば悪の枢軸だったはずだが、彼らがアメリカに負けず存続した事で世界は危機に陥ったであろうか。)

ところで、イスラエルは建国以来、常に周辺国と緊張を持ちつづけている。
自らの民族の存続をかけ軍備を整え、其れを行使する事をためらわず妥協も許さない。
自らのアイデンティティーを保とうとする闘争だ。
緊張を和らげる事無く、周辺諸国、パレスチナ難民との闘争を続け多くの自国民、周辺諸国民に犠牲を出し、今もその闘争は続いている。
軍隊を持ち、最高の諜報機関を持ち、緊張を持ちつづけていても紛争は続き、平凡に見える生活のすぐ後ろに死を抱えている。
パレスチナ難民にもアイデンティティーがある以上次から次へと戦士が出てくるだろう。
戦う事により民族の誇りと、尊厳を保っている彼らは幸せなのだろうか。
そう思い込む事で自らの死に意味付けをするしかないからそうしているだけではないのか?
彼らはそこから抜け出したくても、恨みの連鎖は断ち切れないなかで生きているのではないのか。

アイデンティティーや宗教が対立軸になりつつある今の世界では、相互不信の連鎖に陥ったら、そこから抜け出すのは至難の業である。理性の入り込む余地のあるイデオロギーの対立より更に性質が悪く、長く未来にしこりを残す。
チェチェン、アフリカ中部、旧ユーゴスラビア、そして今の中東情勢はそれを私たちに教えてくれる。

私には、隣国を仮想敵国にしたままの安易な再軍備はそこへの「入口」にしか見えない。
それとも、民族の誇り、尊厳を保つために敢えてそこに足を踏み入れるのだろうか。
「無間地獄へようこそ」


| | コメント (2) | トラックバック (0)

日朝首脳会談

日朝首脳会談が終りました。
家族会の方々には大変な失望だったでしょう。
長い間、政府にも世論にも黙殺され続け、前回の首脳会談で初めてその真実が表に出た。
それ以来、その生死も判らず日朝交渉も進まず何を思いながら生活していたのでしょう。
やっと今回首相が再訪する事になり、今度こそ新しい真実が判るに違いないと大きな期待も持っていたはずです。
しかし、それが叶わなかったのです。
「最悪の結果だ」「裏切られた」というのは彼らの心からの叫びだと思います。
彼らにとってはまさに「最悪」なのです。
他の拉致家族の再会という喜ばしい事がある中で「最悪」という言葉は奇異に聞こえるという意見も見られますが,2家族の再会に対して使った言葉でないことは明らかであり、その事は再会を果たした2家族が一番理解している事だと思う。
政治の一部分としてしか拉致問題を考えない我々の立場と生活そのものが「拉致事件」そのものであった彼らの立場とはまったく違います。
社会は彼らが感情的になろうが、政府を非難しようが、彼らの立場を想像し、受止める必要がある。
家族は、気の済むまで徹底的に総理を非難すればいい。
北朝鮮を金正日総書記をとことん非難すればいい。
それだけの権利がある。

国の理想と現実の狭間で泥をかぶるのは政治家のしごと。
理想をかなえるために最善と思える妥協をし、その責任を負っていくのが宿命なのだから。
国民から最善の妥協をしたと思われれば支持され、そうでなければ支持を失うだけのことだ。
今日の首相の言葉を見る限り首相にはその覚悟はもっているように見られる。

私自身はたとえ全員でなくても家族が再会を果たし、たとえ食糧支援、医療支援が弱腰に見えても日朝国交正常化交渉再開のめどが立ったことは評価したいと思っている。

他の政策を考えれば自民党も総理も支持するつもりなどないが、これはこれで評価したい。
交渉の場があればこその拉致被害者救済だと思っている。
交渉の場で筋を通すべきことは筋を通せばいい。
(安倍幹事長の発言を聞く限り自民党にはかなり不満があるようなので思うとおりに事が進むかは疑問ですが)

とことん追い詰めれば、早い時期に北朝鮮の体制がすんなり何の混乱も無く北朝鮮の一般国民にも周辺国にも被害を出さずに崩壊するならば日本の原理・原則を貫き通せばいいが、私はそのようなことが実現するとは思わないからそう思う。
少しずつ六カ国協議の枠組みに組み入れ、他国からの情報、物資、システムが浸透して行けば体制も変わらざるを得ないのではないかと思っている。
ベトナムはアメリカを追い出し、我々の望まない共産主義の国家が続いたが、だからといって世界の脅威にはならず今では国際社会の立派な一員に変貌している。
とても変わらないだろうと思えたソ連東欧圏がどのように崩壊していったのか?力で崩壊させたわけではない。
イラクやパレスチナのように互いの猜疑心による力と力,恨みと恨みのエンドレスのチキンレースを極東に持ち込む必要は無い。たとえ北朝鮮を崩壊させることができたとしても、好むと好まざるとに関わらず、そこに住む人々がこれからも隣人でありつづける事に何ら変わりは無いのだから。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/05/20

