2009/03/06

定額給付金(2)

定額給付金の是非が議論されていた時点では少なからずの国民が非を唱えていた。
しかし、給付が決まった時点では多くの人がそれを受け取ると答えた。

これは、おかしなことだろうか?
私はまったくおかしくはないと思う。
その2つに整合性を求めること、つまり、「非を唱えていたのだから受け取るべきではない」とする論法はいかにも形式的な気がする。
いや、そこに自ら整合性を求める人がいてもいいし、そして、そのような人をみて個人的に(一般化せずに)「良いなこの人」と思うのはいいが、受け取る人がいてもそれは普通のことで別にそこに何の不都合も感じないということだ。
あえて個人的に言うならば、そこに自ら整合性を求める人がいたならば、その人には是非何らかの人をまとめるようなリーダーなりになってほしいなとは思うかもしれない。

逆に、同じ整合性でもその人の公的マインドでは定額給付金を「非」と思いつつも、(もらえないよりはもらったほうがいいという当たり前な)私的なマインドと整合性をつけるためには「是」とするしかないなんて整合性のとり方があったらこれはやばいなと思う。(もちろん、もともと公的マインドから定額給付金を是と思っている人が給付金を受け取ることに異を唱える人はいまい)
これでは人の中に「公的マインド」の居場所は無くなる。


定額給付金の是非はマクロな問題であり、給付金を受け取るというのはミクロな問題だ。
マクロ(より公的)なだれもが一様に拘束を受ける「一般化(法制化)」を議論することと、それが決定しミクロ(より私的)な其々に事情(切実さ)を抱えた個人が給付金を受け取ることは別の問題だ。

ミクロな個人というものは常に生きるための切実な環境にさらされているのである。
その環境も事情も人によって千差万別で切実さの度合いもまるで違う。
だから、どのような最適な(マクロ的な)一般化(法制化)がされても、その「一般化されたもの」と「個人の事情」の間には必ず何らかの不合理が生じるのであり、その生じ方も度合いも様々。
マクロな一般化が全てのミクロな要素に適合的であることはありえない。
マクロな一般化は全体の最大幸福を求めるものであり、ミクロな事情は個の最適化の問題だからその間に完全なる整合性は無い。
ただ、人はミクロの最適化だけを求めても、様々なミクロが其々に勝手にそれを求めれば、最適化どころの話ではなくなることを知っているからマクロなマインドも同時に持っている。
というよりも、その両方のマインドを持っていることを前提に成り立っているのが民主主義であり、現在のシステムなのかも知れない。
互いの関係性を考慮に入れれば矛盾があるわけではないのだけど、形式的には多くの場合は対立的で非整合的なものを内に抱えている。

おそらく、そこからミクロなマインドを排除(ミクロをマクロに整合付けしてしまう)してしまえばきっと全体主義になるだろうし、マクロなマインドを排除(マクロをミクロに整合付けしてしまう)してしまえばきっとそこには秩序は無いだろう。

そのような関係性を考慮に入れず、当たり前のように内在する「形式的な非整合性」に「形式的な整合性」を強いることには私はむしろ大きな危うさを感じる。

とはいってもよりマクロな公的立場にあれば、その役割にある限りにおいて、ミクロなマインドに抑制的であることは当然求められるとは思うけど・・・。

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定額給付金(1)


定額給付金が国会を通過して各自治体が対応に本格的に動き出した。
ある意味、国の財政が苦しい事を考えると将来の税収を先取りしただけのように私には思える。

しかし、今回の給付金が起爆剤になり、景気回復の「きっかけ」になれば「先取り」は「先取り」でも悪いことではない。
景気回復に効果的かどうかの予測が是非の分かれ道になるのだと思う。

私自身は「他の使い道」に比べて「効果的ではないだろう」と予測するから未だに賛成とはいえない。

いずれにしても、通過した以上は「このタイミング」での「他の使い道」は永久に実現しないので、結果がどう出ようが、その結果によってそれを評価することは難しい。
もし、何かしらの評価を可能にするのなら、この政策で「如何程の効果」が期待されるのかを前もって試算し、公表でもするしかなかろう。
そのようなことが無い限り、どんなに効果が無くても、「この政策を採らなければさらに景気は悪化していた」ともいえるし、逆にどんなに効果が出ても「他の使い道を採用していればより効果があったはず」ともいえる。
試算があれば、その試算の根拠を分析することができ、党派的な事情も浮き彫りになる。

あの政策とこの政策のどちらがより妥当であったかということは検証のしようも無いが、政策が当初期待した効果を上げたのかを知ることはそれだけで十分有益なデータになるだろう。
将来的な予測精度を上げることにもなると思う。

予測はどんなに精密に予測しようと「不測の事態」は発生するものだ。
まして今回のような世界的不況は予測を立てるのに参考にすべき信頼の置けるデータがそろっているわけではないのでなおさらだろう。
だからといって、「確定しない未来のことを予測するのは無益である」とするのは飛躍のしすぎだ。
それが無いと政策には何の根拠も必要なくなり何でもありになってしまう。

賛否両論は世の常であり、そのような賛否両論も、いずれどちらかを選択せざろう得ない。
だから、私がどんなに納得のいかない政策であろうと、その政策が採用されることも当たり前のように起こって良いことだと私は思うし、私が「こちらが良かった」という政策との比較評価も「水掛け論」や「後出しじゃんけん」にしかならないだろうとも思う。
しかし、「ある現状認識をして、それを根拠に予測を立て、妥当なアクションをとり、結果が出る」という一連の流れ自体は「政策を立案した者たち」の間に閉じた共有された価値観のレイヤー内で捉えることができる事態なのだから評価は可能なはずなのだ。
それを明らかにすることは政策を立案し実行するものの最低限の「誠意」であり「義務」なのではなかろうか?

そのような「不測の事態」をあらかじめ織り込みながらも、今できる最善の予測を立てる努力は必要で(人事を尽くして天命を待つ)、それを評価できる指標を残す仕組みも必要なのではなかろうか?


