2008/01/30

「ガソリン国会」っていうのでしょうか?


正直言って国会を見ていても、TVの政治家の話を聞いていても何を話し合っているのか分からない。
とにかく互いに理解しないように論点をずらしてとぼけているようにしか見えない。

きっと彼らは相手を理解することは、相手に利するだけだと思っているのだろう。

相手が自分の土俵に乗らない事を「相手は議論しようとしていない」と言いながら、自分が相手の土俵に乗ろうなどとはこれっぽっちも考えていない。

相手の土俵に乗らないまでも、自分も相手もそれぞれの土俵から離れようとはしない。
離れた途端に相手の土俵に引きずられると「疑っている」から。
「不信」もここまでくるとにっちもさっちもいかなくなる。
(ふと以前書いた「できてもしないこと」の影響はこんな風に出るんだろうなと思ったりもする。)

これだけ政治的妥協が下手だと、これが外交で、他国と対立があって、日本が軍事力を持った国だったとしたらいずれが政権の座にあっても「戦争回避」なんて夢のまた夢に思えてくる。


ただ、確かに双方ともに困ったことだとは思うけど、それでも日本のためにも、自民党自身のためにも、政権交代したほうがいいと思う。
とはいっても、民主党が優れているからじゃない。
官僚とのしがらみや利権を断ち切りたくてもできないようだから、別の誰かに一旦断ち切ってもらい、再起を期したほうがいいと思うからなんだけ。
高度成長期に染み付いた無駄を許容する体質を改善してスリムになったほうがいい。


私個人の本音を言えば、別に他の税金との兼ね合いがバランスが取れていて、透明性が高く、運用に無駄が無ければ「道路特定財源」でも「一般財源」だろうとかまわない。、無くすにしても急に無くすよりも徐々になくして行くほうがいいとは思う。(過去にそうするといっておきながらやってこなかったからその付けが回ってきているだけでしょ?)
そのような前提が確保できるなら、まだまだ石油が高値を推移していきそうな状況の中で一時的に「ガソリン代」だけが下がっても、一時しのぎでしかないのならばむしろ耐性をつけていたほうがいいのかもしれないし。

でも、道路を作り続けたいのに、山や森を切り開き開発を続けたいのに取ってつけたような「環境問題」を突然持ち出したりしたって説得力無いと思う。
ガソリン代を下げたって、それはガソリン使用量が「維持」されることは有ってもそれでも高いガソリンを誰も以前にも増して使いたいなんて思わないでしょう。
多分、私達庶民はただでさえ生活が厳しいのだから節約し続けるよ。
あれもこれもと法案を通す理由にできるものならなんでもそろえればいいというもんじゃない。
それも、焦点がぼけて議論にならない理由の一つではないのか?


そんなことよりもなによりも、先に書いた
「他の税金との兼ね合いがバランスが取れていて、透明性が高く、運用に無駄が無ければ」
と言う「前提」が現与党の元で成り立つとはどうしても思えないんだよな。

現に、与党はこれまで「暫定」を放置し続けてきた。
道路があれば地方が活性化するというが、計画時点で提出された効果の「試算」がまるで結果とかけ離れているものも少なからずあり、「少ない負担」につられて「便利」を手に入れても、その「少ない負担」の金額はけして小さくなく、試算のように出るべき効果も出ないために回収して歳入に当てることもできず、地方の財政を圧迫したりしている。
それなのに前提の間違いが明らかになりはじめても、野党から指摘されなければ自ら検証しようなんてことは考えもしてこなかったし、その教訓を生かそうなんて思いもしないのだから。
検証能力、合理的センスがまるで感じられない。

これは年金問題でも同じだったはず。
あらゆる資料に野党よりもアクセス可能な立場に有りながら、野党に指摘されなければ(されても)気がつかないほど(責任を問われるから気がついても見ないようにしているのかもしれないけど)機能不全に陥っている。
他党の「政権担当能力」なんて云々している場合ではない。

それに、現在進行形で過去に絞り込んだはずの「必要な道路」を再びその「必要な」を取り払って全てを作ろうとする動きもあるとも聞く。

そのような現状のさなかに、「今以降、ちゃんとやります」といわれたって、そんな空手形を信頼しろと言うほうが無理だ。

本当は信頼したい。
でも、そこまでお人よしにはなれない。

本当にあるかどうか分からないけれども、気がついても気がつかないフリをして見ないようにしてしまう与党には「見えない」財源が、野党には「見える」としてもまったく不思議だとも思えないんだよね。


ついでに。
民主党の造反議員のこと。
比例代表というところは確かに引っかかるけど、基本的には議員なんだから自分の意思で決めればいいんじゃないかと思う。
その代わり、それと同様の理由で、自民党の議員も自民党の法案に反対ならばその意思に従ったほうがいいと思うけど。
党内のごたごたはお互い様で、それは日本や日本を取り巻く世界の実情そのものが多様なんだから仕方が無い事で、政界が再編されたって同じことの繰り返しだと思うよ。(参考:「党の存在意義(2)」)

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2007/09/27

なんか変な夜(朝)だ

昨夜は早めに寝たのに夜中に目が覚めてしまい、TVをつけたらちょうど「ジョニーは戦場にいった」と言う映画が始まったところだった。

この映画を見たのは小学校か中学校か、いずれにしてもかなり昔のことだ。
そして、頭の中に強烈なイメージとして残っている。(殆どトラウマ)
戦争や平和のことを考えているときも、尊厳死のことを考えるときも、意思を伝えられない今介護している母を看る時も、人の認識について考えるときも、この映画の中のジョニーの姿を思い出すことが度々ある。

かといって、もう一度見たいとはなかなか思えない映画で、何度も再放送されているのに、正直言って最初から最後まで見たのは、この最初に見たときだけだった。
それなのに今でも意識の底にこびり付いて離れないでいる。

この映画の中には喜びもあれば、悲しみも在る。
優しさもあれば非情も在る。
幸せもあれば悲劇もある。
そして、希望もあれば絶望もある。
ただ、終わり方がつらい。
せっかくコミュニケーションの手段を見つけたのに、せっかく人や自然や神との感触を得たのに・・・その全てが閉ざされてしまう。

そんなこの映画の進行はあっけないほど淡々と進む。

様々な対立、対比を提示され、それがそれぞれを際立たせ、際立たせておきながら最後に断絶させられ、預けられる。
どこにも投げようもないボールを淡々と何でもないことのように預けられる。

本当に理不尽な映画だよ。
でも、忘れることができない。

そんな理不尽な映画「ジョニーは戦場にいった」を今日は最後まで見てしまったよ。


そんな映画の後に「名画の秘密」という短い番組でフェルメールの絵が画面に現れた。
少しだけホッとする。
ちょうど昨日の平川さんのblogでフェルメールの絵のことが書かれていてWEBで検索してBLUE HEAVENさんのサイトフェルメールの絵を眺めたりしたところだったので、その偶然に少し驚かされた。