イラクの影で

イラク問題の影に隠れてパレスチナでイスラエルが暴走を続けている。
アメリカのブッシュ政権が言う「テロリスト」という免罪符を掲げ殺害を繰り返し、とうとう抗議のデモに攻撃を加えると言う暴挙に出た。
テロリストの定義は「武器を持たないデモをする一般市民」にまでひろげられたようだ。
家を壊し、レジスタンスを殺害し、一般市民を蹂躙する。 イスラエルは自らが憎むべきナチのレベルに成り下がってしまったのか。
ブッシュ政権の「民主主義のためには一般市民の犠牲が出ようと仕方が無い」という姿勢を逆手にとっているように見えてしょうがない。
ブッシュ政権は今のイラク情勢を肯定する限り、イスラエルを正面から否定などできない。イスラエルは其れを見透かしている。
しかし、世界の人々(一般のアメリカ人を含め)がイスラエルの殺戮を見て単なるテロ対策の一環などとは捉えないだろう。特にイスラム諸国の反発は想像に難くない。
イスラエルの暴挙がエスカレートすればするほど、ブッシュ政権が掲げる「武力によるテロの撲滅」の矛盾を世界に見せ付ける事になる。
イスラエルの行為を敢えて「国家テロ」と呼ぶつもりも無い、流行の言葉を使わなくともそのまま「国家による無差別殺戮」でいいだろう、そして其れはテロに匹敵、またはそれ以上の憎むべき行為であるとそのまま定義すればよい。
大量破壊兵器を持ち、人々を迫害、無差別に殺害する姿はアメリカがイラクを攻撃した大儀と何ら変わるものではない。
ブッシュ政権は一方でこれを攻撃し、一方でこれを擁護する矛盾をさらけ出して、どうしてアメリカの正義を世界が認めることができると思っているのだろうか?
どうして、アメリカを世界の警察だと認識できると言うのか?
もうだいぶ前になるがパレスチナ人の家を壊そうとする重機の前に立ちはだかって亡くなったアメリカ人の女性のことが忘れられない。これこそが本来のアメリカ市民の持つ正義ではないのか。
イスラエルの市民やアメリカの市民に人が持つこの正義を取り戻して欲しい。
最後に、私たちが選んだ日本政府がこのブッシュ政権の方針(イスラエルの口実)を「全面支持」している事を忘れてはいけない。
追記:20:00に文章を少し修正。慌てて書きすぎましたので。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/05/19

何かおかしい

「年金問題をめぐるごたごたを見ていると民主党の政権担当力はまだまだ。」
思わず納得してしまいそうだ。

「自由民主党のほうが1枚上手だ。」
これも今の小泉政権のしぶとさを見ればフンフンとうなずいてしましそうだ。

何となく「おかしさ」を感じがしたのでチョっと考えてみた。
管代表の辞任劇に始まりその後の党首選出にいたるまでの戦術のまずさ、まとまりの無さは、確かに失望感を与えるに十分。政権を奪取しようとするチャンスに後手に廻るようでは、仮に政権を手に入れたとしても野党(自民党がその位置にいるはず)を抑えて政局を運営できるか。といったところか。
その点、自民党は同じ(もしくはそれ以上)未納者を出しながら、党として未納者を公開せず、公開した議員も主に法案通過後に公表するという形をとり、民主党ほど目立たなかった。
結果として自分たちの法案を衆議院で可決するという目的を達成できた。
実にしぶとい。

でも、やはりおかしい、自民党(政府)が達成した目的とは何なのか?
議員も国民も納得などしていない欠陥だらけの法案を力任せに押し通しただけの事である。
自民党が1枚上手とみる我々は実際何をしたかよりも押し通した力に魅力を感じているのか。
政党を評価するポイントは内容ではないようだ。

年金問題だけを取り上げるのも不公平だ。
それでは、イラク問題ではどうだろう。
これまで、誰も口にする事さえ憚れた憲法問題をこれだけ国民的話題にまで押し上げ、自衛隊派遣という離れ業を為し遂げた。
ここでも力技が発揮されている。
実際のところは、もっとも現実的に障害の少ない、一番「簡単」なアメリカの後追いを選択したに過ぎない。
さらに、開戦前から、多くの人が指摘していた通りの混乱状態にあるのを見ても分かるように、どんなに取り繕うとも「見通しを誤った」事は間違いない。
イラク戦争のこれから先の見通しも政府からはついぞ聞かされる事は無い。
一方で国内の統制造りを着々と進めているだけである。
しかし、ここでも我々は、憲法改正論議に見るように何となく持っていたフラストレーション「憲法の枠」を打ち破った力に魅力を感じているようだ。
拉致問題ですら結局は2国間協議となりイラク戦争に賛同しても脱走軍曹一人の赦免すら渋られる
国民の「損」になるものは生み出しても「益」になるものなど「今のところ」何ひとつ生み出してなどいない。