まだ、起こっていないことを試算して公表することは当然それが達成されなければ非難される材料を残すことになるのでリスクを伴う。
具体的に日本の政党政治で言うならば、敵対する政党に非難の口実を与えることになる。
でもこれは、相互的でありさえすればよいことであり、マニュフェストが次第に当たり前のようになってきたのと同じように、それが普通のこととして常態化すればいいだけのこと。
そして、今の日本を見れば、「不測の事態」をまったく考慮に入れないヒステリックなマスメディアの格好の餌食にもなるかもしれない。
これは、根拠や試算の好評が常態化すれば「不測の事態」も考慮に入れざろう得なくなるだろう。

試算や予測を予め公表して評価の指標を残すためにはクリアしなければいけない環境の成熟も同時に必要になるのだとは思うけれども、今のままでは政治に合理性は望めない。
国政は日本国内ではもっともマクロな領域(システム)である以上、国内のミクロなどんな問題よりも合理的であることが求められる。
マクロなものは、それがマクロであるというだけでミクロには様々な不合理を押し付けるのである。
それだけになおさらのこと「最大幸福」がなされるように「合理的」に「一般化」されなければならない。
政治家に自分の個人レベルや党派レベルのミクロな事情でマクロな仕事をされてはミクロな国民は不幸になるばかり。

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2008/12/09

政界再編?

麻生内閣の支持率低下のニュースがあった。
解散総選挙までのつなぎの性格しかない政権であったにもかかわらず、急激に深刻化した金融危機の流れに飲み込まれて麻生総理は政権の延命を夢見てしまったのかもしれない。
確かに、世界の状況が激変し選挙などしているときではないというのはひとつの見識だと思う。
でも、やはりそれは政権が政権として機能することが前提になる。
最近のいくつかの政権は小泉さんが小泉政権の下で「郵政民営化」ただ一点を争点として獲得した「権力」で食いつないできたものだが、その政策は見る影もなく変質し、にもかかわらず、その資産の恩恵を吸い続けることに何の躊躇もないのだから求心力を期待するほうが無理筋だ。

その権力を受け継ぐからにはその政策を「踏襲」するべきだし、政策を転換するなら国民の信を問うかのいずれかをとるのが筋。
民主主義はその正当性を手続きに委ねているのだから、そのあたりを手前の勝手でこの「委譲された権力」を継承されるとシステムが成り立たない。
私自身は世間が言うほど福田さんを低くは見ていなかったけど、福田さんが「解散」を選択しなかったことには大きく失望した。
福田さんこそが小泉資産に引導を渡し、区切りをつけ、何らかの清算をする使命を追った人だったと思っていたのに。

しかし、それはもう過ぎてしまったこと。
最近は政界再編が話題になっているようだ。
内部の亀裂が表面に出てくるようになり、自民党はもう党として機能しなくなってきているので、そのような話題にもなるのだろう。
しかし、政治家自身は何を基準に再編しようとしているのだろう。
「政治理念」?
そのようにも思えない。
どちらかというと
「生き残り」
を掛けた「政治家としての生存競争」になってくるのではなかろうか?
今の総理を自分たちが選んだということすら都合よく忘れてしまう人たちがどこに移ろうと変わりはしないだろう。
かつて流行った「自己責任」もまた見る影もない。
「政治家」であるために「選挙」に勝てない組織から、「選挙」に勝てる組織に移るだけのこと。
また、不都合があれば別の組織を渡り歩くことになるのだろう。

でも、たとえ真剣に政策で再編が試みられたとしても、世界も日本もより複雑化しているので、これまでのように「保守」とか「リベラル」とか単純に割り切れる時代ではないし、たとえ形だけ単純に割り切られても対応できないだろう。
以前、省庁の再編があったけれども、政界の再編もそれと同じで看板だけが掛け換わるだけに終わりそうだ。

私は政界再編になどまったく期待をしていない。

そんなことよりも自民党議員は自民党に踏みとどまり、野に下り、しがらみから開放されたなかで、風通しをよくし、そこからやり直して民主党に再挑戦してみてはどうか?
そのためには政治屋ではなく政治家を選挙で選ばないとだめだろうな。
別館で以前書いたマクロとミクロで言うならば、ミクロを尊重し、そこにマクロの契機があることを忘れず、常にそこへの配慮を持ちながらも、よりマクロな視野にたって、ミクロとマクロの矛盾を一身に引き受けることができるような人。

これは「自己犠牲」ということになるけど、そんな人はもう出てこないかな?

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2008/01/30

「ガソリン国会」っていうのでしょうか?


正直言って国会を見ていても、TVの政治家の話を聞いていても何を話し合っているのか分からない。
とにかく互いに理解しないように論点をずらしてとぼけているようにしか見えない。

きっと彼らは相手を理解することは、相手に利するだけだと思っているのだろう。

相手が自分の土俵に乗らない事を「相手は議論しようとしていない」と言いながら、自分が相手の土俵に乗ろうなどとはこれっぽっちも考えていない。

相手の土俵に乗らないまでも、自分も相手もそれぞれの土俵から離れようとはしない。
離れた途端に相手の土俵に引きずられると「疑っている」から。
「不信」もここまでくるとにっちもさっちもいかなくなる。
(ふと以前書いた「できてもしないこと」の影響はこんな風に出るんだろうなと思ったりもする。)

これだけ政治的妥協が下手だと、これが外交で、他国と対立があって、日本が軍事力を持った国だったとしたらいずれが政権の座にあっても「戦争回避」なんて夢のまた夢に思えてくる。


ただ、確かに双方ともに困ったことだとは思うけど、それでも日本のためにも、自民党自身のためにも、政権交代したほうがいいと思う。
とはいっても、民主党が優れているからじゃない。
官僚とのしがらみや利権を断ち切りたくてもできないようだから、別の誰かに一旦断ち切ってもらい、再起を期したほうがいいと思うからなんだけ。
高度成長期に染み付いた無駄を許容する体質を改善してスリムになったほうがいい。


私個人の本音を言えば、別に他の税金との兼ね合いがバランスが取れていて、透明性が高く、運用に無駄が無ければ「道路特定財源」でも「一般財源」だろうとかまわない。、無くすにしても急に無くすよりも徐々になくして行くほうがいいとは思う。(過去にそうするといっておきながらやってこなかったからその付けが回ってきているだけでしょ?)
そのような前提が確保できるなら、まだまだ石油が高値を推移していきそうな状況の中で一時的に「ガソリン代」だけが下がっても、一時しのぎでしかないのならばむしろ耐性をつけていたほうがいいのかもしれないし。

でも、道路を作り続けたいのに、山や森を切り開き開発を続けたいのに取ってつけたような「環境問題」を突然持ち出したりしたって説得力無いと思う。
ガソリン代を下げたって、それはガソリン使用量が「維持」されることは有ってもそれでも高いガソリンを誰も以前にも増して使いたいなんて思わないでしょう。
多分、私達庶民はただでさえ生活が厳しいのだから節約し続けるよ。
あれもこれもと法案を通す理由にできるものならなんでもそろえればいいというもんじゃない。
それも、焦点がぼけて議論にならない理由の一つではないのか?