その短い番組のあとに、クラッシック・プロムナードで「アランフェス」が流れる。


なんか変な夜(朝)だ。

少し寝るけど、午前中はつらいだろうなぁ。

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2007/09/23

高齢者虐待

「高齢者虐待1万2600件 在宅者が大半」
こんなニュースを目にした。

そこに

「虐待被害者の8割が女性で、半数が80歳以上。家庭での加害者は、息子や夫が多かった。」

などと言う記述があったので、「在宅で母親を介護をしている息子」としてはなかなかスルーできるニュースではない。

一般化した話は専門家や他の人に任せるとして、私の場合のことについて少し書いてみたい。


私が母を介護するきっかけになったのは脳梗塞であるが、その影響で認知症も宣告され、そのような症状も現れた。

介護の当初、私にも「苛立ち」がムクムクと湧き上がった時期がある。

何に苛立っていたのだろうと今考えてみると
「できるはずのことができない」
「するはずの無いことをする」
「こちらの話を理解しない」
等だったと思う。

これらは皆、「以前の母」と「今の母」との間にあるギャップだ。
以前の母こそが母であり、今の母は本当の母の姿では無いという思いだったのだろう。
それは喪失感であり、悲しみを伴った「苛立ち」だ。
(でもそんな簡単な理屈で言えるものでも無いのだが・・・)

「なんでオムツに手を突っ込んで、そこいらじゅう汚物だらけにしちゃうんだ」
とか
「なんでオムツに手を突っ込んじゃいけないって事を理解してくれないんだ」
とか

そんなときにオムツに手を伸ばそうとする母の手を反射的に止める私の手に無意識のうちに必要以上の力が入る。
その手を反射的に叩いたりする。
そして、思うのだ。
ひょっとしてこれは虐待なんじゃないか・・・と
そう気づいて、自分を責める。
それがまた、苛立ちの元になる。

きっと、そんな苛立ちを母も感じ取っていただろう。
そうすると母もすねる。(瞬間的な感情に認知症はあまり関係ないのだろう)
その結果現れる母の反応もまた苛立ちの元になる。

苛立ちのスパイラルのようなものだ。


社会生活や仕事をしているものには「時間」や「手間」にはどうしても制約がある。
そして、様々な振る舞いも、理性により制御している。
でも、母にとってはそんなことは関係ない。
そんな「時間」や「手間」に囚われた私にとってはそれを阻害する母の行為は(私にとっては)反社会的ですらあったわけである。(笑)
これは、社会と介護者を抱える家族とのギャップでもある。

私の場合、そんな色々なギャップが苛立ちにつながっていた。

だから、ニュースにあるような「虐待」を生む状況を痛いほど想像できてしまう。
そして、社会のあり方はそのようなギャップを狭める方向には向かっていないだろうなと言うことも・・・


今は、殆ど苛立ちを覚えることは無い。
以前と同じようなことを母がしても、「しょうがねぇーな、おふくろさんは」と笑っていられる。
むしろ、無邪気な母の顔を見ると不機嫌が癒されることすらある。

おそらく、「以前の母」と「今の母」を結びつけなくなったのだろう。
どちらかを切り捨てたのではなく「以前の母は以前の母」であり「今の母は今の母」であると割り切りはじめた。
そのように「仕向け」続けていたら、そうなった。
そうしているうちに、心持ち母も穏やかになったように見えるのがまた不思議である。

私も人間なので「完全に」と言う訳にはいかないが、母に関して「合理性」を諦めた。
時間をとられること、手間がかかることは「損」であるという合理性を諦めたら穏やかになった。

これを「損得」で見れば、きっと損だ。
聖人ではないので今でも、時々「損」を意識することはある。
でも、そんな風に思っていたときは心は苛立ち、そうでない時は穏やかになるのだからきっと良かったんだろうな。
これから先も、同じように穏やかで居られるか?・・・それは分からない。(私自身歳を取るし、仕事のこともあるし)
外から見て「損な生き方だ」と見られるのも、正直言って「痛い」が、周りの反応を私がどうこうできる訳でもないので、それは仕方が無い。
でも、それで苛立つ訳でもないし、それを考えても答えが出る訳でもないからね。

ニュースに出てくる「虐待」の事例は、きっとそれぞれ皆環境が違うだろうし、症状も違うだろうが、今のところ私の場合はこんな感じでなんとかしのぐことができているようです。

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2007/09/20

ミクロを忘れたマクロ

バグダットバーニングのリバーベントは何とかイラクからシリアに脱出したんですね。
Leaving Home...(原文)
我が家を離れて・・・(和訳)

イラクを離れると書き残したのが4月の終わり。

しばらくの間は定期的にチェックしていたのだけれど、なかなか更新されず、ひょっとしてブログが更新される日はもう無いのかなと・・・

でも、9月6日の日付で更新されていました。
くだらないどこぞの国の茶番劇に気を取られていて不覚にも気がつかなかった。

記事に切々とつずられた離別の描写、思いは、私に彼女が無事であったことを単純に喜ぶ気にはさせなかった。

私は毎日のようにイラクのニュースを目にする。
「どこどこで自爆テロがあり何人が命を落とした」とか「マリキ首相がどうした」とか「政府の高官が暗殺された」とか・・・
あるいは「アメリカ軍の撤退がどうだ」とか「テロとの戦いがどうだ」とか・・・
そういったマクロな情報には事欠かないが、これら何の人の気配を感じさせないマクロな情報の中には、それこそ私達と同じように一人一人のミクロな現実があるんだと言うことを痛感させられる。

アフガンとイラクがどうだとか、国連決議1386がどうだとか、そんなことにばかり気を取られてそれらの原点を忘れていたような気がする。

今回のリバーベントの日記にあるのは悲しみ、恐怖、安堵・・・そして、そんな中でも忘れないユーモア。
そこに、恨み言は見られなかった。
それを綴ろうとすれば、いくらでも書き続けることができるだろうに・・・
それが、見られなかったことでなおさらそこからにじみ出る悲しみが痛いのだ。
悔しかったろうな・・・

私にはシリアと言う国に脱出して安堵感を感じる彼女の感覚が想像できなかった。
ヨルダンに脱出するイラク人がいることはNHKか何かのドキュメンタリーで見たことはあるが、シリアはテロリストを支援している国だと言うアメリカの報道のせいか何かしら緊迫したようなイメージを持っていたため、リバーベントの

The Syrian border was almost equally packed, but the environment was more relaxed. People were getting out of their cars and stretching. Some of them recognized each other and waved or shared woeful stories or comments through the windows of the cars.

という雰囲気が意外であった。
ドキュメンタリーで見たヨルダン国境のイメージともずいぶん違う。

そして、次の一節が頭にこびり付いた。

Most importantly, we were all equal. Sunnis and Shia, Arabs and Kurds… we were all equal in front of the Syrian border personnel.