これだけでもまだ不公平かもしれない。
国内ではどうか。つまり「改革」だ。
目玉は道路公団。
自民党内(もちろん官僚もそうだが)に反対勢力がある中での民営化が可能になったのはやはり力技。
しかし,考えてみれば党内に道路族などがいる事自体が本来おかしい。
少なくとも他の政党ならばこの点は最初からクリアーされている。
実はこんな事は評価されるべき事でもなんでもないのだ。
それではそれ以外の実質的な中身はといえば高速道路の建設にも見られるようにまったく中途半端なもので当初の目的からは程遠い。

年金改革はご存知のとおり。

郵政民営化もまだ海の物とも山の物とも判らない。

形やイメージでは何かを打ち破ったように見えても、実質的に評価できる事など殆ど無い。

民主党の政権担当能力があるかないかは、本当のところ判らない。
しかし、今の自民党程度の事はできるだろう。
悲しい事だが、変な癒着がない分、何もしなくとも今よりよくなりそうだ。

「政局を操ったり」、「党利党略」などといった物に「政治」そのものが翻弄されるから何も変わらないのに、「政局を操ったり」「党利党略」に長けていないから政権担当能力がないと判断する我々も相当におめでたい。

日本は不況下の閉塞状態にある。
変化を求める。
古い物を力で壊す事には快感を感じる。
壊した後に何が作られたかは検証せず重視もされず忘れ去られる。
実はろくなものは作られていない。
スタイルは問われても中身は問われない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/17

同朋を守る

小泉首相が北朝鮮を再訪する事になりそうです。
拉致被害者の方のご家族が無事帰国し、まだ残されたその他の不明のままの方の調査が進む事を願います。

彼らは2つの国の面子の狭間で、どんなに苦悩しただろうか。
本音とはどんなものなのだろう。
拉致される前の日本を知っていて、それからの日本を知らず、突然帰国した彼らの目に日本社会はどのように映っているのだろう。
どんな事に喜びを感じ、どんな事に不安を持ち、日本の北朝鮮への感情、北朝鮮の日本への感情をどのように見て、この2国間の関係がどうなって欲しいと思っているのだろう。
イラクの人質被害者に対する日本の反応を見たときにどのような印象を持ったのだろう。
日本のマスコミの扱いをどのように思ったのだろう。
アメリカのイラク戦争に日本が全面協力する姿勢をどのように見ているのだろう。
本当は、いろいろ聞かせて欲しい事がある。

しかし、もし、少しでも北朝鮮寄りな事や、日本(政府や社会)の批判につながる事などを口にしたならば今回イラクの人質の方のような目に遭いかねない。
また、あまりにも日本寄り、北朝鮮の批判のような事を言えば家族がどのように扱われるか判らない。
結局、私たちはこの貴重な視点からの意見を伺う事は当分の間難しいと言う事になりそうだ。
また、彼らの生活を守るためにも知りたくてもこちらから強要するような事があってはいけないと思う。

今回、首相の再訪により、ご家族が帰国されるような事になっても、北朝鮮で生まれ北朝鮮で育った家族の気持ちをどのように受け止め、つなぎとめ、どのように普通の生活に戻るかを考えれば、これからのご苦労は大変なものだと思う。
政府にはどうか、何の罪もない被害者がマスコミ、風潮に傷つけられないように守ってあげて欲しい。
まして、政治や外交に利用するような事は絶対に無いように願いたい。
私たちも興味はあろうとも「そっとしてあげる」ことが同朋を思う日本人としてのありかたではないだろうか? 
これも日本を愛する事の一つだと思う。

ただ、いつの日か語れるときが来たら、その複雑な立場からの視点で何を見たかを私たちに伝えていただきたい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2004/05/12

非現実的な現実論の蔓延

理想論、現実論この二つはいつも社会現象を考えるときにぶつかり合う。
もともと「現実に直面」するのは何らかの「理想」があるからであり、また、「理想」が生まれるのも「現実」があるから といった関係だと思う。
しかし、最近は「理想」と聞いただけで拒否反応が出るほど一方的に分が悪い。
会社でも、社会でも、政治でも、普段の生活でも「それは理想だ」と指摘されるとなんとなく尻込みしてしまう。
なぜこれほどまでに「理想」が衰退したのかを考えるのも面白そうだ。

会社で考えると「長引く不況」や「グローバル化」などが関係あるのだろうか。
「利潤の追求」はもちろんだが、本来は「社会に貢献する」も大事な「会社」の使命であり理想である。が、これだけ不況が長引くと「生き残り」を考えなければ「倒産」し従業員を路頭に迷わす事になってしまう。そんな中で理想は隅に追いやられる。
残業時間が長くなろうとも、賃金が未払いでも会社が生き残らなければ元の木阿弥、生き残るという現実なしに理想など語れるか と。
そんな中で起こるのが雪印であり三菱だ。これは起こるべくして起こり、今後も同じような社会倫理に反する企業行為は後に続くだろう。これは氷山の一角だと思う。サラリーマンならたいてい知っていることだと思う。こんな状況で絶えながら生きているものにはイラクで人質となった3人の理想論は鼻につくのは尤もなのかもしれない。
このように理想を夢見る事など許されない状況がそこにはある。