そんなことよりもなによりも、先に書いた
「他の税金との兼ね合いがバランスが取れていて、透明性が高く、運用に無駄が無ければ」
と言う「前提」が現与党の元で成り立つとはどうしても思えないんだよな。

現に、与党はこれまで「暫定」を放置し続けてきた。
道路があれば地方が活性化するというが、計画時点で提出された効果の「試算」がまるで結果とかけ離れているものも少なからずあり、「少ない負担」につられて「便利」を手に入れても、その「少ない負担」の金額はけして小さくなく、試算のように出るべき効果も出ないために回収して歳入に当てることもできず、地方の財政を圧迫したりしている。
それなのに前提の間違いが明らかになりはじめても、野党から指摘されなければ自ら検証しようなんてことは考えもしてこなかったし、その教訓を生かそうなんて思いもしないのだから。
検証能力、合理的センスがまるで感じられない。

これは年金問題でも同じだったはず。
あらゆる資料に野党よりもアクセス可能な立場に有りながら、野党に指摘されなければ(されても)気がつかないほど(責任を問われるから気がついても見ないようにしているのかもしれないけど)機能不全に陥っている。
他党の「政権担当能力」なんて云々している場合ではない。

それに、現在進行形で過去に絞り込んだはずの「必要な道路」を再びその「必要な」を取り払って全てを作ろうとする動きもあるとも聞く。

そのような現状のさなかに、「今以降、ちゃんとやります」といわれたって、そんな空手形を信頼しろと言うほうが無理だ。

本当は信頼したい。
でも、そこまでお人よしにはなれない。

本当にあるかどうか分からないけれども、気がついても気がつかないフリをして見ないようにしてしまう与党には「見えない」財源が、野党には「見える」としてもまったく不思議だとも思えないんだよね。


ついでに。
民主党の造反議員のこと。
比例代表というところは確かに引っかかるけど、基本的には議員なんだから自分の意思で決めればいいんじゃないかと思う。
その代わり、それと同様の理由で、自民党の議員も自民党の法案に反対ならばその意思に従ったほうがいいと思うけど。
党内のごたごたはお互い様で、それは日本や日本を取り巻く世界の実情そのものが多様なんだから仕方が無い事で、政界が再編されたって同じことの繰り返しだと思うよ。(参考:「党の存在意義(2)」)

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2007/09/27

なんか変な夜(朝)だ

昨夜は早めに寝たのに夜中に目が覚めてしまい、TVをつけたらちょうど「ジョニーは戦場にいった」と言う映画が始まったところだった。

この映画を見たのは小学校か中学校か、いずれにしてもかなり昔のことだ。
そして、頭の中に強烈なイメージとして残っている。(殆どトラウマ)
戦争や平和のことを考えているときも、尊厳死のことを考えるときも、意思を伝えられない今介護している母を看る時も、人の認識について考えるときも、この映画の中のジョニーの姿を思い出すことが度々ある。

かといって、もう一度見たいとはなかなか思えない映画で、何度も再放送されているのに、正直言って最初から最後まで見たのは、この最初に見たときだけだった。
それなのに今でも意識の底にこびり付いて離れないでいる。

この映画の中には喜びもあれば、悲しみも在る。
優しさもあれば非情も在る。
幸せもあれば悲劇もある。
そして、希望もあれば絶望もある。
ただ、終わり方がつらい。
せっかくコミュニケーションの手段を見つけたのに、せっかく人や自然や神との感触を得たのに・・・その全てが閉ざされてしまう。

そんなこの映画の進行はあっけないほど淡々と進む。

様々な対立、対比を提示され、それがそれぞれを際立たせ、際立たせておきながら最後に断絶させられ、預けられる。
どこにも投げようもないボールを淡々と何でもないことのように預けられる。

本当に理不尽な映画だよ。
でも、忘れることができない。

そんな理不尽な映画「ジョニーは戦場にいった」を今日は最後まで見てしまったよ。


そんな映画の後に「名画の秘密」という短い番組でフェルメールの絵が画面に現れた。
少しだけホッとする。
ちょうど昨日の平川さんのblogでフェルメールの絵のことが書かれていてWEBで検索してBLUE HEAVENさんのサイトフェルメールの絵を眺めたりしたところだったので、その偶然に少し驚かされた。

その短い番組のあとに、クラッシック・プロムナードで「アランフェス」が流れる。


なんか変な夜(朝)だ。

少し寝るけど、午前中はつらいだろうなぁ。

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2007/09/23

高齢者虐待

「高齢者虐待1万2600件 在宅者が大半」
こんなニュースを目にした。

そこに

「虐待被害者の8割が女性で、半数が80歳以上。家庭での加害者は、息子や夫が多かった。」

などと言う記述があったので、「在宅で母親を介護をしている息子」としてはなかなかスルーできるニュースではない。

一般化した話は専門家や他の人に任せるとして、私の場合のことについて少し書いてみたい。


私が母を介護するきっかけになったのは脳梗塞であるが、その影響で認知症も宣告され、そのような症状も現れた。

介護の当初、私にも「苛立ち」がムクムクと湧き上がった時期がある。

何に苛立っていたのだろうと今考えてみると
「できるはずのことができない」
「するはずの無いことをする」
「こちらの話を理解しない」
等だったと思う。

これらは皆、「以前の母」と「今の母」との間にあるギャップだ。
以前の母こそが母であり、今の母は本当の母の姿では無いという思いだったのだろう。
それは喪失感であり、悲しみを伴った「苛立ち」だ。
(でもそんな簡単な理屈で言えるものでも無いのだが・・・)

「なんでオムツに手を突っ込んで、そこいらじゅう汚物だらけにしちゃうんだ」
とか
「なんでオムツに手を突っ込んじゃいけないって事を理解してくれないんだ」
とか

そんなときにオムツに手を伸ばそうとする母の手を反射的に止める私の手に無意識のうちに必要以上の力が入る。
その手を反射的に叩いたりする。
そして、思うのだ。
ひょっとしてこれは虐待なんじゃないか・・・と
そう気づいて、自分を責める。
それがまた、苛立ちの元になる。

きっと、そんな苛立ちを母も感じ取っていただろう。
そうすると母もすねる。(瞬間的な感情に認知症はあまり関係ないのだろう)
その結果現れる母の反応もまた苛立ちの元になる。

苛立ちのスパイラルのようなものだ。


社会生活や仕事をしているものには「時間」や「手間」にはどうしても制約がある。
そして、様々な振る舞いも、理性により制御している。
でも、母にとってはそんなことは関係ない。
そんな「時間」や「手間」に囚われた私にとってはそれを阻害する母の行為は(私にとっては)反社会的ですらあったわけである。(笑)
これは、社会と介護者を抱える家族とのギャップでもある。