イラクに共に住んでいた民族が、故郷を離れた故国の「淵」で、難民と言う立場でしか互いに憎しみ・不信を抱かずに存在できないことの不合理を感じずにいられなかった。

世界の様々なところに同様な、あるいはそれ以上の不合理はあるだろう・・・が今はリバーベントの身に起きた不合理に心動かされてしまうことを許してほしい。

彼女に、そして不合理に見舞われている全ての人に、いつの日か平穏が訪れますように。

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2007/09/19

また・・だ

国連安保理が「謝意」決議へ

参考エントリー「尻軽すぎ

どうしてこう・・事の因果を混同して、「操作」でつじつま合わせをしようとするのかな。
今、この「謝意」を切実に必要とする国家は国連加盟国中で武力行使に強し縛りを持つ日本(の政府)だけじゃないの?
もちろん、他国にも国内世論に好影響を与えると思う国もあるだろうし、日本の世論が変わることで助かる国もあるだろうから、それに乗る国もあるのだろうけど・・・
一国家の、一政権の、一政策のために国連の意向を操作するのはよくないじゃないの?


自分への「謝意」って、働きかけるものなのか?

つまりこういうことでしょう。

日本の政府が 国連にお願いした「謝意」 を日本の国民にありがたく押し頂かせて 「ほら 国際世論でしょ」 といって その政策の正当化を図る。

これって・・・独立した民主主義国家なの?

「政府は国民を代表していません」「自国の政策を自国では決められません」ということを大々的に宣伝しているようなものじゃない?
実際にそうなんだけど、そんなもの世界に向けて発信することでも無いだろう。

小沢氏の国連主義だって、国連の枠で、最終的に自国で決定するのだからこの手法ほどひどくは無い。
この国連の枠を、一政権が操作して、自国の決定を方向付けてしまおうというのだからね。
枠にはめて制限することと、枠を利用して制限を取り払うことはまるで違うからね。

まさかそんなことは無いと思うが、小沢氏の国連主義の矛盾を国民に知らしめるために「国連なんてこんなもんだよ」という状況を意図的に作ろうとしたのならば国連への侮辱もはなはだしいということになる。

そんなことは無いと思いたいが、意図的に既成事実を積み上げて、その既成事実で人の心を誘導しようとするのがこれまでの政府が散々使ってきた手法だから・・・ついつい「穿った見方」をしてしまうんだよ。

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2007/09/14

野に下るまでの間

立花隆氏のNikkeiBPの記事「週刊現代が暴いた“安倍スキャンダル”の全容」 を読んだ。
うわさには聞いていたけど、週刊現代が暴いたと言う安倍さんのスキャンダルはけして小さなスキャンダルではなさそうだ。

もしこれが事実ならば、私の前回のエントリーはかなりの「お人よし」だったということになりそうだ。
もし本当のお人よしになれるのなら本望なんだけど、お人よしになりきるのも難しいものだ。
なんでこんな人が首相に選ばれてしまうんだろうね・・・自民党の皆さん



ところで、次は福田康夫さんですか。
覚えてますよ、年金未納問題発覚時の鮮やかな幹事長辞任劇。
結果的に、その辞任が民主党の追及の手を鈍らせ、他の未納疑惑の閣僚達を救ったと私は思ってます。
小泉さんと政策が違うにもかかわらず、小泉政権の幹事長を長きに渡り淡々と隙を見せずに勤められたことも。

今の自民党の中ではまっとうな路線じゃないですか。
これまでのANAの右傾グループのイデオロギーも少しは修正されそうですから。
アジア外交もさらに安定するでしょう。
でもANAに期待してきた自民党支持者は落胆するでしょうね。
私は良いけど

でも、小泉・安倍内閣によって積み上げられた既成事実は放置されたままです。

今回の総裁選を見ても勝ち馬に乗り雪崩を打つ自民党の先生方の節操の無さは変わりません。

安倍さんを生んだのも、安倍さんの右傾を後押ししたのも、強行採決に加担したのも、今の国会麻痺状態が予想されたのに誰も国のために安倍さんの続投を体を張って止められなかったのも皆自民党の先生方です。

一息つけば、また亡霊のように現れるのではないですか・・・彼らが


福田さん、貴方だからお願いするのですが、自民党が野に下るまでの間、

行政機構の改革、別に反対しませんが、市場(民間)に投げ出すだけで済ますのはやめてください。
独立行政法人・特殊法人のような準行政機構の実態を透明化してください。
消費税のまえに、そろそろ十分な利益を上げ始めた法人(大企業)の課税率を見直してください。
以前のようなばら撒き、私も賛成するわけではありません、きめ細かに必要なところを見極め効果的な税金投入をしてください。
無制限な対米追従、少なくとも国家の体を保つぐらいの境界線は守ってください。
感情的な煽りを控えてください。
少なくとも改憲もしていない今、憲法を守ってください。
「テロとの戦い」を建前ではなく事実に基づいて検証をして展望をはっきり示してください。
強引に既成事実を積み上げないでください。
安倍総理が設置した各種お友達諮問機関を解消してください。

自民党に多くは望みませんが、この内容ならば福田さん御自身の基本政策路線から外れると言うことも無いでしょう。
解散総選挙までの自民党のお守りを頼みましたよ。

あ、まだ決まったわけじゃなかった・・・でも、国会が止まっているのだからメディアを独占しようなんてミミッチイ事しないでさっさと決めちゃってください。


【追記】本文中でも「もしこれが事実ならば」と少しかわした書き方をしておりますが、さらに公正を期すため、安倍さんの事務所側の言い分を記した日経スポーツの記事へのリンクを記すと共に、そこで述べられている部分を引用しておきます。[2007/9/15 21:20]


首相の事務所が週刊現代の取材に警告」2007年9月13日4時54分

事務所側は「当時の政治資金規正法は、あらかじめ届け出た指定団体が寄付金を取り扱うよう定めており、晋太郎氏は、個人で受けた寄付金を自分名義で指定団体に寄付していたにすぎない」と説明。「個人資産を寄付したというのはまったくの誤り」としている。

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2007/09/12

なんと言ったら良いのだろう

安倍さんが辞めた。
タイミングは最悪だ。

それだけ精神的に追い詰められていたのだろう。

私は安倍さんのイデオロギーも、手法もとてもついていけないが、有力政治家とか総理大臣とかそのようなタイトルのない一個人にはなんの恨みも無い。

そんな別の心情から、安倍さんの周辺は安倍さんをしっかり見守ってほしいと思う。
このような辞め方をせざろう得ない精神状態はさすがに尋常とは思えない。
政治家として、この挫折は安倍さんにとってはとてつもない(すべてを失ったかのような)ダメージになっているはず。

なぜ、参院選敗退後に体を張って辞任を勧める側近や同志がいなかったのかと悔やまれる。
自己責任なんて標榜する自民党の先生方は自業自得なんていって突き放すんだろうな・・・