社会ではどうだろう。
規制ではなく「モラル」「道徳観」による自浄作用が本来は理想である。
しかし、犯罪が多発し、犯罪形態も多様化する中ではまずは身を守る事が優先である。身の回りで起こる犯罪にも、下手に口を出そうものなら逆に自らが被害にあってしまいかねない。ごみを捨てるものに注意などしようものならわけのわからぬ雑言を浴びいい事は何もない。回りもフォローしてくれるわけでもなく、警察も不祥事を繰り返し、些細な事では動いてもくれない。
こんな中では「理想」である「モラル」「道徳観」などに頼ることはできない。
「マナー」「モラル」「道徳感」と言う言葉は見るだけで「無力感」を連想させ、逆に其処からは目を背け、悪態をつきたくなるのが現状である。
こんな中では弊害があることはわかっていても規制や法律で律していく「現実論」が主流になるのも無理はない。

政治ではどうか。
アメリカのイラク戦争に「正しさ」などを感じなくとも、「北朝鮮の脅威」が目の前にある、「経済的にもアメリカの制裁」がちらつく。
湾岸戦争では欧米から日本の姿勢を非難され「平和主義」のような理想に疑問をもたざろうを得ない。
国内でも「国民の意思」などは政治の場には反映されず、唯一反映できるはずの選挙でもその受け皿が存在しない。マスコミも話題になる事を報道するだけで本質的な議論には見向きもしない。自然と投票率が下がり更に無力感だけが増すばかり。
こんな中で「日本はどうあるべきか」などという「理想論」は雲の上の存在で見るのもまぶしく、手近にある現実的な選択肢しか見ることが許されない状態。


単純に過ぎるが、それほど外れてはいないと思う。
いずれにしても「理想論」はこのような状況の中で分が悪い。

どれをとっても「無理からぬ事」なのですが、それではすまない事情がある。
これらがこれからも続いていけば行くほど、人の幸せからは確実に遠ざかっていき、ますます後戻りが困難になる、というもう一つの「現実」が控えているという事です。

企業倫理の低下は露見すれば結局は社員を路頭に迷わす事になるのはもちろんだが、露見せずとも、社会に損害をもたらし、個人の生活を圧迫していく。

「モラル」「道徳観」の低下は規制を呼び人々の自由な生活を束縛するだけでなく、更に犯罪の巧妙化、多様化を呼び入れ、更なる規制が加えられる。自由と権利はますます「公共の利益」の名のもとに抹殺されるという悪循環。そして、この規制は一部の者に利用される事も十分ありうる。

理想を失った政治は、無関心を助長し、それに危機感をもつ人が苛立ちからありもしない「特効薬」を求める風潮も生まれかねない。世界が共感する理想も大儀も持ち合わせない国家が国際社会で役割を果たせるはずもなくアメリカ以外には目が行かない日本は孤立すらしかねない。

目を背けたい「現実」ではあるがそれを避けて行った結果が世界恐慌以降の昭和の歴史にある。私たちはあまりにも、その時代を歴史から切り離し、異常な時期として「特別視」し、今の日本そうはならないと過信しすぎているような気がする。
こんな時期だからこそ、私たちは「私たちがどんな世界を望むのか」をしっかり判断の基準として持ち続ける必要があるのではないでしょうか。
それに向かって立ちはだかってくるのが本来の「現実」であり「妥協」なのではないかと思う。

理想のない現実に将来などはない。

ついでに
現首相の政策が正しいかどうか判らない、が「将来のビジョン」を国民に示そうともしない姿勢を見る限りいくら改革を訴えようと、到底信用などできない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/05/10

政治家の特権

今回話題になった議員年金をはじめ、議員にはさまざまな特典が用意されている。
日本の政治を担う我々の代表が国の事に専念できるようにするためには本来必要なのかもしれない。
少し前に問題になった秘書給与にしても、国会議員が政治活動をするためには秘書と言う存在が必要なのは当然だ。まして今の時代のように複雑化した世の中ではまともに政治をしようとすればするほど、勉強すればするほど政治家として知らなければいけない情報は膨大になるのだからなおさらだ。
しかし、今の政治家がそれらの特典を本来の国民のための政治に正しく使っているとはとても思えないので政治家を一般国民の位置まで引きずり下ろしたくなる。
まじめな政治家には全く気の毒な限りです。
これは実は国民にとっても不幸な事で、わが身を粉にしてまじめに政治に取り組もうとする政治家に失望感を与え、ほかの不実な政治家の仲間入りを助長する事にもなってしまうからだ。さらに、政治家を務めることができるのは資金力が有り、後援者があるごく一部の人種に限定されると言うことにもなる。
資金力があり後援者があると言う事はそれらの利益を代表する議員しか生まれない事を意味するわけで、ますます一般国民からは離れていってしまうのも当然なのです。
このようになる事はわかっていても我々国民も、マスコミも彼らを非難して特典を全て取り上げたくなってしまうほど酷いのです。