私の場合、そんな色々なギャップが苛立ちにつながっていた。

だから、ニュースにあるような「虐待」を生む状況を痛いほど想像できてしまう。
そして、社会のあり方はそのようなギャップを狭める方向には向かっていないだろうなと言うことも・・・


今は、殆ど苛立ちを覚えることは無い。
以前と同じようなことを母がしても、「しょうがねぇーな、おふくろさんは」と笑っていられる。
むしろ、無邪気な母の顔を見ると不機嫌が癒されることすらある。

おそらく、「以前の母」と「今の母」を結びつけなくなったのだろう。
どちらかを切り捨てたのではなく「以前の母は以前の母」であり「今の母は今の母」であると割り切りはじめた。
そのように「仕向け」続けていたら、そうなった。
そうしているうちに、心持ち母も穏やかになったように見えるのがまた不思議である。

私も人間なので「完全に」と言う訳にはいかないが、母に関して「合理性」を諦めた。
時間をとられること、手間がかかることは「損」であるという合理性を諦めたら穏やかになった。

これを「損得」で見れば、きっと損だ。
聖人ではないので今でも、時々「損」を意識することはある。
でも、そんな風に思っていたときは心は苛立ち、そうでない時は穏やかになるのだからきっと良かったんだろうな。
これから先も、同じように穏やかで居られるか?・・・それは分からない。(私自身歳を取るし、仕事のこともあるし)
外から見て「損な生き方だ」と見られるのも、正直言って「痛い」が、周りの反応を私がどうこうできる訳でもないので、それは仕方が無い。
でも、それで苛立つ訳でもないし、それを考えても答えが出る訳でもないからね。

ニュースに出てくる「虐待」の事例は、きっとそれぞれ皆環境が違うだろうし、症状も違うだろうが、今のところ私の場合はこんな感じでなんとかしのぐことができているようです。

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2007/09/20

ミクロを忘れたマクロ

バグダットバーニングのリバーベントは何とかイラクからシリアに脱出したんですね。
Leaving Home...(原文)
我が家を離れて・・・(和訳)

イラクを離れると書き残したのが4月の終わり。

しばらくの間は定期的にチェックしていたのだけれど、なかなか更新されず、ひょっとしてブログが更新される日はもう無いのかなと・・・

でも、9月6日の日付で更新されていました。
くだらないどこぞの国の茶番劇に気を取られていて不覚にも気がつかなかった。

記事に切々とつずられた離別の描写、思いは、私に彼女が無事であったことを単純に喜ぶ気にはさせなかった。

私は毎日のようにイラクのニュースを目にする。
「どこどこで自爆テロがあり何人が命を落とした」とか「マリキ首相がどうした」とか「政府の高官が暗殺された」とか・・・
あるいは「アメリカ軍の撤退がどうだ」とか「テロとの戦いがどうだ」とか・・・
そういったマクロな情報には事欠かないが、これら何の人の気配を感じさせないマクロな情報の中には、それこそ私達と同じように一人一人のミクロな現実があるんだと言うことを痛感させられる。

アフガンとイラクがどうだとか、国連決議1386がどうだとか、そんなことにばかり気を取られてそれらの原点を忘れていたような気がする。

今回のリバーベントの日記にあるのは悲しみ、恐怖、安堵・・・そして、そんな中でも忘れないユーモア。
そこに、恨み言は見られなかった。
それを綴ろうとすれば、いくらでも書き続けることができるだろうに・・・
それが、見られなかったことでなおさらそこからにじみ出る悲しみが痛いのだ。
悔しかったろうな・・・

私にはシリアと言う国に脱出して安堵感を感じる彼女の感覚が想像できなかった。
ヨルダンに脱出するイラク人がいることはNHKか何かのドキュメンタリーで見たことはあるが、シリアはテロリストを支援している国だと言うアメリカの報道のせいか何かしら緊迫したようなイメージを持っていたため、リバーベントの

The Syrian border was almost equally packed, but the environment was more relaxed. People were getting out of their cars and stretching. Some of them recognized each other and waved or shared woeful stories or comments through the windows of the cars.

という雰囲気が意外であった。
ドキュメンタリーで見たヨルダン国境のイメージともずいぶん違う。

そして、次の一節が頭にこびり付いた。

Most importantly, we were all equal. Sunnis and Shia, Arabs and Kurds… we were all equal in front of the Syrian border personnel.

イラクに共に住んでいた民族が、故郷を離れた故国の「淵」で、難民と言う立場でしか互いに憎しみ・不信を抱かずに存在できないことの不合理を感じずにいられなかった。

世界の様々なところに同様な、あるいはそれ以上の不合理はあるだろう・・・が今はリバーベントの身に起きた不合理に心動かされてしまうことを許してほしい。

彼女に、そして不合理に見舞われている全ての人に、いつの日か平穏が訪れますように。

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2007/09/19

また・・だ

国連安保理が「謝意」決議へ

参考エントリー「尻軽すぎ

どうしてこう・・事の因果を混同して、「操作」でつじつま合わせをしようとするのかな。
今、この「謝意」を切実に必要とする国家は国連加盟国中で武力行使に強し縛りを持つ日本(の政府)だけじゃないの?
もちろん、他国にも国内世論に好影響を与えると思う国もあるだろうし、日本の世論が変わることで助かる国もあるだろうから、それに乗る国もあるのだろうけど・・・
一国家の、一政権の、一政策のために国連の意向を操作するのはよくないじゃないの?


自分への「謝意」って、働きかけるものなのか?

つまりこういうことでしょう。

日本の政府が 国連にお願いした「謝意」 を日本の国民にありがたく押し頂かせて 「ほら 国際世論でしょ」 といって その政策の正当化を図る。

これって・・・独立した民主主義国家なの?