それにしても、政治の空白以上の、議論も行われない大穴が開いちゃったな。
困ったことだ。

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邪悪だよ・・・ホントに

今年も9.11がやってきた。

毎年、この日が来て、イラクの状況やテロとの戦いの進捗を振り返りながら、そこに全く変わらない状況を確認することを繰り返す。

引くに引けないって言い続けて、それが続く中で死傷者の数だけが増えていく。
イラクの民間人の犠牲者はイラクボディーカウントによるとすでに7万人を超えると言う
これには民間人以外の犠牲者は含まれないのだろう。
それらを含めると一体どれだけの犠牲者を出したのだろう。

今年はアフガニスタンの状況も確認しなければいけないことだけが去年と違う。


出口が見えないのに「引くに引けない」

これもまた「観念」なんだよな。
「支配したい」「支配されたくない」「秩序を維持したい」「秩序を破壊したい」「守りたい」「排除したい」・・・・・・・・

このうち、どれ一つとして成就しないのに、していないのに、する見込みも無いのに延々とそれを求め続ける。
誰もが「する」事を断念したら「される」立場に追いやられることを確信している。

あるべき元の姿があったならどんなに良いかとも思うが、立場によってそれは違ってしまう。
誰かがどこかで我慢をして、その我慢を我慢して信じる事ができない。

さまざまな欲望やそれを補強する観念や理屈や信心が人を殺していく。

「観念」によって人が殺されていく。

邪悪だよ・・ホントに。

イラクから米軍が撤退したら、治安を回復しようとして米軍に(国際社会といっても良いけど)協力的だった人々は裏切り者扱いされるのだろうなぁ。
とか
テロリストは「勝った」といって「自信」を持ち勢いづくのだろうなぁ。
とか
彼らが勢いづいて中東の石油供給システム・市場が崩壊すれば「経済」は崩壊するだろうなぁ
とか
その崩壊を防ぐ勢力に力を貸さないとシステムが崩壊しなくても、「経済」の恩恵は受けられないだろうな
とか

まだここにはありもしない色々な「悲劇」や「私の不利」が次から次へと、あたかも現実にそれがすぐそこに有るかのように想起され、想像力逞しくイメージされたリスクをヘッジしようと総動員される。

「降りたら負けよ」のチキンゲームを繰り広げて、そのゲームが続く間、皆が負け続ける。

負けているつもりは無くとも、「負け犬」と人々を蔑みながら、人は不安に駆られ、監視され、動員され、奪われ、運が悪ければ命を失うのだから負け続けているんだよ。

一体何を守りたいのだろう・・・私たちは

勝ちを望んで、負けてはいけないと必死に何かにしがみつきながら・・・負け続けているんだよ、誰もが・・・

「いや、誰かがきっと得をしている。」って言うかもしれないけど、その時点で、もう負けているんだよ「本当に大事なものを守ること」に・・・きっと

皆がいっせいに言えれば良いのにね「い~ち抜けた」って

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2007/09/11

日本の原則

日本の国内の世論を変えたいと思うときに「国際社会の常識」などと言う言葉が使われる。
そしてこれが意外に効果がある。
どこかに一様な「規範」があると仮定し、それに従うことにそれほど抵抗感を感じない。

日本の規範意識が常に外(世間とか)に置かれがちであることを考えると、いかにも日本的だなと思う。(関連エントリー:「内なる公共心」)
さしずめ、「国際社会の常識」は日本版「世間」の世界版のようなものだ。

国際的であろうとする手段が、日本的になるところが面白い。

とはいっても、間違えない事においてはそんなに悪くもないだろうし、日本が今の位置にいることができるのも、このような外への気配りにあるともいえるので、生存戦略として見ればそれは日本の強みなのかもしれない。

しかし、先進国としての「貢献」とか「責任」とか言うものを考えたときにはやはり、日本は日本なりの原則を意識しておく必要があると思う。
自ら決めたと言う意識が無ければ「責任」なども意識はしない。
(ついでに言えば、多数があるからといって強引に押し通した法案が国際的な約束のようになってしまっても、自ら決めたと言う意識を共有していなければ「責任感」などうまれない。だから手続きが重要なのであり、手続きへの信頼も重要になる。)

私はこの「国際社会の常識」と言うのは「結果」だと思っている。
国際社会をリードする国々がそれぞれの国の国情の最適化を計った結果の集まりのようなものだと思う。
それぞれの国にそれぞれの特徴や事情、制約があり、それら原則と協調のための妥協の結果現れるものだと思う。
結果として現れた「形」は常に「仮説」のようなもの。

だから、形(表層)は常にその前提の変化に伴って変化していく。
大元に共通の何かを持っていても、その手段は変化するし、国情によっても、現状認識によっても変化していく。
その変化は追っていくものではなく、それぞれの国で「生まれる」結果が集まって変化として現れる。

イラク戦争にコミットしていても、状況が変われば、たとえ大元に共通するものを共有していようとも自らの判断で撤退もするし、アフガニスタンへのEUのコミットメントもそれぞれの国情が変化すれば撤退することもありえるだろう。

政府や財界がいう「国際社会からの評価」も、そのときにはまた違ったものになるだろう。


地理的な違い、歴史の違い、さまざまな違いがある中で、それぞれがそれぞれに「良い」と思うものを原則としながら、協調のために「最適」を求めて妥協していく。
でも、原則が無ければ「妥協」という概念すらも成立しない。


ただ一番気にかかるのが日本の「原則」がいつのまにやら、その結果である「国際社会の常識」とか「米国との同盟関係」になってしまっていることだ。
特に、「米国との同盟関係」が「原則」のようにしてさまざまなことが決まっていくのは日本と言う国の存在価値すら奪われかねない。

日本にとって米国の同盟国であることが国民の望む原則なのか?

米国の同盟国であることは「妥協」でしかないのではないのか?

それでは、それを「妥協」にしている「原則」と「現実」とは何なのか?

「現在の平和憲法」を変えていくことが意味するのは、「原則」をかなぐり捨て「現実」との「妥協」の煩わしさから開放されたい「妥協」を担う政治家の力量不足による責任回避・放棄に過ぎないのではないのか?

そりゃ矛盾はある。
だから妥協がある。
妥協が必要だから外交が必要で、政治が必要で、政治家が必要なはずだ。
矛盾を飲み込めない政治家なんてその存在意義すらない。

矛盾が嫌だからといってその原則を現実で置き換えたときに、そこに残るものは国民が望むものとしての「原則」の条件を満たしているのか?
「しかたがない」は「望み」ではない。

「妥協」であるはずの「米国の同盟」がいつの間にか「原則」になってしまっているこの国の政治家は、それこそ「国際社会の常識」からハズレまくっているのではないのか?