でも政治の世界だけが特別と思うのは違うのではないかとも思うのです。
私たちの身辺 地域、会社、自分自身に不実に目を瞑る習慣が身についていないか。
私も「現実」という免罪符でどれだ不実に目を瞑り、不実を自らもしてきたことか。
政治にだけ誠実を求めるのは虫が良すぎる。
政治は私たちの姿が反映しているだけで、突然変異でもなんでもない。
不実は新たな矛盾を生み、その矛盾はまたそれ以上の不実を生む。
本当は誰しもが知っている厳然とした「現実」なのに現実論者はこの「現実」からは目をそらそうとする。
そろそろこのあたりを転換しないと、さらに過酷なこの「現実」のしっぺ返しを待つだけではないか。

「不実をすまい」などと言うと今のご時世「偽善者」のレッテルを貼られかねない。
しかし、偽善者と言われるのを恐れて不実に同化し、誠実であろうとする者まで偽善者呼ばわりして貶める姿は誉められた事ではない。
欧米人に接触する機会が多い人は、欧米人が平気で自分の事を棚にあげ正論をぶつけてくるす姿に辟易する事はしばしばだと思うが、過去を引きずりすぎて今正しい事を素直に肯定できない我々には少しは自分の事を棚に上げ偽善者(他人が言うだけの事だが)になる事も必要なのではないか。
人は完全なものではない、間違いを起こす、その間違いを修正しようとする機会を奪わない寛容さが自分に対しても他人に対しても今必要ではないか。(もちろん修正しようとしない政治家に寛容であれなどと言うつもりはない)
私はキリスト教徒ではないが「人はもともと罪深い、許しを請うて、悔い改める」姿勢に「寛容」であると言う知恵(クリスチャンではないので敢えてこう言わせてもらいます)には共感を持ってしまいます。(ブッシュ大統領にも思い出してほしいものだが)

話がかなり脱線しましたが、今の実情を見て、大事な国の仕事をする政治家が優遇されても誰もが納得する政治、社会からどんどん離れていく現状を目にして、ついこのような取り留めのない事を書いてしまいました。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2004/05/09

菅代表、閣僚の首どちらも要らぬ

どうも、年金問題はどこに向かっていくのか分からなくなって来た。
そこで、原点に立ち返り、私の年金に対する「怒り」とは何なんだろと考え直してみた。

年金の杜撰な運用で大きな穴をあけたこと。
杜撰な徴収で納付率の低下を引き起こしたこと。
その責任がうやむやなこと。
給付額が納付額よりも低くなるような制度を強制されること。
まさにこの瞬間も無駄を生み出しているかもしれない仕組みに踏み込もうとしないこと。
それを置き去りにして、安直に値上法案で済まそうとする姿勢。
政治家自身が認めているシステム自体の欠陥の見直しを先送りすること
国民の年金の法案を作成しようというのに自らの年金の支払い状況すら気にかけぬ無神経さ
年金自体を他人事として考えているから、核心には踏み込もうとしないのではないかという不信感
年金問題が参院選の駆け引きに利用されていること。
ますます国民は年金離れし、制度そのものが瓦解しかねないことに対する危機感のなさ

書いているうちに「怒り」が増してきそうなのでこの辺にしよう。
ところで、怒りは横において、私がして欲しいと思っている事は何だろう。
たくさんあるけど次の2つに絞ってみた。

過去はともかく現行のシステム(組織的な)の無駄の調査、効率化
  今すぐできなくとも効率化の道筋を明確にし国民が納得できるビジョンを示し公約する。
  さらに、将来責任追及を可能にする為に責任の所在を明確にする。
選挙がらみの問題先送り法案を白紙に戻し、一元化、消費税の導入等に関して再検討する。

いずれにしても「とりあえず今は」 ではなく 
「将来こうする、そのためにこのように変えていく、だから今こうする」 といった安心できる根拠「ビジョン」が欲しいと思っているのです。

あくまで私事で書き連ねただけですが、問題がそのままで、政治家が役職を辞めて「あーこれでよかった」で喜ぶ国民は少ないと思う。
よくよく考えると「怒り」はあるけど、このまま責任追及などにウツツを抜かしていると肝心の年金問題はうやむやになるばかり。
福田官房長官が潔く辞めようが、菅代表が党首の座に固執しようが、閣僚が厚顔無恥にも自己弁護に終始しようが、肝心の年金問題が煙に巻かれてはかなわない。
それこそ、安直な法案でうやむやに済ませたい政治家の思う壺だとおもうのだが。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2004/05/07

官房長官辞任、その後は?

官房長官が辞任を表明しました。
まじめな官房長官らしい辞任だったと思います。
この辞任はイメージ的には好感や同情をもって受け止められそうな気がする。
恐らく今後論点は
・民主党の菅代表の進退
・他の閣僚への波及
しかし、これらの意見は他の人に任せて、
私は
「本来の争点である年金問題がどのように変質していくか。」
推移に注意したい。
その前に、勝手に皮肉を込めた予想してみようと思う。馬券を買わなければ競馬もつまらない。(大穴ねらい)