「政府は国民を代表していません」「自国の政策を自国では決められません」ということを大々的に宣伝しているようなものじゃない?
実際にそうなんだけど、そんなもの世界に向けて発信することでも無いだろう。

小沢氏の国連主義だって、国連の枠で、最終的に自国で決定するのだからこの手法ほどひどくは無い。
この国連の枠を、一政権が操作して、自国の決定を方向付けてしまおうというのだからね。
枠にはめて制限することと、枠を利用して制限を取り払うことはまるで違うからね。

まさかそんなことは無いと思うが、小沢氏の国連主義の矛盾を国民に知らしめるために「国連なんてこんなもんだよ」という状況を意図的に作ろうとしたのならば国連への侮辱もはなはだしいということになる。

そんなことは無いと思いたいが、意図的に既成事実を積み上げて、その既成事実で人の心を誘導しようとするのがこれまでの政府が散々使ってきた手法だから・・・ついつい「穿った見方」をしてしまうんだよ。

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2007/09/14

野に下るまでの間

立花隆氏のNikkeiBPの記事「週刊現代が暴いた“安倍スキャンダル”の全容」 を読んだ。
うわさには聞いていたけど、週刊現代が暴いたと言う安倍さんのスキャンダルはけして小さなスキャンダルではなさそうだ。

もしこれが事実ならば、私の前回のエントリーはかなりの「お人よし」だったということになりそうだ。
もし本当のお人よしになれるのなら本望なんだけど、お人よしになりきるのも難しいものだ。
なんでこんな人が首相に選ばれてしまうんだろうね・・・自民党の皆さん



ところで、次は福田康夫さんですか。
覚えてますよ、年金未納問題発覚時の鮮やかな幹事長辞任劇。
結果的に、その辞任が民主党の追及の手を鈍らせ、他の未納疑惑の閣僚達を救ったと私は思ってます。
小泉さんと政策が違うにもかかわらず、小泉政権の幹事長を長きに渡り淡々と隙を見せずに勤められたことも。

今の自民党の中ではまっとうな路線じゃないですか。
これまでのANAの右傾グループのイデオロギーも少しは修正されそうですから。
アジア外交もさらに安定するでしょう。
でもANAに期待してきた自民党支持者は落胆するでしょうね。
私は良いけど

でも、小泉・安倍内閣によって積み上げられた既成事実は放置されたままです。

今回の総裁選を見ても勝ち馬に乗り雪崩を打つ自民党の先生方の節操の無さは変わりません。

安倍さんを生んだのも、安倍さんの右傾を後押ししたのも、強行採決に加担したのも、今の国会麻痺状態が予想されたのに誰も国のために安倍さんの続投を体を張って止められなかったのも皆自民党の先生方です。

一息つけば、また亡霊のように現れるのではないですか・・・彼らが


福田さん、貴方だからお願いするのですが、自民党が野に下るまでの間、

行政機構の改革、別に反対しませんが、市場(民間)に投げ出すだけで済ますのはやめてください。
独立行政法人・特殊法人のような準行政機構の実態を透明化してください。
消費税のまえに、そろそろ十分な利益を上げ始めた法人(大企業)の課税率を見直してください。
以前のようなばら撒き、私も賛成するわけではありません、きめ細かに必要なところを見極め効果的な税金投入をしてください。
無制限な対米追従、少なくとも国家の体を保つぐらいの境界線は守ってください。
感情的な煽りを控えてください。
少なくとも改憲もしていない今、憲法を守ってください。
「テロとの戦い」を建前ではなく事実に基づいて検証をして展望をはっきり示してください。
強引に既成事実を積み上げないでください。
安倍総理が設置した各種お友達諮問機関を解消してください。

自民党に多くは望みませんが、この内容ならば福田さん御自身の基本政策路線から外れると言うことも無いでしょう。
解散総選挙までの自民党のお守りを頼みましたよ。

あ、まだ決まったわけじゃなかった・・・でも、国会が止まっているのだからメディアを独占しようなんてミミッチイ事しないでさっさと決めちゃってください。


【追記】本文中でも「もしこれが事実ならば」と少しかわした書き方をしておりますが、さらに公正を期すため、安倍さんの事務所側の言い分を記した日経スポーツの記事へのリンクを記すと共に、そこで述べられている部分を引用しておきます。[2007/9/15 21:20]


首相の事務所が週刊現代の取材に警告」2007年9月13日4時54分

事務所側は「当時の政治資金規正法は、あらかじめ届け出た指定団体が寄付金を取り扱うよう定めており、晋太郎氏は、個人で受けた寄付金を自分名義で指定団体に寄付していたにすぎない」と説明。「個人資産を寄付したというのはまったくの誤り」としている。

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2007/09/12

なんと言ったら良いのだろう

安倍さんが辞めた。
タイミングは最悪だ。

それだけ精神的に追い詰められていたのだろう。

私は安倍さんのイデオロギーも、手法もとてもついていけないが、有力政治家とか総理大臣とかそのようなタイトルのない一個人にはなんの恨みも無い。

そんな別の心情から、安倍さんの周辺は安倍さんをしっかり見守ってほしいと思う。
このような辞め方をせざろう得ない精神状態はさすがに尋常とは思えない。
政治家として、この挫折は安倍さんにとってはとてつもない(すべてを失ったかのような)ダメージになっているはず。

なぜ、参院選敗退後に体を張って辞任を勧める側近や同志がいなかったのかと悔やまれる。
自己責任なんて標榜する自民党の先生方は自業自得なんていって突き放すんだろうな・・・

それにしても、政治の空白以上の、議論も行われない大穴が開いちゃったな。
困ったことだ。

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邪悪だよ・・・ホントに

今年も9.11がやってきた。

毎年、この日が来て、イラクの状況やテロとの戦いの進捗を振り返りながら、そこに全く変わらない状況を確認することを繰り返す。

引くに引けないって言い続けて、それが続く中で死傷者の数だけが増えていく。
イラクの民間人の犠牲者はイラクボディーカウントによるとすでに7万人を超えると言う
これには民間人以外の犠牲者は含まれないのだろう。
それらを含めると一体どれだけの犠牲者を出したのだろう。

今年はアフガニスタンの状況も確認しなければいけないことだけが去年と違う。


出口が見えないのに「引くに引けない」

これもまた「観念」なんだよな。
「支配したい」「支配されたくない」「秩序を維持したい」「秩序を破壊したい」「守りたい」「排除したい」・・・・・・・・

このうち、どれ一つとして成就しないのに、していないのに、する見込みも無いのに延々とそれを求め続ける。
誰もが「する」事を断念したら「される」立場に追いやられることを確信している。

あるべき元の姿があったならどんなに良いかとも思うが、立場によってそれは違ってしまう。
誰かがどこかで我慢をして、その我慢を我慢して信じる事ができない。

さまざまな欲望やそれを補強する観念や理屈や信心が人を殺していく。

「観念」によって人が殺されていく。

邪悪だよ・・ホントに。

イラクから米軍が撤退したら、治安を回復しようとして米軍に(国際社会といっても良いけど)協力的だった人々は裏切り者扱いされるのだろうなぁ。
とか
テロリストは「勝った」といって「自信」を持ち勢いづくのだろうなぁ。
とか
彼らが勢いづいて中東の石油供給システム・市場が崩壊すれば「経済」は崩壊するだろうなぁ
とか
その崩壊を防ぐ勢力に力を貸さないとシステムが崩壊しなくても、「経済」の恩恵は受けられないだろうな
とか