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2007/09/07

アフガンとイラク

アフガンとイラクを区別しろと言うけれど、法律の経緯に区別はあっても、その現状は区別などできまい。

テロ特措法は、9.11直後の認識で立てられた時限立法であり、イラク戦争の「イ」の字も想定されない時点での法案である。

それ以降の過程で前提が変われば当然見直されるべきものであるにもかかわらず、何の検証もせずに、まともな議論もせずにただの「延長」でごまかして、放置しながら現在に至っているのだから法律と現実とに矛盾が出るのは当たり前である。

日本が追随しているアメリカ(政府)は一貫して「テロとの戦い」としてイラクとアフガンを区別などしていない。
区別していないアメリカ政府のもとで展開されている米軍と行動を共にしているのだから、日本の米軍支援にイラクとアフガンを区別することはできないだろう。

国連決議1368(注1)は先進国の多くが賛意を示したとは言え、それぞれの国はそれぞれの国の国情にしたがってその行動を自ら選択したし、そのように解釈できる決議だった。
それなのに、政府は米国に追随するために国情(制約)を無視して「米国のような」国連決議の解釈を選択してしまったのだ。

本来ならアメリカがアフガニスタンへの武力行使の根拠とした「テロとの戦い」に関連付け、その延長線上にイラク戦争を意図した時点で国連決議1368にも立ち返って、日本の国情と政府が選択した国連決議の解釈との更なる乖離を検証していればまだしも、イラク特措法まで作り出して米軍と一体化してしまったのだから救いようが無い。

アメリカのイラク戦争突入で、国情を無視してまで政府が選択したどちらとも取れる国連決議1368の解釈も完全に破綻してしまっているのだ。

アフガンとイラクを区別しているのはEUであり、アメリカにもイラク戦争に否定的な風潮が広がるにしたがって区別する傾向は出始めたが、それを区別し始めたのはアメリカ政府以外のアメリカであり、日本はEUや「政府以外のアメリカ」に協力しているのではなく、アメリカのブッシュ政権に従っているのである。

このような政府の手続上の「手抜き」の結果現れた「矛盾」をその当事者自ら「現実」のせいにするのは本末転倒である。
最近の企業犯罪や社会保険庁の構造と全く同じで、問題を放置して、既成事実を積み上げ、その結果生まれた問題の責任を追及されることが無いように現状を追認することで問題を大きくしてしまう。

もはや既成事実である以上、時間を戻さないかぎり「手抜き」で生まれてしまった矛盾は日本の面目に傷が付くこと無しに回復することはできないが、既成事実にひきづられて道理に合わない状態を追認してしまえばそれ以上の傷が付く。

「手抜き」で積み上げられた「既成事実の矛盾」の責任は政権担当能力に欠けていた現与党が取るべきものであって、参議院で野党がその回復を図ったとしてその結果日本の面目に傷が付いたとしてもそれをもって政権担当能力を問うのまた本末転倒であろう。

米国の下院で「対テロ戦争への貢献など日本の安全保障に関する努力に感謝する決議」なるものも可決されたようだが、リップサービス以外の実質的な感謝を何らかの具体的行動で示されたわけでもない(例えば北朝鮮問題)のだからなんらかのobligationを負ったかのように「情」に動かされないようにしたいものだ。

かといって、少なくともアメリカも悪意があってそうしているわけではなくアメリカは当たり前のことを当たり前のようにしているだけで、アメリカからの実質的な見返りが無いとかリップサービスだとか言うことを責めるのはおかしな話である。
相手の責任などではなく、望みもしないものを他責的に「しかたがない」と言って何を望んでいるのか表明しない日本の姿勢にこそ問題があるのだから。
たとえ妥協するにしても妥協するのはその後だ。

素直に「ありがとう」といいながらそのうえで「でもテロ特措法の延長はできないよ」と言い、それを言いつつ「延長はできないが、テロ撲滅のために日本ができる事は誠心誠意取り組んでいくつもりだから今後もよろしく」と言えば良いのだ。


【注1】
せっかく国連決議1368が話題になっていたのでそれについて少し。

国連決議(1368)はどうなっているかといえば、9.11を「テロリストによる行為」と認定し、その上で「テロ行為」に対して国際社会が一致団結して、取り組むことを求めている。
この決議の契機は9.11ではあるとしながら、具体的な要求の対象が9.11に特化したものであるかどうか、「責任を追及し裁く」対象が9.11に関与に特化したした「その」テロリストであるかどうかはどちらにも解釈できそうな記述に読める。
少なくともイラクを名指し具体的な行動、権限を承認した湾岸戦争時の国連決議(678)のように、アフガニスタンという固有名、タリバンやビンラディンという固有名が出てくるわけではない。
前段(前文、および1,2項)は具体的に9.11に焦点を当て、後段(4,5項)をテロ行為に対する姿勢・決意・協調を一般化した文言で記述されているような構成になっている。(3項はどちらとも取れる)
そしてその構成ゆえに全体としては、前段を全ての後段の前提としているようにも取ることもできるし、前段を「契機」として後段をテロ一般に言及しているようにも取れる。

これらは、事件発生直後の決議なので、その緊急性・重大性にもかかわらず具体性に言及するまでの材料が乏しかったという事情も考えられるが、その事情によって具体的に言及していないという事実を無視できるわけではない。
ただ、具体的な記述が可能であったか可能でなかったかよりも、むしろそれぞれの国がそれぞれの国の事情を抱えていることを考慮して(9.11を契機として強く意識させながらも)解釈の自由度を確保して決議を成立しやすくするために敢えて後段を一般化した文言で慎重に記述されたように受け取れる。

私は法律文書や英語の専門家ではないので、その読み方が正しいのかそうでないのか分からないが、国連の決議そのものがそもそも玉虫色であることを理由に小沢代表に国連主義に疑問を投げかける専門家もいるぐらいなので湾岸戦争の決議(678)よりさらに具体性を欠いたこの決議が解釈の幅を広げたものと見てもそれほどおかしな話ではないだろう。

1368の採決に賛成票を投じながらも後段に記述された要求をアフガニスタンへの軍事行動に参加、協力するという具体的な形で応えなかった国(中国、ロシアなど)もあり、それらの国が国連の意向を無視しているとして非難されるわけではないので「実質的」には各国の具体的行動についてはそれぞれの解釈に委ねた形になっているのだからそのように見るほうが現実的だろう。


そして各国の判断に委ねられたこの国連決議1368を(その是非はともかく)当時の日本政府は自らの判断として前者の「前段を後段全ての前提としている」という「解釈」をとる立場に立って受け取ったということだと思う。

だから、国連決議1368を小沢代表の言うように解釈するするのも『あり』であり、彼の解釈が政府と違う解釈に立っているとして指摘することはできても、『間違い』とするのは無理があると思う。