知らず知らずに、怒りの矛先は民主党菅代表(次が鳩山全代表)に、それに乗って若手議員が騒ぎ出し民主党ごたごた党内議論白熱、マスコミもそれに一役かってたきつける、その間政府自民党、閣僚への飛び火を恐れてじっと静観、熱い民主若手議員がほえる中、民主に向いた視点がずれぬよう自民さりげない民主批判で大人を装う、次の争点(イラク、北朝鮮拉致問題)まで耐えしのぎ機を見て視点をすり替える。 そして先送り年金問題そのままに国民の怒りは徐々に沈静。
閣僚の未払い問題はどこ吹く風、かくして民主党のふがいなさだけが印象付けられ、イラク問題すら争点とならず、民主党に失望し投票率が低い中、公明党の組織票で参院選自民党圧勝、またしても争点なき選挙で国民してやられたり。
首相にっこり

書いていていやになったが、予想がおお外れになることを期待しつつ見守る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/06

イラク戦争と日本人の本音

我々はイラク戦争でアメリカが根拠としている「正しさ」に対してどんな見方をしているのだろう。
日本人の我々からするとどうしても心のどこかに「独善」「偽善」を感じてしまうのではないか。
今の形で自衛隊を派遣することに賛成という人の中で純粋にアメリカの「正しさ」を信じるから賛成だという人はどの位いるのだろう。
私の知りうる限りではそんなに多いようには思わないが,違うだろうか。

一方、支持率は低くなってきたとはいえ,いまだに半数を占めるイラク戦争を支持するアメリカ人は本当に正しいと思って支持しているのだろうか?
中にはアメリカの利権を上げる人もいるでしょうが、私は日本人が思う以上にアメリカ人にはアメリカが正しい事をしているから支持しているという人は多数いると思う。

前置きが長くなりましたが今回は別にアメリカの正しさそのものを議論するつもりはありません。
人質問題により巻き起こった日本での反応から、イラク戦争に対する日本とアメリカの意識の違いが如実に読み取れるなと思い、その事を書こうと思っています。

人質問題に絡みパウエル国務長官の言葉が話題になった。
人質を誇りに思うべきという部分だけが注目されているが、一方で日本が送っている自衛隊についても同様に誇りを持つべきだと発言している。
私は,この発言を聞いたときにまず感じたのは アメリカの立場では「もっとも」であり「一貫」しているなということだ。
アメリカは虐げられていたイラク人を解放しにリスクを犯して正しいことをするためにイラク攻撃に踏み切り、犠牲を出しながらもイラクの治安維持に努めている。という立場に何ら矛盾がない。
さらに、それは国といわず個人といわず「リスクを負っても正しいことをする」事を是としているところは誠に筋が通っているのです。(これは政府高官だから特別なのではなく、支持する一般のアメリカ人も同様だと思う)
まさに形の上では湾岸戦争で話題になった「血を流す」(日本は金を出しても血を流さないといわれたアレです)そのもの。

さて,これに対して日本の反応はどのように分析したらいいのでしょう。
首相はアメリカを全面支持を表明している。
つまり上記のアメリカの正しさに賛同したからこそ国民全体がリスクを負うことになっても国際社会に正しいことをして貢献するために自衛隊を派遣したのである。(そのはずである)
しかし、「またイラクに行きたい」という言葉に対する答えは「あれだけ危険な目にあって,まだそんな事を言うかね」です。(正確じゃないけど歪曲はしてないと思う)
この発言はイラクに対する考え方がアメリカのそれとは根本的に違うことを意味しないでしょうか。
(ちなみに,この点で家族の態度うんぬんという理由は入りこむ余地はないと思う。)
首相だけでなく,非難したマスコミも、国民も意識の底では「リスクを犯しても正しいことをしている、するべきだ」等とはもともと思っていないと分析するのは間違えであろうか?

最初にわざわざアメリカが正しいから支持している人は少ないのではないかと書いたのはこのような理由です。

ここまでは、違いがあるというだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。
もともとあった日本の政策決定の矛盾がひょこっと顔を出しただけです。

しかし,日本人の本音がどのようなものであろうと、日本は世界に向かってアメリカの「正しさを」全面支持を表明し,そのように認知されています。
ひょこっと出した顔の意味は結構重いのではないか。
このような問題に直面しリスクテイカーを非難し、飛行機代云々,税金云々と金勘定する姿はまさに「日本人は金を出すが血を流さない」姿勢そのもの、世界に向かって、隠していた本音を露呈してしまったという気がしてならない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004/05/05

日朝協議と参院選

今北京で日朝協議が開かれています。
しかし、このタイミングは何でしょうね、もっと早くできなかったのだろうか。
参院選前のインパクトとしては十分です。
逆にいうとこの時点で日朝協議が開かれる以上はある程度の勝算があるのではないかと思い少し期待しています。
北朝鮮側もアメリカが拉致問題を正式にテロとして取り上げた事への危機感、中国からの説得 等がありこれまでとは違う姿勢を打ち出す可能性もある。
選挙前に争点をずらすのが首相の常套手段ではあるが、もし家族が帰国することになり正常化交渉が軌道に乗るようならばそれはそれで評価しなければいけないだろう。
しかし、それに目を奪われすぎその他多くの国内外政策に対し正しく評価する事も忘れてはいけない。
何はともあれ、拉致問題が一刻も早く解決され、日朝国交正常化交渉が軌道に乗ることを祈るばかりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/04