まだここにはありもしない色々な「悲劇」や「私の不利」が次から次へと、あたかも現実にそれがすぐそこに有るかのように想起され、想像力逞しくイメージされたリスクをヘッジしようと総動員される。

「降りたら負けよ」のチキンゲームを繰り広げて、そのゲームが続く間、皆が負け続ける。

負けているつもりは無くとも、「負け犬」と人々を蔑みながら、人は不安に駆られ、監視され、動員され、奪われ、運が悪ければ命を失うのだから負け続けているんだよ。

一体何を守りたいのだろう・・・私たちは

勝ちを望んで、負けてはいけないと必死に何かにしがみつきながら・・・負け続けているんだよ、誰もが・・・

「いや、誰かがきっと得をしている。」って言うかもしれないけど、その時点で、もう負けているんだよ「本当に大事なものを守ること」に・・・きっと

皆がいっせいに言えれば良いのにね「い~ち抜けた」って

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2007/09/11

日本の原則

日本の国内の世論を変えたいと思うときに「国際社会の常識」などと言う言葉が使われる。
そしてこれが意外に効果がある。
どこかに一様な「規範」があると仮定し、それに従うことにそれほど抵抗感を感じない。

日本の規範意識が常に外(世間とか)に置かれがちであることを考えると、いかにも日本的だなと思う。(関連エントリー:「内なる公共心」)
さしずめ、「国際社会の常識」は日本版「世間」の世界版のようなものだ。

国際的であろうとする手段が、日本的になるところが面白い。

とはいっても、間違えない事においてはそんなに悪くもないだろうし、日本が今の位置にいることができるのも、このような外への気配りにあるともいえるので、生存戦略として見ればそれは日本の強みなのかもしれない。

しかし、先進国としての「貢献」とか「責任」とか言うものを考えたときにはやはり、日本は日本なりの原則を意識しておく必要があると思う。
自ら決めたと言う意識が無ければ「責任」なども意識はしない。
(ついでに言えば、多数があるからといって強引に押し通した法案が国際的な約束のようになってしまっても、自ら決めたと言う意識を共有していなければ「責任感」などうまれない。だから手続きが重要なのであり、手続きへの信頼も重要になる。)

私はこの「国際社会の常識」と言うのは「結果」だと思っている。
国際社会をリードする国々がそれぞれの国の国情の最適化を計った結果の集まりのようなものだと思う。
それぞれの国にそれぞれの特徴や事情、制約があり、それら原則と協調のための妥協の結果現れるものだと思う。
結果として現れた「形」は常に「仮説」のようなもの。

だから、形(表層)は常にその前提の変化に伴って変化していく。
大元に共通の何かを持っていても、その手段は変化するし、国情によっても、現状認識によっても変化していく。
その変化は追っていくものではなく、それぞれの国で「生まれる」結果が集まって変化として現れる。

イラク戦争にコミットしていても、状況が変われば、たとえ大元に共通するものを共有していようとも自らの判断で撤退もするし、アフガニスタンへのEUのコミットメントもそれぞれの国情が変化すれば撤退することもありえるだろう。

政府や財界がいう「国際社会からの評価」も、そのときにはまた違ったものになるだろう。


地理的な違い、歴史の違い、さまざまな違いがある中で、それぞれがそれぞれに「良い」と思うものを原則としながら、協調のために「最適」を求めて妥協していく。
でも、原則が無ければ「妥協」という概念すらも成立しない。


ただ一番気にかかるのが日本の「原則」がいつのまにやら、その結果である「国際社会の常識」とか「米国との同盟関係」になってしまっていることだ。
特に、「米国との同盟関係」が「原則」のようにしてさまざまなことが決まっていくのは日本と言う国の存在価値すら奪われかねない。

日本にとって米国の同盟国であることが国民の望む原則なのか?

米国の同盟国であることは「妥協」でしかないのではないのか?

それでは、それを「妥協」にしている「原則」と「現実」とは何なのか?

「現在の平和憲法」を変えていくことが意味するのは、「原則」をかなぐり捨て「現実」との「妥協」の煩わしさから開放されたい「妥協」を担う政治家の力量不足による責任回避・放棄に過ぎないのではないのか?

そりゃ矛盾はある。
だから妥協がある。
妥協が必要だから外交が必要で、政治が必要で、政治家が必要なはずだ。
矛盾を飲み込めない政治家なんてその存在意義すらない。

矛盾が嫌だからといってその原則を現実で置き換えたときに、そこに残るものは国民が望むものとしての「原則」の条件を満たしているのか?
「しかたがない」は「望み」ではない。

「妥協」であるはずの「米国の同盟」がいつの間にか「原則」になってしまっているこの国の政治家は、それこそ「国際社会の常識」からハズレまくっているのではないのか?

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2007/09/07

アフガンとイラク

アフガンとイラクを区別しろと言うけれど、法律の経緯に区別はあっても、その現状は区別などできまい。

テロ特措法は、9.11直後の認識で立てられた時限立法であり、イラク戦争の「イ」の字も想定されない時点での法案である。

それ以降の過程で前提が変われば当然見直されるべきものであるにもかかわらず、何の検証もせずに、まともな議論もせずにただの「延長」でごまかして、放置しながら現在に至っているのだから法律と現実とに矛盾が出るのは当たり前である。

日本が追随しているアメリカ(政府)は一貫して「テロとの戦い」としてイラクとアフガンを区別などしていない。
区別していないアメリカ政府のもとで展開されている米軍と行動を共にしているのだから、日本の米軍支援にイラクとアフガンを区別することはできないだろう。

国連決議1368(注1)は先進国の多くが賛意を示したとは言え、それぞれの国はそれぞれの国の国情にしたがってその行動を自ら選択したし、そのように解釈できる決議だった。
それなのに、政府は米国に追随するために国情(制約)を無視して「米国のような」国連決議の解釈を選択してしまったのだ。

本来ならアメリカがアフガニスタンへの武力行使の根拠とした「テロとの戦い」に関連付け、その延長線上にイラク戦争を意図した時点で国連決議1368にも立ち返って、日本の国情と政府が選択した国連決議の解釈との更なる乖離を検証していればまだしも、イラク特措法まで作り出して米軍と一体化してしまったのだから救いようが無い。