もし、国連決議1368を根拠に小沢代表の延長中止論に反論するならば、答えを生まない「解釈論議」に終始して議論が矮小化されてしまうことであろう。

その妥当性を議論するならば、これまでの経緯、現況、今後の展望を精査し、日本の理念・国情に即して実質的な議論をしてほしいものである。

【参考】
国連決議(Security Council Resolutions)
外務省の国連決議1368訳文

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2007/08/28

穿った評価

安倍さんの新しい内閣の組閣が終了した。

自民党内のバランスに配慮しながら、嫌いなものは排除したような組閣だった。

概ね選挙後に安倍さんを擁護する立場をとったメディアや人は「期待」に、批判する立場をとったメディアや人は「失望」に焦点を当てているように見える。

組閣前も組閣後もあまりそのあたりには変化は無さそうだ。
世論もおそらく同じで、全体的には選挙で示された批判の「雰囲気」はあまり変わっていないように思える。

それでは、安倍さんが誰をも納得させることができるような、あるいは、大きく評価を変えることができるような組閣ができただろうかと考えると、きっとそれは無理だったと思う。

一つ一つの事柄には多面性があるので、好意的に見れば「良いこと」も、穿った見方をすれば「悪いこと」に見えてくる。
それがいい事かどうかは判らないが、必ずしも「事実」が事の良し悪しを決定してくれるわけではない。
信頼が無ければ、どうしてもその評価には「穿った見方」が幅を利かせる。

求心力を失うとはそういうことなのだと思う。


たとえば、安倍さんは選挙中、選挙後を通じて安倍さんに批判的な立場をとり続けていた舛添要一氏を厚生労働相に指名した。
私自身も違った意見を持つ人を入閣させるということは悪いことではないと思う。

しかし、それが良い結果を齎すかどうかは「違い」を超えて共有できるものを持ちえるか、それを包み込んで一つの力に結びつけることができるかにかかっている。
それが「信頼」とか「人望」とか「器」、人によってはもっとプラグマティックに「力」とか表現されたりする。

一般的には良さそうなテンプレ的な手法もその前提を満たしていなければ良い結果を齎さないばかりか、下手をすれば内閣がバラバラになる要因ともなりかねない。

しかし、残念ながら私はその安倍さんの技量を信頼していない。
「違い」を吸収しようとする傾向よりも、「違い」を「排除」しようとする傾向を何度と無く見せつけられてきた(と観念している)から、そう簡単には信頼することができない。

それは、「違った意見を取り込む」という「手法」「事実」によってその是非を判断しているのではなく、それ以前の「前提」に対する「評価」に拠っている。

先人の言葉をその前提を無視してテンプレ的に適用させてしまう安倍さんが、今度は定石(手法)をその前提を無視して取り入れただけなんじゃないかなぁ・・・なんて思って(穿った見方をして)しまうのである。

もちろん、可能性としてはガラッと変わる可能性はいつでもオープンなのだけれども、それは起こりにくいだろうという帰納的、確率的な判断だ。(その可能性において私の判断が間違っている可能性もオープンだ)


今回の組閣には、舛添さんの起用にかぎらず、ほかにも特徴はある。
事実として閣僚の年齢が高くなったが、それも好意的なものにも批判的なものにも回収できる。
前回よりも「お友達度」が下がってもそれをバランスが良いと見るか特徴が無いと見るか分かれるところだ。

実際のところは(その是非はともかく)年齢が低かろうがお友達度が高かろうが評価を得ることができる人はできる。
現に安倍さんの総理としてのデータが無い段階ではそんなことは(怖いぐらい)問題視されていなかったはずだ。

おそらく、安倍さんは組閣に対する負の評価をもどかしく思い、その穿った「評価」を不当に感じているだろう。
「なぜ私の真意を理解してくれないのか」と

でも、それが求心力を失うということなのだと思う。


安倍さんが大敗を喫してもなお「継続」を選択したということは、すべてが「うがった見方」をされてしまうことを「前提」としてスタートしなければならないという事なのだと思う。

政策の是非はもちろんあるの(あるべき)だけれども、それはこれらの前提をクリアしないとなかなか話題にはしてもらえない。
だから普通は「責任を取って」と理由をつけて辞任することになるのだろうけど・・・


【追記】8/31
新聞各社の世論調査が出てきました。
バラツキはあるにせよ予想以上に新内閣の期待は高かったようです。
ただ、各社ともその中身を見ると安倍さん個人への期待はあまり高くないようですね。
むしろ安倍色が薄れて閣僚の顔ぶれが無難なところが安心感を与えたのかな?

これが、よく言われるご祝儀のようなものなのかどうかはしばらくすれば明らかになるでしょう・・・きっと

ところで予想はされたことだけど、ここまでメディアによって結果の違う「世論調査」って・・・この統計的手法の「信頼性」をどう考えたら良いのでしょうね。


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2007/08/15

パール判事

私は、極東裁判におけるパール判事(私は過去のエントリーではパル判事と書いていたけど)に以前から興味を持っており、私自身影響をかなり受けていると思う。

今日、そのパール判事の名を2度目にした。

一つはSankeiWebの『首相「パール判事の話楽しみ」』という記事、そしてもう一つはNHKで放送された「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判・知られざる攻防~」という番組だ。

パール判事はいわずと知れた極東軍事裁判で『全員無罪』を主張したインド代表の判事である。
「全員無罪」という言葉だけならば、安倍首相の耳には心地よく響くだろうが、その真意はどう考えても安倍首相の「美しい国」とは相容れない。

安倍総理の
「憲法改定」にも、
「従軍慰安婦問題」に対する姿勢にも、
「南京事件問題」に対する見解にも、
「核兵器」に対する甘さにも、
「軍事力」に肯定的な立場にも、
いずれにも相容れないはずだ。

安倍首相の望む「全員無罪」とパール判事の「全員無罪」とは全く『似て非なるもの』である。
もし、パール判事が存命なら、その孤高な正義と法の人の言葉は安倍首相にとって「耳の痛い話」でしか無いだろう。

もっとも、パール判事は他国の最高指導者に対して押し付けがましいことなどは言いそうも無いが・・・

彼は日本の戦時中の行為に非道や悪を見なかったのではない。
明確にそれを(誇張もあるだろうことを加味した上で尚)疑いの無い事実として認め、容赦なく非難している。
誇張があるからそのような事実は不確かだとか無かったなどという安倍首相の立場とは明らかに違う。
そして、他でもない日本人自身がそのことに真摯に向き合うことを心底願っていた人である。

ただ違うのは、彼の非道に対する非難は、戦争に関する全ての(戦勝国によるものも含む)非道・理不尽にも同様に向けられている事である。

「平和に対する罪」「人道に対する罪」といった事後法による断罪は法理にも適わないだけでなく、その罪を逃れうる戦争に関わった国(戦勝国も含め)などはないという事であり、それは「戦争」に、そして「力による平和」に一切の正当性を認めない「絶対的な平和主義」の信念に貫かれている。
そんな「平和主義」に対する絶対的な信念と「美しい国」がかみ合うはずが無かろうにと思う。

「全員無罪」という言葉だけをつまみ食いして、のこのこインドまで出かけてパール判事のご長男に会って何を話そうというのだろう。

「信念」とか「孤高」とか「精神性」といった今の安倍首相が切実に望むものを確かにパール判事は備え、体現しているかもしれないが、そのあり方に触れたときに思い知らされるのはそれこそ圧倒的な「格の違い」でしかないのではないか?