愛国心と愛政府心

前章で書いた「個」と「公」の公に関連して愛国心について取り上げてみました。
愛国心の「国」とはなんだろうか?
若い頃は「愛国心」と聴いてすぐ連想したのは「軍国主義」
(ちなみに「共産主義」と聴けば「危険思想」)
典型的なステレオタイプだったのを思い出します。
政府の悪口を言うときは決まって「国は~」を使い
「国」=「政府」という考えにそれほど疑問はありませんでした。
疑問をもち始めたのはアメリカやカナダに住んでからでしょうか。
かなり多くのアメリカ人が自分の国を愛していると臆面もなく口にする事に気づいたときです。
自分の国をこれだけ愛せるなんて幸せだな、なぜ日本人には国を愛することに抵抗感があるのだろうと考えたわけです。
そのときは歴史的背景から「愛国心」に抵抗感を持つ自分は不幸だな程度にしか思っていませんでした。
しばらくして気が付いたのは彼らも愛しているはずの国の事を平気で批判していた事です。(戦時下の今はどうかわかりませんが)
ただし、たいてい批判するときは「governmentは~」という言い回しを使っているのです。
(まあ、これは私が接してきた西海岸の人たちの話ですのでアメリカ人全体が同じかどうかは判りませんが、カナダ西部でもそれほど違わなかったのでそう思っています。)
つまり愛するアメリカ(またはカナダ)と批判するgovernmentは違うとの考え方があると感じたのです。(そんな事当然と言う人もいるでしょうが)
愛する自分の国(自由、民主主義と言う理念そのもの)の為にgovermentを批判する。
海外にいながらこの点から「自分は本当に日本を愛していないのか」ということを考えたのです。
考えてみればオリンピックを見ても日本を応援し、海外で日の丸を見るとほっとし、日本の文化が誤解されればムキになって反論したりしてるのです。
アメリカ人が自らの「自由と民主主義」に誇りを持ち、必要なときにその運営を任している政府を批判し、選挙で修正していく姿が私の新しい愛国心像になったと言うわけです。(もちろん新しいステレオタイプでしょう)
だから、私は国連でそしてイラクで民主主義を蔑ろにしているアメリカ政府のブッシュ政権には猛烈に抵抗を感じますが、アメリカ国民の自浄作用はどこかで信じているところがあります。(甘いかな)

少し話がそれましたが、そんなわけで愛国心とは何も政府を愛する必要など無く私が住む国の文化、人々、そして理念を愛す事ができればいいと思うようになった次第です。だから国内では公は日本であって政府ではない。政府が間違ったら国を守るために必要ならばしっかり選挙に参加し憲法にあるように不断の努力をもって自由と民主主義を守っていけばいいと思っています。

愛国心は愛政府心ではない。
公は国であって政府ではない。
政治家が年金を払っていなくても国を愛そう!
政府が自分の理想と違う政策をとっていても国を愛そう!
愛する国を不断の努力で守るために自分の信条(右でも左でも上でも下でも?)を持って選挙に行こう!

が憲法記念日の今回の私の固定概念でした。

最後に自由、民主主義は好きですが日本独自の理念ではない気がします。以前は世界に類を見ない「平和主義」が日本の理念としてはいいなと思っていたのですが、わが国民は現実に鑑みて軍隊を持つ普通の国がいいみたいです...
これからの日本の理念とは何なのでしょう?現実主義?

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2004/05/03

「個」と「公」

しかし、本当に今回のイラク人質事件はいろんなことを考えさせられます。
「個人」「公」に対する我々日本人の意識もその一つです。
どうも今回の政府、マスコミ、国民の声を見てみると「公」が「個」に優先する傾向があるのだなと。
そんな事はあるのだろうかと実際に法律上はどうなのかと憲法を見てみると

第3章 国民の権利及び義務 
[自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

となっており、この中の
「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
「公共の福祉に反しない限り」
と言う部分がそうさせているのかなと推測します。

ここで、「公共の福祉」が何をさすかと言う事になります。
ちなみに広辞苑 第4版では
「社会構成員全体の利益。基本的人権との調和が問題視される。」
となっています、ご丁寧に問題定義までされていました。
もっとさかのぼってGHQ草案では「一般の福祉(general welfare)」となっており、これは明治憲法下で「法律ノ範囲内」となっていたところをわざわざGHQ草案で修正したもので、それが一般的制約原理としてそのまま同じ意味で「公共の福祉」として採用されたらしい。
そして、広辞苑にもあるように基本的人権との調和は今も議論が続いているところと言うのが一般的らしい。

とすると、今回の人質事件で「国の警告に従わずに迷惑をかけた」「国政に口を出した」と言う事で 人質・および家族を非難した政治家、マスコミ、国民は
「国民が選んだ政府の施策」は「公共の福祉」
「ボランティア活動」は「公共の福祉」ではない