アメリカのイラク戦争突入で、国情を無視してまで政府が選択したどちらとも取れる国連決議1368の解釈も完全に破綻してしまっているのだ。

アフガンとイラクを区別しているのはEUであり、アメリカにもイラク戦争に否定的な風潮が広がるにしたがって区別する傾向は出始めたが、それを区別し始めたのはアメリカ政府以外のアメリカであり、日本はEUや「政府以外のアメリカ」に協力しているのではなく、アメリカのブッシュ政権に従っているのである。

このような政府の手続上の「手抜き」の結果現れた「矛盾」をその当事者自ら「現実」のせいにするのは本末転倒である。
最近の企業犯罪や社会保険庁の構造と全く同じで、問題を放置して、既成事実を積み上げ、その結果生まれた問題の責任を追及されることが無いように現状を追認することで問題を大きくしてしまう。

もはや既成事実である以上、時間を戻さないかぎり「手抜き」で生まれてしまった矛盾は日本の面目に傷が付くこと無しに回復することはできないが、既成事実にひきづられて道理に合わない状態を追認してしまえばそれ以上の傷が付く。

「手抜き」で積み上げられた「既成事実の矛盾」の責任は政権担当能力に欠けていた現与党が取るべきものであって、参議院で野党がその回復を図ったとしてその結果日本の面目に傷が付いたとしてもそれをもって政権担当能力を問うのまた本末転倒であろう。

米国の下院で「対テロ戦争への貢献など日本の安全保障に関する努力に感謝する決議」なるものも可決されたようだが、リップサービス以外の実質的な感謝を何らかの具体的行動で示されたわけでもない(例えば北朝鮮問題)のだからなんらかのobligationを負ったかのように「情」に動かされないようにしたいものだ。

かといって、少なくともアメリカも悪意があってそうしているわけではなくアメリカは当たり前のことを当たり前のようにしているだけで、アメリカからの実質的な見返りが無いとかリップサービスだとか言うことを責めるのはおかしな話である。
相手の責任などではなく、望みもしないものを他責的に「しかたがない」と言って何を望んでいるのか表明しない日本の姿勢にこそ問題があるのだから。
たとえ妥協するにしても妥協するのはその後だ。

素直に「ありがとう」といいながらそのうえで「でもテロ特措法の延長はできないよ」と言い、それを言いつつ「延長はできないが、テロ撲滅のために日本ができる事は誠心誠意取り組んでいくつもりだから今後もよろしく」と言えば良いのだ。


【注1】
せっかく国連決議1368が話題になっていたのでそれについて少し。

国連決議(1368)はどうなっているかといえば、9.11を「テロリストによる行為」と認定し、その上で「テロ行為」に対して国際社会が一致団結して、取り組むことを求めている。
この決議の契機は9.11ではあるとしながら、具体的な要求の対象が9.11に特化したものであるかどうか、「責任を追及し裁く」対象が9.11に関与に特化したした「その」テロリストであるかどうかはどちらにも解釈できそうな記述に読める。
少なくともイラクを名指し具体的な行動、権限を承認した湾岸戦争時の国連決議(678)のように、アフガニスタンという固有名、タリバンやビンラディンという固有名が出てくるわけではない。
前段(前文、および1,2項)は具体的に9.11に焦点を当て、後段(4,5項)をテロ行為に対する姿勢・決意・協調を一般化した文言で記述されているような構成になっている。(3項はどちらとも取れる)
そしてその構成ゆえに全体としては、前段を全ての後段の前提としているようにも取ることもできるし、前段を「契機」として後段をテロ一般に言及しているようにも取れる。

これらは、事件発生直後の決議なので、その緊急性・重大性にもかかわらず具体性に言及するまでの材料が乏しかったという事情も考えられるが、その事情によって具体的に言及していないという事実を無視できるわけではない。
ただ、具体的な記述が可能であったか可能でなかったかよりも、むしろそれぞれの国がそれぞれの国の事情を抱えていることを考慮して(9.11を契機として強く意識させながらも)解釈の自由度を確保して決議を成立しやすくするために敢えて後段を一般化した文言で慎重に記述されたように受け取れる。

私は法律文書や英語の専門家ではないので、その読み方が正しいのかそうでないのか分からないが、国連の決議そのものがそもそも玉虫色であることを理由に小沢代表に国連主義に疑問を投げかける専門家もいるぐらいなので湾岸戦争の決議(678)よりさらに具体性を欠いたこの決議が解釈の幅を広げたものと見てもそれほどおかしな話ではないだろう。

1368の採決に賛成票を投じながらも後段に記述された要求をアフガニスタンへの軍事行動に参加、協力するという具体的な形で応えなかった国(中国、ロシアなど)もあり、それらの国が国連の意向を無視しているとして非難されるわけではないので「実質的」には各国の具体的行動についてはそれぞれの解釈に委ねた形になっているのだからそのように見るほうが現実的だろう。


そして各国の判断に委ねられたこの国連決議1368を(その是非はともかく)当時の日本政府は自らの判断として前者の「前段を後段全ての前提としている」という「解釈」をとる立場に立って受け取ったということだと思う。

だから、国連決議1368を小沢代表の言うように解釈するするのも『あり』であり、彼の解釈が政府と違う解釈に立っているとして指摘することはできても、『間違い』とするのは無理があると思う。

もし、国連決議1368を根拠に小沢代表の延長中止論に反論するならば、答えを生まない「解釈論議」に終始して議論が矮小化されてしまうことであろう。

その妥当性を議論するならば、これまでの経緯、現況、今後の展望を精査し、日本の理念・国情に即して実質的な議論をしてほしいものである。

【参考】
国連決議(Security Council Resolutions)
外務省の国連決議1368訳文

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2007/08/28

穿った評価

安倍さんの新しい内閣の組閣が終了した。

自民党内のバランスに配慮しながら、嫌いなものは排除したような組閣だった。

概ね選挙後に安倍さんを擁護する立場をとったメディアや人は「期待」に、批判する立場をとったメディアや人は「失望」に焦点を当てているように見える。

組閣前も組閣後もあまりそのあたりには変化は無さそうだ。
世論もおそらく同じで、全体的には選挙で示された批判の「雰囲気」はあまり変わっていないように思える。

それでは、安倍さんが誰をも納得させることができるような、あるいは、大きく評価を変えることができるような組閣ができただろうかと考えると、きっとそれは無理だったと思う。

一つ一つの事柄には多面性があるので、好意的に見れば「良いこと」も、穿った見方をすれば「悪いこと」に見えてくる。
それがいい事かどうかは判らないが、必ずしも「事実」が事の良し悪しを決定してくれるわけではない。
信頼が無ければ、どうしてもその評価には「穿った見方」が幅を利かせる。