しかし、その「格の違い」を感じる感性が首相に有ったとしたら、
「パール判事は日本とゆかりのある方だ。お父さまの話をうかがえることを楽しみにしている」
なんて暢気なコメントを残してインドまで恥をかきにいく選択などはしないだろう。

私はこのあたりの首相の感性がまるで理解できない。

記事では「アジア諸国などの反発」を心配しているようだが、反発よりも嘲笑を心配したほうがいいのではないか?

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「政権担当能力」というテンプレ

どうやら、外交における「政権担当能力」というのは「米国(の特定政府)の意に沿わぬことはしてはならぬ」を意味するらしい。

たいした能力である。

しかし、そのような前提ならば「能力」などは必要ない。
どんなに無能力でも「これまでと同じように言われることに従うこと」位はできるだろう。

「能力」が必要とされるのは
一見対立する「困難」な現状があり、そこから妥当な結果を引き出そうという時だ。

少なくとも、これまでの政権担当者はそのような困難を避けていただけなのだから、「政権担当能力」があったわけではない。
「政権担当能力」を問われる事を避けることで「政権」を担当(維持)していたと描写する方が似合っている。

沖縄の基地問題。
グアムへの移転問題。
MD戦略問題。

莫大な借金を抱えているから社会保障費を削り、消費税を上げたいといいながら、「安全保障」の「錦の御旗」を振りかざせば、なんら費用対効果を省みることも無く、言われるままに貴重な国家予算を大盤振る舞い。
世界でも有数の防衛費を費やしながら、それでも「脅威」という「情」にとらわれ、必要以上の「恐米神話」に支えられた「安全保障」というマジックワードにより際限の無い予算が既得権益に吸い取られていく。

しかも、安全保障に関わる「情報」は、機密事項であるがゆえに、「政治資金規正法」を盾にとり「法律の趣旨に沿わない」などというアホのような言い訳をして情報開示を拒否する必要ない。
「日米軍事情報包括保護協定」のようなモノもいつの間にやら調印・発行されている

脅威という現状(環境)が防衛費を必要としているのなら、その緊張緩和を進めるのかと思いきや、金がかかる環境作り(感情的緊張作り)に余念が無い。

拉致被害者問題にしても「脅威」という「感情」を煽るだけでなんら妥当な「結果」をもたらさないばかりか、現実は、被害者の帰国が困難な状況を積み上げ続けるだけである。

中東からの石油資源の保全が求めるべき「結果」なのだが、現実は、さらに「脅威」は拡大し、中東は混迷・不安定に向けまっしぐら。

「日本国民が願う望ましさ」を「困難な現実」の中で実現していくにはもちろん「能力」は必要になるのだが、「困難な現実」を容認するだけならば「能力」など要らないのである。

「能力」が無いから「困難な現実」をそのまま容認し、こともあろうに「日本国民が願う望ましさ」を(能力が無いから力技で)「困難な現実」に沿わせることに夢中になっている。

彼らに「能力」があるとするならば、有無を言わさぬ既成事実を積み上げ、「現実」に弱い日本人に、「日本国民が願う望ましさ」を断念させる、あるいは転向させる「能力」のことだろう。

このような事態の進み方は、戦前となんら代わりが無い。
軍部の強行、政府の追認、更なる強行、更なる追認。
これこそが方向を失った日本が歩んできた「過ち」への道筋だったはず。

一体どこの国の、誰のための「政権担当能力」なのかわからない。

少なくとも戦争により荒廃を体験した戦後のいくつかの政権は「困難な現実」と「日本国民が願う望ましさ」の間で苦悩し、より妥当な結果を出そうとした形跡はあった。
いまでは、そのような苦悩、困難は元から背負うつもりなどなく、ただただ「困難な現実」に従順であるだけだ。

今話題の「テロ特措法の延長」にしたって、その延長が必要だという意見があっても「しかたがないから」という理由しか見当たらない。
恐らく多くの国民も「テロを無くしていく為にはどうしても必要だから」なんて理由はよほどの楽天家でなければ誰も信じちゃいない。
米国の「テロとの戦い」という「力による制圧」でテロが無くなるなんて、もはや、誰も思っていやしないが、遠い中東のことでもあるし、米国との付きあいもあるから「しかたがない」から「延長が必要だ」と言わざるを得ないと「思っている」に過ぎない。

『「テロ」と名づけられた「殺戮の連鎖」を無くしていくには、アメリカ(現政府)の誤った(あるいは意図的なミスリードによる)事実認識の上に掲げられた「テロとの戦い」で本当に良いのか』
という「簡単な問い」を日本の現政権担当者は、巧妙に避けて本当にテロ(と名づけられた殺戮の連鎖)を解消していく「能力」を試されることが無いように無いように振舞っているだけだ。

今の与党や、そのお仲間が言う「政権担当能力」などは、所詮その程度のものでしかないのだから、野党はそんなテンプレのような語彙を気にする必要はこれっぽっちも無い。
逆に民主党の誰かさんみたいにそんなものを鵜呑みにしていては、「困難な現実」をより強固な「困難な現実」に置き換えるだけである。

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2007/08/01

与党の現実、野党の現実

政治的な「現実」は既成事実積み重ねであり、そしてその既成事実を積み上げることができるのは政権政党だけである。
その意味からすれば、その「現実」に責任を負うべきは与党であり、野党ではない。

しかし、そうはいっても政治は「現実」から始めるしかないのである。
「そんな現実は俺たちが積み上げた現実ではないのだから知らないよ」なんて無視するわけにはいかない。

自らの理念とその政策に沿って進められてきた「現実」を継承すれば良い与党と、そもそもが理念に沿わない既成事実(前提)を出発点としなければいけない野党では「現実」は全く違う様相を帯びる。
野党が現実的であろうとすれば、好ましくも無い既成事実を与党が積み上げる度に、野党は自身の理念からは離れ、流動的にならざるをえない。

かといって、あまりにも現実的であることに固執すれば「違い」を示すことはできず、その存在意義を失う。
良いか悪いかは別にしてヨーロッパで左翼がその存在感を保っているにもかかわらず旧社会党(現社民党)が自社連立によりその存在意義をまったく失ってしまったのもそういう部分があったと思う。(もちろん社会主義国の崩壊も大きな要因だが)

「現実的」であることを至上命題にすれば、よほど与党がボンクラでない限り(与党との理念の違いを維持しようとする)野党が与党よりも現実的であることなどありえないのである。

田原総一郎氏などがよく「現実的であれ」といいながら「違いが分からない」なんて事を口にするけれども、それに答えられる野党なんてものは(与党がボンクラでなければ)あるわけがない。