と考えている、もしくは潜在的にそのように認識している。と言う事だろうか?
特に最初の考えは憲法に当てはめるといささか怖いものがある。
12条は
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に政府の施策のためにこれを利用する責任を負ふ。」
13条は
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、政府の施策に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
と言う事か?。
政府の改憲案とはこのようなことなのかと心配になる。
民主主義の優れたシステムの一つに自浄作用がある。
人が作ったシステムである以上、政治にも間違いはあるはず、状況が変われば方向を修正し国民全体が、間違った方向に行かないためのフェイルセーフが民主主義だと思う。
しかし、上記のような解釈ではフェイルセーフとなるべき反対意見は一般的制約原理の範囲外ということを意味しないか?
つまり動き出したら修正の効かない暴走列車になってしまうということです。

恐らくこのようなことまで意識して非難している人は少ないとは思うが、無意識にこのように思っている人が増えていると言う事は意識している以上に怖い事である。
もちろん「国民が選んだ政府の施策」は「公共の福祉」として非難しているのではない人にとっては関係の無い話ですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/02

掲示板の「ウヨ」「サヨ」論争

5月1日にEUが拡大し、巨大な経済圏ができて世界の勢力図が変わろうというときにイラク関係、人質関係の掲示板では「ウヨ」「サヨ」論争。大丈夫だろうか?
大体いくら市民運動の裏に社民・共産のあったとしても、いまどき誰がそのような政治的思想に傾倒するものがいるというのだろうか。
(そもそも人質を政府・社会が矯正してやろうなどという発想は本来ならば、社会民主的だよね)
いずれにしても冷戦時代の化石で論議してもしょうがないでしょう。
反戦、国防、親米、反米、国際貢献、北朝鮮問題いずれも他国でも議論があるところだと思けど、このような対立軸で議論しているところなどほとんど無いと思うよ。
北朝鮮、中国への警戒というところなのでしょうが2国とももうイデオロギー的には崩壊したり、変質してとてもイデオロギー的な影響力など無いわけだから。
「ウヨ」にしても純粋な憂国の右翼が自衛隊を派遣したからといってもろ手を上げて対米追従路線を歓迎しているとも思えない。
それなのに全ての帰結を「ウヨ」「サヨ」に置き換えようとする一部の投稿は滑稽としか思えません。
戦後、冷戦下長い事、野党は社会(社民)共産が定番だった為政府の反対は社民共産(サヨ)という固定観念ができているようだ。「ウヨ」はまだ化石ではないけれど、「サヨ」発言に触発されまともな国防論議を「ウヨ」として片付けてしまっているのも理性的とは思えない。

イラク戦争そのものを見たときにどこに「サヨ」のようなイデオロギーの入り込む余地があるのだろうか。
最も関係ありそうな北朝鮮の脅威にしても、いまや北朝鮮がイデオロギー的に共産主義だから脅威なのではなく、独裁主義で世界から孤立していてなにをするかわからないから脅威なのではないか?
人質問題にしてもそう、人質問題を共産社民が利用しただけでイデオロギーなど関係ない。
社民共産が支援したからといって市民運動や反戦運動そのものをイデオロギーを背景にした反動的な運動だなどと帰結したら世界の先進国はあきれるでしょう。
人道援助、市民運動、反戦運動、国際貢献、ボランティアなどは皆欧米思想の基本的な部分ででつながっているのです。
「ウヨ」も「サヨ」もイラク問題、人質事件、北朝鮮においては本質ではないのです。
せいぜいイデオロギー抜きの「サハ」「ウハ」程度にしてほしいものだ。
今の世界の対立軸は 民族、宗教、経済。
いつまでも大事に55年体制的発想を持ちつづけても世界から孤立するだけです。
イデオロギーの対立軸などは早めにごみ箱に捨てましょう。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/05/01

GW傾向「高遠長」

さて、初めてココログに参加する事になりました。
まだ見てくださる方はいないと思いますが、間違ってみてしまったという方がいましたら、若葉マークの試用期間中ということでお手柔らかに・・・
いよいよゴールデンウィークに入りましたね、ちょっと外に出るとどこも車と人でいっぱいになっています。
何でも今年のゴールデンウィークは高遠長が特徴といっていました。
私の場合、もともと人が休むときが忙しい(本当はいつも忙しい)仕事についていてので長期休暇というのはあまり関係ありませんでした(今はもっと関係なくなっています)のであまり実感がないのですが。
しかし、この「高遠長」いったい誰が調べて、発表したのでしょう。
結構早い段階から出ていたような気がします。
予約状況から調べたのでしょうか?
政府機関が国民の余暇のすごし方を調査したのでしょうか?
それともこれまでテロ関係で冷や飯を食っていた旅行業界が再起を賭けたキャンペーンなのか
はたまた、政府が景気回復をさらに軌道に乗せるためにとった秘策か。
同じような事はファッションで「今年は~が流行する」という話題を見たときにも感じます。
皆さんはこのような情報をどの程度、気にして生活しているのだろう?
ファッショに関しては結構、これらの情報を参考にしているのではないでしょうか。
このような情報を目にすると「何か意図があるのかな」と思ってしまうのは、やはり私の固定観念?

それでは皆さん、特に海外の遠くへ行く方は「自己責任」を忘れずにお気をつけて。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

トップページ | 2004年6月 »