求心力を失うとはそういうことなのだと思う。


たとえば、安倍さんは選挙中、選挙後を通じて安倍さんに批判的な立場をとり続けていた舛添要一氏を厚生労働相に指名した。
私自身も違った意見を持つ人を入閣させるということは悪いことではないと思う。

しかし、それが良い結果を齎すかどうかは「違い」を超えて共有できるものを持ちえるか、それを包み込んで一つの力に結びつけることができるかにかかっている。
それが「信頼」とか「人望」とか「器」、人によってはもっとプラグマティックに「力」とか表現されたりする。

一般的には良さそうなテンプレ的な手法もその前提を満たしていなければ良い結果を齎さないばかりか、下手をすれば内閣がバラバラになる要因ともなりかねない。

しかし、残念ながら私はその安倍さんの技量を信頼していない。
「違い」を吸収しようとする傾向よりも、「違い」を「排除」しようとする傾向を何度と無く見せつけられてきた(と観念している)から、そう簡単には信頼することができない。

それは、「違った意見を取り込む」という「手法」「事実」によってその是非を判断しているのではなく、それ以前の「前提」に対する「評価」に拠っている。

先人の言葉をその前提を無視してテンプレ的に適用させてしまう安倍さんが、今度は定石(手法)をその前提を無視して取り入れただけなんじゃないかなぁ・・・なんて思って(穿った見方をして)しまうのである。

もちろん、可能性としてはガラッと変わる可能性はいつでもオープンなのだけれども、それは起こりにくいだろうという帰納的、確率的な判断だ。(その可能性において私の判断が間違っている可能性もオープンだ)


今回の組閣には、舛添さんの起用にかぎらず、ほかにも特徴はある。
事実として閣僚の年齢が高くなったが、それも好意的なものにも批判的なものにも回収できる。
前回よりも「お友達度」が下がってもそれをバランスが良いと見るか特徴が無いと見るか分かれるところだ。

実際のところは(その是非はともかく)年齢が低かろうがお友達度が高かろうが評価を得ることができる人はできる。
現に安倍さんの総理としてのデータが無い段階ではそんなことは(怖いぐらい)問題視されていなかったはずだ。

おそらく、安倍さんは組閣に対する負の評価をもどかしく思い、その穿った「評価」を不当に感じているだろう。
「なぜ私の真意を理解してくれないのか」と

でも、それが求心力を失うということなのだと思う。


安倍さんが大敗を喫してもなお「継続」を選択したということは、すべてが「うがった見方」をされてしまうことを「前提」としてスタートしなければならないという事なのだと思う。

政策の是非はもちろんあるの(あるべき)だけれども、それはこれらの前提をクリアしないとなかなか話題にはしてもらえない。
だから普通は「責任を取って」と理由をつけて辞任することになるのだろうけど・・・


【追記】8/31
新聞各社の世論調査が出てきました。
バラツキはあるにせよ予想以上に新内閣の期待は高かったようです。
ただ、各社ともその中身を見ると安倍さん個人への期待はあまり高くないようですね。
むしろ安倍色が薄れて閣僚の顔ぶれが無難なところが安心感を与えたのかな?

これが、よく言われるご祝儀のようなものなのかどうかはしばらくすれば明らかになるでしょう・・・きっと

ところで予想はされたことだけど、ここまでメディアによって結果の違う「世論調査」って・・・この統計的手法の「信頼性」をどう考えたら良いのでしょうね。


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2007/08/15

パール判事

私は、極東裁判におけるパール判事(私は過去のエントリーではパル判事と書いていたけど)に以前から興味を持っており、私自身影響をかなり受けていると思う。

今日、そのパール判事の名を2度目にした。

一つはSankeiWebの『首相「パール判事の話楽しみ」』という記事、そしてもう一つはNHKで放送された「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判・知られざる攻防~」という番組だ。

パール判事はいわずと知れた極東軍事裁判で『全員無罪』を主張したインド代表の判事である。
「全員無罪」という言葉だけならば、安倍首相の耳には心地よく響くだろうが、その真意はどう考えても安倍首相の「美しい国」とは相容れない。

安倍総理の
「憲法改定」にも、
「従軍慰安婦問題」に対する姿勢にも、
「南京事件問題」に対する見解にも、
「核兵器」に対する甘さにも、
「軍事力」に肯定的な立場にも、
いずれにも相容れないはずだ。

安倍首相の望む「全員無罪」とパール判事の「全員無罪」とは全く『似て非なるもの』である。
もし、パール判事が存命なら、その孤高な正義と法の人の言葉は安倍首相にとって「耳の痛い話」でしか無いだろう。

もっとも、パール判事は他国の最高指導者に対して押し付けがましいことなどは言いそうも無いが・・・

彼は日本の戦時中の行為に非道や悪を見なかったのではない。
明確にそれを(誇張もあるだろうことを加味した上で尚)疑いの無い事実として認め、容赦なく非難している。
誇張があるからそのような事実は不確かだとか無かったなどという安倍首相の立場とは明らかに違う。
そして、他でもない日本人自身がそのことに真摯に向き合うことを心底願っていた人である。

ただ違うのは、彼の非道に対する非難は、戦争に関する全ての(戦勝国によるものも含む)非道・理不尽にも同様に向けられている事である。

「平和に対する罪」「人道に対する罪」といった事後法による断罪は法理にも適わないだけでなく、その罪を逃れうる戦争に関わった国(戦勝国も含め)などはないという事であり、それは「戦争」に、そして「力による平和」に一切の正当性を認めない「絶対的な平和主義」の信念に貫かれている。
そんな「平和主義」に対する絶対的な信念と「美しい国」がかみ合うはずが無かろうにと思う。

「全員無罪」という言葉だけをつまみ食いして、のこのこインドまで出かけてパール判事のご長男に会って何を話そうというのだろう。

「信念」とか「孤高」とか「精神性」といった今の安倍首相が切実に望むものを確かにパール判事は備え、体現しているかもしれないが、そのあり方に触れたときに思い知らされるのはそれこそ圧倒的な「格の違い」でしかないのではないか?

しかし、その「格の違い」を感じる感性が首相に有ったとしたら、
「パール判事は日本とゆかりのある方だ。お父さまの話をうかがえることを楽しみにしている」
なんて暢気なコメントを残してインドまで恥をかきにいく選択などはしないだろう。

私はこのあたりの首相の感性がまるで理解できない。

記事では「アジア諸国などの反発」を心配しているようだが、反発よりも嘲笑を心配したほうがいいのではないか?

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