それを分かっていながらそれを口にする田原氏というのは、つくづく意地の悪い人である。

そもそもが「与党よりも現実的」で「政策の違う政党」などというものは無いものねだりであり、だからこそ今の自民党がどんな問題を引き起こしても政権与党を支配し続けることができたのであろう。

野党は常に「現実的」であることにおいては与党に及ばない。
政策の違いが明確であればあるほどそうである。
その及ばない分のアドバンテージが無ければその壁を乗り越えることはできない。

今回の参院選はその「自民党のボンクラぶり」が突出した選挙だった。(ほとんど自爆)
そのアドバンテージにより、「存在意義を維持」することで「現実的であること」に劣る部分に有権者が猶予を与えてくれるかどうかにかかっているのだと思う。

おそらく、与党は野党の政策が「現実的でない」事を指摘し続ける。
そして、野党の政策が与党の政策に歩み寄るようにしむけるだろう。

もし、そこで野党が「現実的でない」というレッテルを恐れて与党案に引き寄せられればしめたものである。
逆に、もし違いを明確にしたい野党がそれに応じなければ「現実的でない」のレッテルを貼ればいい。

いずれにしても「現実的」と「存在意義」の間にある「野党のジレンマ」を利用しない手は無い。

このような攻防は既に憲法改正案で既出である。
民主党は護憲派を抱えながらも、与党が積み上げてきた(好ましくない)「現実」を認めない限りは「現実的でない」という批判を受けざるを得ない。
「政権担当能力」を示したい民主党の現実派にとっては「現実的ではない」のレッテルはなんとしても避けたい事であったろう。
その結果、与野党で「現実的」な改憲案を調整していったのはいいが、最後の最後になってそれが「違いの無さ」=「存在意義の喪失」であることに気が付き、あれこれ理由を付けそこから離脱しぎりぎりのところでかろうじて「違い」を保ったのである。
私はそう見ている。
おそらくあのまま進んでいたら選挙を前にして民主党の存在意義は霞んでしまっていたことだろう。(同じならば自民党でもいいのである)
当然与党からすれば民主党の逃亡は非難すべき「背信行為」であり、「党利」であり、結果的に民主党の政権担当能力に少しは傷をつけることができた。
これに限れば、与党の勝ちであり、このような攻め方をできるのが与党という立場が持つ強みである。


おそらく、これに似た今後の大きな攻防は「イラクテロ特措法の延長」になるのではなかろうか?
小沢代表がこれに反対すると明言しているからである。(本気ならばぜひ応援したいが、小沢代表のことなので何かの取引材料にする恐れはあるが)

民主党は当初から反対したとは言え、与党(自民党)が延々と積み上げてきた「日米関係」という巨大な「現実」の上に決定されたインド洋、イラクへの自衛隊派遣という経緯を持った既成事実に挑むことになる。
「特措法を延長しない」のは今の日米関係を考えれば「現実的でない」として最もレッテルを貼りやすい事案である。
安倍首相とてこれまでの経緯があるので信頼に関わる妥協できない事案であろう。
「日米関係の現実」を乗り越えるリスクに国民が猶予を与えるだけのアドバンテージを築けるかどうか・・・

民主党にとってはこのあたりが正念場になりそうな気がする。(その前に安倍首相がつぶれてしまう可能性もあるけど)

【追記】
民主・前原氏、「テロ特措法延長必要」と発言
これがまさに
>もし、そこで野党が「現実的でない」というレッテルを恐れて与党案に引き寄せられればしめたものである。

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2007/07/31

安倍さんの進退

参議院選挙も終わり与党の惨敗が決定した。

しかし、安倍さんはどうやら継続したいらしい。
自民党・公明党もそれを支えるという。
それはそれでいいが、その理由が気に入らない。

「基本的な政策に間違いは無い。」
とか
「基本的な政策については国民の理解を得られている。」
から
「困難でも、それを成し遂げるのが私の責任」
だと言うが、そもそもそのような独りよがりの「認識傾向」がさまざまな失敗を生んできたのである。

「基本的な政策に間違いは無いが、さまざまな偶発的な失敗が国民を誤解させてしまった」
と勘違いしている。
あるいは百歩譲って
「基本的な政策に間違いは無いが、その手法に国民に誤解を与えるところがあった」
ぐらいにしか認識していない。

一体、今回の選挙の結果からどうしたらこのような都合の良い「原因」を抽出できるのかがわからない。
一体、どのような理路を持ってすれば「基本的な政策に異を唱える国民」を捨象することができるのか?

基本的な政策に同意する人もいれば同意しない人もいるのが現実なのだ。
だから政治が必要とされる。
それを取りまとめて最善を引き出す事そのものが政治家の仕事なのではないのか。
そして、それが政治家の頂点に立つ総理大臣に必要とされる資質そのものではないか。

そもそもの認識からピントがずれているのである。
「失敗」は偶発的ではなく
「基本的な政策に間違いは無い」があのような閣僚を寄せ集めることになり、
「基本的な政策に間違いは無い」が彼らの「逸脱」を許容し、
「基本的な政策に間違いは無い」が年金問題の優先順位を後位に放置させ
「基本的な政策に間違いは無い」が政治手法を強行にさせたのである。

「基本的な政策に間違いは無い」を擁護し、ほころびを恐れ、妥協を許さないところに全ては発しているのだ。
そこへの過度な固執・執着である。
選挙で「不合格」をだされた全ての失敗の根底に「基本的な政策に間違いは無い」があることを分かっていない。

にもかかわらず、継続の理由が
「基本的な政策に間違いは無い」
とくるのだから先は見えている。

総理の進退は総理自身が決めるべきだと私も思うが・・・・こんなエクスキュースを並べるなら辞めたほうがいい。

(追記)
【37議席の衝撃】(上)「進むも地獄」首相の決断 の参議院選2007特集でマックス・ウェーバーの「職業としての政治」の
「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」
を引用して首相の決断について述べている。

しかし、これは首相には当たりそうも無い。
「それにもかかわらず」を言い切っても自信が無いから身内で周りを固めるのである。
そして、批判者とのコミュニケーションを断絶する。
失敗を取り繕う。
人の言説を遮り、その場を自分の言説で埋め尽くそうとする。
いずれも自信のあるものの行いとは思えない。

吉田松陰が好んで使った言葉
「自らかえりみてなおくんば千万人といえどわれ行かん」
もマックスウェーバーの言葉も真実を語っているとは思う。

そして、これらの言葉が首相の脳裏にはあるかもしれないが、残念ながらそれを裏付ける器が(今の)首相には備わっているとは思えない。
そのようになりたいとは思っていても(まだ)そのようになれない。
今の首相にそれを望むのは酷というもので、彼を窮地に追い込むことになりはしないか?
前農相の二の舞はごめんである。

真実を語る言葉を言葉ゆえに模倣してしまえばそこにはヒトラーもいればネロもいるのである。

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